名手の英断。ゴールまで50mでの逆転。 - 1999年日本ダービー・アドマイヤベガ

1999年6月6日、日本ダービー。

やや遅めのダービーデイはスペシャルウィークが勝ち、武豊騎手が悲願のダービージョッキーに就いた前年よりわずか1日だけ早い。96年フサイチコンコルドから続いた6月ダービーは、以後03年ネオユニヴァース、08年ディープスカイ、14年ワンアンドオンリーの3回(2022年現在)。梅雨が近いこの時期、日本ダービー当日の天候を10日間予報から欠かさずチェックするのは恒例となりつつある。日本競馬界の祭典に青空は欠かせない。

この年の日本ダービーは三強対決。第一冠皐月賞は良馬場発表ながら雨のなか行われ、オペラハウス産駒テイエムオペラオーがサドラーズウェルズから譲り受ける道悪巧者の血を発揮、大外を豪快に差し切った。毎日杯を勝ち、最終東上便に滑り込んだテイエムオペラオーは当時、5番人気。皐月賞までは弥生賞を勝ったナリタトップロード、追い込み届かず2着に敗れたアドマイヤベガの二強だった。皐月賞で割り込む形で三強を形成したテイエムオペラオーはきっと、日本ダービーに向けて雨ごいをしていたのではないか。雄大な馬体、ダイナミックなフットワークで駆けるナリタトップロード、父サンデーサイレンス、母ベガ譲りの瞬発力こそが最大の武器であるアドマイヤベガはてるてる坊主でもぶら下げていたか。

当日、雨は降らなかった。天はテイエムオペラオーを見放したのか。いや、たとえ天にそっぽを向かれようが、皐月賞を勝った力さえあれば、日本ダービーは勝てる。スタミナ勝負なら引けをとらない。なにより、皐月賞は馬場が味方しただけでは勝てない。ナリタトップロード、アドマイヤベガを破った事実は揺るがない。

だからこそ、和田竜二騎手とテイエムオペラ―はつねに先に動き、残り200mで先頭に立つ。押し切れると信じていたのだろう。

皐月賞3着ナリタトップロードに騎乗する渡辺薫彦騎手(当時)は2年後輩である和田騎手に一冠目をさらわれた悔しさがあった。弥生賞を勝ち、世代ナンバーワンを自負するナリタトップロード。だからこそ、日本ダービーは勝たなければいけない。目前にいるテイエムオペラオーが先頭に立ったとき、今だ、テイエムオペラオーさえ交わせば、勝てると信じていたはずだ。

残り100m。先頭に立った刹那、テイエムオペラオーがわずかに態勢を崩す。馬が苦しがっていた。和田騎手は必死に右ステッキを入れ、奮起を促す。その外に並びかけるナリタトップロード。目算通り、テイエムオペラオーを交わし、ゴールを目指す。歯を食いしばり、遮二無二に手綱を押す渡辺騎手。

「渡辺の夢」

実況が先頭に立ったナリタトップロードと渡辺騎手の姿をそう表現したそのとき。

さらに外からアドマイヤベガが飛んできた。ナリタトップロードを明らかに上回る脚色、究極の瞬発力だ。武豊騎手は狙っていた。アドマイヤベガの瞬発力ならば、勝てると。

ゴールまで残り50m。ナリタトップロードが抵抗する距離はもう残されていなかった。ゴール板でクビだけ前に出たアドマイヤベガ。なにか芸術を見ているかのようだだった。うな垂れる渡辺騎手、和田騎手、馬の首筋を軽く愛撫し、軽くガッツポーズを作り、スタンドの声援にこたえる武豊騎手。

はじめての栄光に果敢に挑んだ若い騎手──そんな彼らの気持ちを、武豊騎手はよく知っていた。天才と称された彼も日本ダービーを勝ったのはほんの1年前のこと。スペシャルウィークと出会うまでは、ダービーの壁にはね返され続けていたからだ。勝てるという確信が何度も幻に終わった。勝利への確信はゴール板までわからない。当時、日本ダービー連覇は史上初だった。

アドマイヤベガは決して順風ではなかった。橋田満調教師、武豊騎手にとって辛く悲しい週末だった翌週、アドマイヤベガはデビュー戦を迎えた。レースでは走行妨害をとられ、1位入線4着降着。まさかの敗戦だった。陣営は当初、新馬からエリカ賞、ラジオたんぱ杯3歳S(当時)というローテーションを考えていた。二冠牝馬ベガの初仔にあたるアドマイヤベガは母から才能を受け継ぐとともに、前脚の内向という弱点も譲り受けていた。母ほど重度ではないものの、繊細な仕上げを必要とされる体質と相まって、消耗を極力避ける必要があった。

だからこそ、陣営は未勝利のまま、予定通りエリカ賞への格上挑戦を選択した。ポテンシャルを思えば、突破は不可能ではない。その見立て通り、アドマイヤベガはエリカ賞を勝利、続くラジオたんぱ賞3歳Sも勝ち、1998年を終える。初陣こそつまずいたものの、終わってみれば翌年のクラシック戦線にしっかり乗った。

だが、アドマイヤベガは新たな壁に直面する。翌年初戦トライアル弥生賞では関東圏への長距離輸送の影響から体調を崩した。アドマイヤベガは内向する前脚だけではなく、賢く、繊細な気性をも母ベガから受け継いでおり、驚異的な瞬発力とは諸刃の剣のように難しさを内在していた。弥生賞から皐月賞へ向かう過程で、ガラスのような内面はさらに深刻になり、食欲不振に陥った結果、皐月賞はマイナス12キロ。潜在する能力を発揮できる状態ではなかった。

皐月賞の時期特有のボコボコした馬場に切れ味を削がれただけではなく、アドマイヤベガは勝負所で外目に進路をとりに行ったところ、後方からもっと外をまくってきたテイエムオペラオーに4コーナーで内に押し込められる形になり、広いスペースを消され、馬群に突っ込む形になってしまった。持ち前の瞬発力を発揮するために必要なスペースもなければ、なにより中山の直線は短すぎた。結果、6着。

三強でもっとも不完全燃焼な状況でアドマイヤベガは日本ダービーを迎えた。まず陣営はわずか一カ月足らずで、皐月賞までに見せた繊細な気性に寄り添い、馬の状態を回復させた。当日の馬体重プラス10キロはその努力の証でもあった。

そしてアドマイヤベガの末脚を引き出し切れなかった武豊騎手は戦略を練った。当たった枠番は皐月賞と同じ1枠2番。今度は直線の長い東京ではあるものの、なにせ舞台は日本ダービー。またも内枠でストレスを受ける可能性は残されていた。だから武豊騎手はスタート直後に思いっきり後方に下げた。それは当時もすでに死語となりつつあったダービーポジションに反する作戦だった。フルゲートが30頭近かった時代、日本ダービーは1コーナー10番手以内にいないと勝てないと言われていた。これがダービーポジション。フルゲートが18頭になり、それは死語となりつつあった。実際に武豊騎手も「気にしたことはない」とたびたび答えている。だが実際にアドマイヤベガ以前に1コーナー10番手より後ろだったのは1993年ウインニングチケットしかおらず、レースを支配できる先行馬に利があるという競馬の鉄則を考えても下げるという選択肢は選びにくい状況にはあった。

それもすべて父サンデーサイレンス、母ベガという血を持つアドマイヤベガだからこその選択だったにちがいない。この馬の瞬発力であれば、前半で下げても大丈夫だ。それよりも中途半端に馬群に突っ込みたくないと。幸い、ライバルのテイエムオペラオーは1コーナー8番手、ナリタトップロードは11番手。みんなアドマイヤベガの前にいた。

ナリタトップロードは最大のライバルであるテイエムオペラオーをきっちりマーク。この状況を武豊騎手は冷静にとらえていた。このまま行けばテイエムオペラオーは最後の直線で早めに先頭に躍り出る。そしてナリタトップロードは必ずそこについていく。それは自然なことだった。誰だって日本ダービーの直線で先頭に立てば躊躇はしない。ましてライバルが先頭に立ったならば、なにがなんでも追いかける。和田騎手も渡辺騎手もその時やらなければいけない最善手、ベストを尽くした。

後方からアドマイヤベガの末脚を引き絞るだけ絞って溜めた武豊騎手は、皐月賞を踏まえ、3コーナーから早めに外を意識した進路をとらせる。じわじわと外に出しながら、前を行くライバルたちの脚色をうかがっていた。アドマイヤベガが溜めた末脚をロスしないように4コーナー出口、ギリギリまで大外に出てこなかった。日本ダービーを勝つために計算され尽くした天才・武豊騎手の完璧な立ち回りである。

武豊騎手とアドマイヤベガが勝ち、和田竜二騎手、渡辺薫彦騎手が武豊騎手に負けた。1999年第66回日本ダービーはそんな競馬だった。

その後、アドマイヤベガは生まれつき背負った内向した前脚を痛め、菊花賞6着を最後に引退。ナリタトップロードはその菊花賞を勝ち、最後の一冠を奪取。三強対決は1勝2敗で終わった。そしてテイエムオペラオーは翌年、20世紀最後の年を8連勝で終え、世紀末覇王と呼ばれた。

ベガの牝系、サンデーサイレンス譲りの瞬発力という期待を背負ったアドマイヤベガは2004年、わずか4世代だけを遺し、この世を去った。8歳だった。数少ない産駒からキストゥヘヴンが桜花賞を勝ち、親子三代クラシック制覇を遂げ、テイエムドラゴン、メルシーモンサンが中山大障害、中山グランドジャンプを制し、ブルーメンブラットがマイルチャンピオンシップを勝った。

アドマイヤベガが逝った翌年にはナリタトップロードが後を追い、2018年にはテイエムオペラオーが22歳でこの世を去った。日本ダービーが来るたびに、梅雨に入る間際の満天の夜空を見上げると、星になった三強がそこにいるような気がする。

写真:かず

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