府中開催・豪華メンバーのAJCCを快勝。カネツクロスの「たら・れば」をつけたくなる競走生活を振り返る
GⅠ制覇を確かに射程に捉えた馬、カネツクロス。

1991年生まれ、1994年牡馬クラシック世代の紛うことなき主役は三冠馬・GⅠ5勝馬のナリタブライアンである。しかしナリタブライアンは、古馬になってからはGⅠタイトルを積み上げられなかった。

この世代で古馬となりGⅠの勲章を手にした馬としては、サクラローレル(1996年天皇賞・春、有馬記念/5歳時)、シンコウキング(1997年高松宮杯/6歳時)、タイキブリザード(1997年安田記念/6歳時)、オフサイドトラップ(1998年天皇賞・秋/7歳時)がいた。辛苦を重ねた末に栄光を掴んだ馬が多い世代と言える。

同世代のカネツクロスも、クラシック路線には乗れなかったものの、古馬となり素質を開花させた馬だった。GⅠ制覇は夢に終わったが、確かにその栄光を射程に捉えた瞬間があった。4歳から5歳にかけ、二度の3連勝を飾った時期である。

今回は、私が現地で目撃したカネツクロス明け5歳のAJCC(アメリカジョッキークラブカップ)の圧勝劇に焦点を当てながら、彼の競走生活を振り返ってみたい。

※馬齢は現在表記に統一

ナリタブライアン日本ダービー制覇の日に2勝目を挙げるも、本格化はまだ遠く…。

ナリタブライアンが日本ダービー優勝の栄光に輝いた同日の第3レース、4歳500万下(現在の3歳1勝クラス)でカネツクロスは2勝目を挙げた。のちに芝レースに活躍の場を広げるカネツクロスだったが、この時点ではまだダートの1200m〜1600m戦しか経験していない。

ただ、同期のナリタブライアンがダービーに勝ち世代の頂点に立つのを間近に見ても、ダートを走っていたこともあり、陣営には「クラシックに間に合わなかった」という感覚はなかったのではないだろうか。

無念というなら、青葉賞でダービー出走権を得ながら、態勢が整わず出走を断念したサクラローレルだろう。サクラローレルは打倒ナリタブライアンを念じて、のちに長い休養を経て戦列に復帰することとなる。

カネツクロスはといえば、ダートでの2勝目のあとは芝レースに転じ3勝目を狙うが2連敗、ダートに戻して2戦するが差し届かずのもどかしい敗戦が続き、4連敗。これでカネツクロスの3歳シーズンは終わった。

ナリタブライアンは年末の大一番、有馬記念をも圧勝し、GⅠ5勝目。現役最強どころか、歴代最強馬ではないかという声すら上がるほどの競馬界の巨星となっていた。

快進撃の4歳シーズン。ナリタブライアンとの不思議な運命のもつれ。

1995年を迎え、カネツクロスの素質は開花し始める。父は大器晩成の代名詞のようなタマモクロスであり、芝への対応も全く問題はない。3勝目、4勝目はダートで勝ち星を重ねたが、オープン入りするや芝レースに再挑戦し、メトロポリタンS、エプソムカップと鋭い末脚を繰り出し連勝。

秋には天皇賞(秋)への挑戦も計画され、股関節炎の休養から復帰し、やはり天皇賞に出走予定のナリタブライアンと同じステージに立つ可能性があった。しかしブライアンは調教で本調子にほど遠い姿を露呈し、「今のブライアンなら倒せる」とライバル陣営が色めき立った。そして登録馬が増え、カネツクロスは賞金不足がたたり除外対象となってしまう。

ようやくナリタブライアンと同じステージに立てるかというところまで来たにも関わらず、当の相手の不調が遠因で出走が叶わなかったカネツクロス。さらに、ブライアンの主戦である南井克巳騎手が怪我のため戦列を離れ、天皇賞(秋)ではカネツクロスの主戦・的場均騎手が代役を務めブライアンの手綱を握ったのだから、運命の皮肉を感じる。

天皇賞(秋)で、ナリタブライアンは全くいいところがなく12着に敗れた。

カネツクロスは好調を維持し、12月の鳴尾記念(当時は2500m)を快勝し距離への融通性も見せ、4歳シーズンは8戦6勝という好成績で終える。

一方でナリタブライアンは別馬になってしまったように、3歳時の凄みをなくしてしまっていた。天皇賞は12着、ジャパンカップ6着、有馬記念4着と3連敗。充実の時を迎えていたカネツクロスにとって、敵はすでにナリタブライアンではないのかもしれない。

新しい敵となりそうな豪華メンバーが揃ったAJCCが、カネツクロスにとっての試金石となった。

多士済済のメンバーが集まったAJCC。ファン注目の一戦。

カネツクロスは堂々の1番人気。父タマモクロスは4歳時に天皇賞の春秋連覇を達成している。カネツクロスの出世スピードは父よりは遅いものだったが「タマモクロスの最高傑作になるのでは」と、ファンの期待は高まっていた。

そして2番人気は、前年に日本調教馬として初めてケンタッキーダービーに挑戦したスキーキャプテン。「幻の三冠馬」と言われたフジキセキと朝日杯で接戦を繰り広げた素質馬で、AJCCの戦前には、“競馬の神様”・評論家の大川慶次郎氏が「素質が一枚上ですよ。出来はもうひとつでも勝つと思います」と太鼓判を押していた。

3番人気は、ミスター善戦マン・ロイスアンドロイス。重賞での最高成績はセントライト記念の2着だったが、4歳時には天皇賞(秋)、ジャパンカップで連続3着。明け6歳となっていたが、ファンはここで重賞初優勝を…と支持していた。

4番人気は前年のオークス馬、ダンスパートナー。オークスを圧勝すると秋にはフランス遠征を敢行し、2戦して勝利は挙げられなかったがノネット賞(GⅢ)では2着と善戦した。帰国後、牡馬相手に菊花賞で1番人気(結果は5着)に推されるほど、その鋭い末脚に信頼を置くファンは多かった。

5番人気はマイネルブリッジ。NHK杯、福島記念の重賞勝ちがあり、のちに有馬記念でも3着に好走する実力馬である。

上記メンバー以外にも、セントライト記念勝ちのあるウインドフィールズ、ダービー5着の実績を持つシグナルライト、前走グッドラックハンデを快勝して格上挑戦してきたダストゥーア、そしてこの年ではないが、のちに障害帰りの日経賞で単勝350倍の大番狂せをかますテンジンショウグンまで多士済済のメンバーが集まり、ファンが注目する一戦となっていた。

AJCCを圧勝。待っていろ、ナリタブライアン。

AJCCと言えば1月中山開催の名物GⅡというイメージが強いが、1996年のAJCCは東京競馬場で開催された(福島競馬場の全面改修工事による開催変更のため)。

私はその頃、競馬ファンになりたてで、WINSに通うようになっていた。しかし、東京競馬場は比較的近く、「せっかくの東京開催なら」と思い、AJCCの観戦に赴いた。1月の空気はひんやりと気持ちよく、内ラチ沿いに溶け残りの雪があったことを覚えている。

私は、カネツクロスの先行力はまず信頼できるだろうと思っていた。そして相手は、唯一のG1馬、ダンスパートナーか、前走金杯2着で好調のウインドフィールズか。スキーキャプテンは…よくわからないので、思い切って見送った。

しかし蓋を開けると、ダンスパートナーの体重が、あろうことかマイナス12kgだった。不安がよぎったが、オークスの桁違いの末脚が脳裏に焼き付いていたので、最後は必ず伸びてくるだろう、と考えた。

パドックでダンスパートナーの後ろを歩くカネツクロスに目をやる。素人目ながら、見るからに絶好調に見えた。こっちがGⅠ馬なのではないか、と思わせるほどエネルギーがみなぎっていた。

私は「カネツクロスは信頼できそう。あとは、ダンスパートナーが長い直線を活かして差してくるだろう」と、2頭によるマッチレースと睨んだ。

発走時刻となった。ゲートが開くと、外からウインドフィールズがハナに立つ。カネツクロスも好スタートを切りすんなり番手に収まるかに見えたが、抑えがきかないのか、1コーナーを回り、向正面に入るまでには先頭に立っていた。

やや早めの流れになったのか馬群が縦長に伸びたが、1000m通過は62秒4と落ち着いていた。ダンスパートナーは中団後方、ラチ沿いを追走し、その後ろに白い馬体のスキーキャプテンがいた。不気味だ。

カネツクロスは悠然とレースを引っ張り、3コーナー、最終コーナーと回ってくる。縦長だった馬群が少しまとまりかけたが、直線に入りカネツクロスが伸び始め、スキーキャプテンなど何頭かが外に持ち出し、馬群は縦に横にとほどけた。

ゴール板が迫ってきた。カネツクロスにウインドフィールズが忍び寄るが、差は詰まりそうで詰まらない。ダンスパートナーが内ラチ沿いからじりじりと、2番手に上がってきた。しかし、脚色の衰えないカネツクロスとの差は──やはり、縮まらない。

長い東京の直線だが、カネツクロスは危なげなく押し切ってみせた。2着にダンスパートナー、3着にウインドフィールズ。善戦マン・ロイスアンドロイスが4着、堅実なマイネルブリッジが5着。スキーキャプテンの末脚は不発に終わり8着に敗れた。

──カネツクロスにとって、GⅠ制覇への機は熟した。

ここまでカネツクロスが強かったのは想像を超えていたが、カネツが抜け出し、ダンスが差してくる、レース前のイメージ通りでほぼ決着した。こんなことはそうない。このAJCCは、何度も私の脳内で再生される思い入れの深いレースとなった。

役者が揃う天皇賞(春)を控え、まさかの敗戦と、挫石による回避。

1996年の3月は、スターホースの復活劇が相次いだ。

3月9日、まずナリタブライアンが阪神大賞典で前年の年度代表馬・マヤノトップガンを退け復活の勝利を果たした。前年の阪神大賞典以来、丸1年ぶりの勝利だった。

そして翌10日には、大怪我を乗り越え復帰を果たしたサクラローレルが、約1年ぶりのレースとなる中山記念を圧勝。

復活を果たした両馬とも、目標は天皇賞(春)だった。

カネツクロスもまた、17日の日経賞を勝って天皇賞に臨む算段だった。しかし、不良馬場となった日経賞でホッカイルソーの強襲に遭い2着に惜敗。連勝は止まったが、力負けには見えなかった。

その後カネツクロスは、役者の揃う天皇賞に向け調整されたが、直前で挫石を発症し、出走を見送ることとなってしまった。またしても、ナリタブライアンとの対戦は幻と消えた。

天皇賞でナリタブライアンを破ったのは、ブライアンの栄光の陰で傷を癒やし、牙を研ぎ続けてきたサクラローレルであった。

ローレルとブライアンが明暗を分けた形であったが、2頭と同期のカネツクロスにすれば、雌雄を決す舞台にすら立つことができなかった。歯痒い思いだったに違いない。

ナリタブライアン引退。そして勝てなくなったカネツクロス。

天皇賞(春)を回避したカネツクロスだったが、十分巻き返せると考えるファンは多かったことだろう。

カネツクロスが次の目標と定めたのは夏のグランプリ・宝塚記念。

ナリタブライアンも、天皇賞(春)後に、高松宮杯(この年から1200mのGⅠレースに施行条件変更)、安田記念を経由して宝塚記念に出走するプランがあったが、この異例のローテーションは高松宮杯後の屈腱炎発症で立ち消えた。

カネツクロスにとっては、三度に渡り、ブライアンとの対戦が幻となったことになる。ブライアンはこの後ターフに復帰することなく引退してしまった。カネツクロスは、同期のスーパーホース・ナリタブライアンとついに一度も対戦が叶わなかった。

宝塚記念、カネツクロスは2番人気で出走。しかし、マヤノトップガンのマークに遭い、6着に敗戦する。レースはマヤノトップガンの順当勝ち。このレースで3着に入ったのがAJCCで軽々と退けたダンスパートナーなのだから、この時点でカネツクロスの充実期は過ぎ、力は衰え始めていたのだと思う。

その後は、GⅠレースを中心に出走を続けるが、以前の力強さは失われてしまった。

目先を変えダートのフェブラリーSや、距離を短縮しマイルCSにも挑戦したが、目を覆いたくなる大敗が続いた。AJCCの快走を目の当たりにしていた自分としては、もう休ませてあげてくれ、という思いが強かった。

結局カネツクロスは、AJCCの勝利を最後に日経賞からは11連敗を喫し、1997年の有馬記念を最後に引退する。

最終的な成績は28戦9勝。GⅡ2勝を含む重賞3勝は、当然ながら並大抵では手の届かない立派な成績だが、何かもう一つかみ合えば、同期のサクラローレルやオフサイドトラップのようにGⅠに手が届いたのではないか…という気が、今でもしている。

それほどまでに、あの年のAJCCで長い府中の直線を押し切ったカネツクロスは力強かった。

あるいは、脳内で再生し過ぎているうちに、強さを勝手に増幅しているのかもしれない…。
念の為、当時のレース動画を探して、確認してみる。
──いやいや、やっぱり、強い。

勝負事に「たら・れば」は禁物であろうが、充実期の真っ只中に、万全な態勢でGⅠに臨んでくれていたらと、どうしても思ってしまう。いや、やはり、「たら・れば」は良くない。

それならばせめて、やはり脳内で、あの長い府中の直線を力強く抜け出してくるカネツクロスに、ナリタブライアンや、サクラローレルが襲いかかってくるシーンを想像してみよう。

──よし、カネツクロス! イメージ通り…!

写真:かず

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