[連載・片目のサラブレッド福ちゃんのPERFECT DAYS]満ちてゆく(シーズン1-71)

良い知らせも悪い知らせもなく、1週間が過ぎ、僕から電話したのか、それとも慈さんが連絡をくれたのか記憶は定かではありませんが、「ステロイドを打ってみたものの改善は見られません」という報告に辿り着きました。

脳の腫瘍もしくは骨髄にまで転移したロドコッカス菌を撃退することをイメージしてステロイドを打ってみましたが、効果は見られなかったようです。「これぐらいの仔馬の場合、良くなるとすれば2、3日ほどで劇的に効果が見えるものです」と獣医師が言うように、強い効果と副作用が出るステロイドを用いてみても何も変わらないのであれば、それは効かなかったことを意味します。

週中は、理恵さんが解説つきでダートムーアの25の現状を伝える動画を送ってきてくれました。そこには想像どおりの、いやそれ以上に生々しい、ムー子の動けない姿が映し出されていました。外に出られずにストレスを抱えているダートムーアを気遣って、碧雲牧場から母に与えられた青草のおすそ分けをしてもらい、ムー子も寝ながらにして青草を食んでいます。寝ながらとはいっても、完全に横になった状態では食べられないため、理恵さんが「よっこらしょ」と上体を持ちあげてくれるとしばらくはその状態で青草を食べ、その体勢は辛いのか、またしばらくすると横になるの繰り返し。生まれて1か月半とはいえ、すでに大の大人と同じぐらいの体重がありますので、上体を起こしてあげるだけでひと苦労です。

四肢が動かないため、関節も硬くなってきているようで、球節や膝の曲げ伸ばしが難しい様子も伝えてくれます。何とか生きようと青草を食べている上体とは裏腹に、胸から下は力なく息絶えているのです。自分の意志で下肢を動かすことができない。それは馬にとって最も辛いことかもしれませんし、致命的でもあります。ムー子の四肢が棒のようになっている映像を見て、僕は半ば観念しました。ほぼ確実に、その日がやってくるという悲しい確信を得たのです。 それでも、僕たちはあきらめ切れず、もうしばらく様子を見ることにしました。原因不明の病気で倒れたのであれば、原因不明だけれど立ち上がる可能性だってあるかもしれません。そうした何の確証もない一縷の望みを頼りに、もう少しだけ待つという選択をしました。

遠く離れた場所に住む僕にとっては待つだけだったかもしれませんが、慈さんたちにとっては介護の毎日です。なかなか出にくくなってきたダートムーアの母乳を搾り、ムー子に飲ませ、褥瘡ができないように時間おきに体位変換をし、糞尿を交換する日々を続けてくれました。「理恵は安楽死を嫌がっているので」という慈さんの言葉を頼りに、僕は馬主としてしなければならない決断を先延ばしにしていたのでした。

本来であれば、すぐにムー子に会いに行ってあげるべきでした。馬主の決断とか格好良いことばかり考えているより前に、大切な自分の娘が病に倒れているのであれば、飛んで会いに行くのが当然です。その週は一口馬主クラブの取材が立て込んでいて動きにくかったこともありますが、振り返ってみると、僕はムー子の死に目に立ち会おうと考えていたのだと思います。奇跡が起こらなければ、ムー子が死に至るのは時間の問題であり、最後に安楽死の決断をするのは僕であり、その決定の責任を死にゆくムー子の姿を目の当たりにすることで引き受けようと考えていたのです。経済的にも時間的にも、何度も北海道まで通えない事情を鑑みても、最期の瞬間には立ち会いたいという僕の決断は間違ってはいないように思っていました。様子を見ると言いながら、僕はその瞬間を待っていたのかもしれません。

仕事が一段落した夜、慈さんに電話をしました。ムー子が動けなくなってから、すでに2週間が過ぎています。「どうですか?」とやんわり尋ねると、「兆しがないばかりか、日々に衰弱していっています」と包み隠すことなく教えてくれました。先週までは、朝様子を見に行くと、寝藁が円を描くような動いた跡があり、ムー子が立ち上がれないながらも立ち上がろうとした形跡が残っていたそうです。ところが、ここ数日は寝藁が動いておらず、立ち上がるどころか動こうとさえもしなくなった、できなくなったことが分かる、とのこと。

ここまで来たら、最後の望みとしてクリニックに連れて行こうか悩んでいると慈さんは言いました。クリニックとは最先端の医療機器やノウハウが揃っている、病気や怪我をした馬にとっての駆け込み寺というか最終関門のような存在です。クリニックに連れて行っても治らないなら仕方ない、現代においてこれ以上の医療はないとあきらめがつく場所と言っても良いのではないでしょうか。

北海道にあるのは、社台クリニックと三石にあるクリニックの2つ。しかし、クリニックに行くには獣医師の紹介状が必要になります。何でもかんでもクリニックに持って行ってはならないということです。当然のことですが、クリニックにも人的、時間的なキャパがあって、牧場や往診医でどうしても治療できなくなった場合のみ、またクリニックであれば治療可能な馬を連れて行くべきなのです。そうしないと、本来であればクリニックで救えた馬が救えなくなるからです。

生後4日目にダミーフォールを発症したとき、クリニックに連れて行った方が良いかと尋ねると、「これは牧場で看れます」と獣医師は答えてくれたそうです。これは自分たちで看られる馬はクリニックには持っていかないという判断でした。その見立てどおり、ムー子は急激に良くなって歩けるようになりました。その後、再び倒れて、一か八かステロイドを打っても変わらないムー子を「クリニックに連れて行った方が良いですかね?」と慈さんが聞くと、「うーん」という歯切れの悪い答えしか帰ってこなかったそうです。

「明日、揖斐先生が来られるのでもう一度聞いてみます」と慈さんは言ってくれました。この話を聞いて、揖斐先生が言葉を濁したのは、クリニックに持って行っても治療は難しいと考えていたからだと思います。あらゆる原因を潰しても治らない以上、たとえクリニックでもできることはないと知っているからこその返答だったはず。しかもクリニックに連れて行くと、少なくとも2桁万円、治療法や期間によっては3桁万円の治療費を請求されることになります。そのあたりも全て獣医師は分かっているのです。それは冷たいとかではなく、数々の症例や成り行きを見てきたからこその冷静な判断です。

それに対して僕と慈さんたちは半ば親の視点です。たとえ無駄だと言われても、どれだけお金がかかったとしても、生きようとしている娘をあきらめられない。そこには僕たちの生き方や矜持や意地のようなものも含まれていたはずです。できることはやったと割り切れるための判断材料を得たい、「クリニックに連れて行ってもダメだった」と碧雲牧場の皆々と自らを納得させたい気持ちもありました。複雑な感情が混ざり合っていました。

三石のクリニックのスーパードクターと称される先生が書いている「馬医者の日記」とうブログがあり、後進の獣医師のために様々な症例と治療法や過程を残してくれています。このブログは生産者にとっても非常に参考になるらしく、慈さんも何かあれば読んでいるとのこと。

「そのブログの中に、ムー子と同じような症例の馬が出てきているんですよね。ということは、原因不明の治療困難な馬でもクリニックに持って行ったケースはあるということですから、ムー子を連れて行くのが絶対ダメということではないと思います」

目の前には瀕死のムー子がいて、後ろには理恵さんや碧雲牧場のスタッフがいて、僕たちがどう行動するのか見ているのです。こういうときこそ、真価が問われるという重圧も、できる限りのことをしたいという方向に僕たちを押し進めます。「他の牧場の人によっては、引っ張りすぎだと思われるでしょうし、割り切らなければならないという意見も分かります。それでももしかしたらと思ってしまうのですよね」と慈さん。僕はそんな慈さんが好きですし、だからこそ馬を託しているのです。

「オーナーがあきらめ切れないから、どうしてもクリニックに連れて行きたいと言ってる」と獣医師に伝えてみてはどうかと提案しました。素人が心情的に連れて行きたいと言ってると聞けば、獣医師も仕方ないか、クリニックに行けばあきらめるだろうと思ってゴーサインを出してくれるかもしれません。慈さんはその案にあまり乗り気ではなさそうでしたが、「とにかく僕から明日、再度打診してみますね。また連絡します」と言って電話を切りました。

電話を切って少し冷静になってみると、もしかして僕はムー子の命を永らえることに執着しすぎているのかもしれないと思い直しました。自分が割り切れないからという一心で、不可逆な流れに抗い続けているだけで、それは自然の大きな力に対しては無力であり、取るに足らない抵抗なのかもしれません。生きてゆくことと死ぬことは常に隣り合わせであり、光があれば影が生まれるように、命ばかりにこだわり続けるとかえって不自然を生む。簡単にあきらめてはならないけれど、どこかで手放さなければならない。そんな気持ちが不意に湧いてきました。

走り出した午後も 重ね合う日々も 避けがたくどこかで終わりが来る

あの日のきらめきも 淡いときめきも あれもこれもどこかに置いてくる

それで良かったと これで良かったと 健やかに笑い合える日がくるまで

明けてゆく空も 暮れていく空も 僕らは超えてゆく

変わりゆくものは仕方がないねと 手を放す 軽くなる 満ちてゆく

(中略)

開け放つ胸の光 闇を照らし 道を示す やがて生死を超えてつながる

共に手を放す 軽くなる 満ちてゆく

晴れてゆく空も 荒れてゆく空も 僕らは愛でてゆく

何もないけれど全て差し出すよ 手を放す 軽くなる 満ちてゆく

──「満ちてゆく」 藤井風より引用

(次回へ続く→)

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