![[連載・片目のサラブレッド福ちゃんのPERFECT DAYS]地獄でなぜ悪い(シーズン1-74)](https://uma-furi.com/wp-content/uploads/2025/11/S__28139546_0.jpg)
ムー子の死から2週間が経ち、東京に戻った僕を襲ったのは虚無感でした。その場を離れ、冷静になって考えてみると、見えてくることがあります。僕は今回、ダノンレジェンドの種付け料100万円とダートムーアの受胎期間にかかった牧場への預託料約150万円、計250万円を丸々失いました。自らの選択で250万円の札束に火をつけて燃やしたのです。そして、ダートムーアがムー子をお腹の中で育ててくれた、1年間という貴重な時間も失いました。残されたのは、ムー子のたてがみのみ。
あくまでも結果論ですが、ムー子がダミーフォールらしき症状を呈した生後4日後から1カ月の間に処分する決断をしていれば、フリーリターンの制度を使うことができたのです。預託料と貴重な時間は返ってきませんが、ダノンレジェンドを無料でダートムーアに再度種付けすることができました。イーストスタッドは追い金制度がないため、昨年と今年の種付け料の差額分を払う必要もありません。経済合理性を考えると、これが妥当な判断でした。僕は生産者として判断を誤り、250万円を失ったばかりか、ムー子も結局のところ死んでしまったのです。
今回僕は、せっかく生まれてきたムー子の命を守りたくて、割り切れませんでした。昨年の福ちゃんと同じく、生きる道があるのではと思ったからです。でも実際にはそうではなかった。「(揖斐先生ではなく)他の獣医師ならすぐに注射だと思います」と慈さんが言っていた意味が今なら分かります。当初は血も涙もなく機械的だと思っていましたが、いざこうして結果が出てみると、割り切らないといけないことがあると分かります。生まれつき弱い個体は生き延びられない確率が極めて高く、それを感情論で引っ張ることで、人間が大きな損失を被るケースをベテランの獣医師や生産者は山ほど経験してきて、ある意味、結末まで知っているのです。
経済的なダメージを負うのは、他の誰でもない自分なのです。周りの誰かが肩代わりしてくれることはなく、救いの手を差し伸べてくれるわけでもありません。優しさを称賛する声はあるかもしれませんが、一瞬に過ぎず、周りの人々はすぐに自分たちの生活に戻っていきます。僕は生まれたばかりの病気の仔馬に感情移入したおかげで、僕自身と他の馬たちの命を削ってしまったのです。最終的に僕が馬を養っていけなくなった場合、馬を売るか、売れなければ殺さなければならない。馬を売り払ったとしても、経済的に破綻すれば、僕や家族も路頭に迷ってしまいます。
もっと具体的に書くと、僕は2021年にダートムーアを購入して生産の道に入ってから、およそ3000万円近くのお金を使ってきました。この4年間での収入は、サマーセールでスパツィアーレの23を買ってもらったときの売却額580万円のみ。途中からは計算するのも嫌になり、正確なマイナス額すら把握していませんが、少なくとも現時点で2000万円以上を失っています。
ダートムーアは初年度が流産、2頭目は骨片が飛んでいてセリで売れず、3頭目は小眼球症、そして今年は生後2か月目に死亡。初めて買った繁殖牝馬としての愛着は深いのですが、まさに1円にもなっていません。スパツィアーレは初年度が父ルーラーシップであったのに580万円で取り引きされ、2年目は何度種付けしても受胎せず、3年目の今年、ようやく産駒が生まれました。投じた時間と金額に対する、恐ろしいまでのリターンの少なさは誰の目にも明らかです。
今回はっきりと分かったのは、生産の現場において、馬に対する愛着や命を大切にする気持ちは当然のことながら必要ですが、場合によっては判断を狂わせ、大きな経済的損失をあなたにもたらします。周りがどう言おうと、お金を出すのはあなた。様子を見たり、迷ったりして決断が遅れると、あなたは一文無しになる。結局、馬は死ぬ。誰も助けてはくれない。今回の僕のような失敗を何度も経て、ようやく当たり前の選択ができる生産者になるのだと思います。
僕が今までやってきた生産は、趣味の延長線上であり、ペットを飼うような中途半端な感覚であり、綺麗ごとを並べただけの慈善事業でしかありませんでした。生産を事業として本気で取り組むとすれば、競走馬になれそうもない、もしくは売れない個体は早い段階から摘み取って、経済的負担を最小限にとどめつつ、次の生産馬に期待するしかないのです。同じことは繁殖牝馬にも言えて、結果が出ない繁殖牝馬は売ったり、処分したりして、新しい繁殖牝馬と入れ替えなければならない。周りに何と思われようが、目の前で生きている馬をあっさりと処分できなければならない。それができないと明るい過去も未来もない。星野源的に言うと、「ただ地獄を進む者だけが悲しい記憶に勝つ」のです。
もうひとつ、失敗したと思ったのは、保険をかけるタイミングです。毎年6月ぐらいの時期になると、慈さんから「保険に入りますか?」と連絡があり、獣医師に診断書を書いてもらい、1年間の保険に加入します。福ちゃんを含め、今までに僕が生産した当歳馬たちには全てかけてきました。仔馬が亡くなってしまったり、腰フラになって競走能力を喪失してしまったなどのケースに保険金が支払われます。僕はいつも最小限の10万円/1年(1頭あたり)をかけ、万が一のことがあった場合には300万円が戻ってくることになっています。「お守りみたいなものですね」と慈さんは言います。保険を使うことがないのが一番良いのです。ところが今回は、保険をかける前にムー子がこのようなことになってしまい、フリーリターン制度を使えないばかりか、保険にも入っておらず、僕は全てを失いました。フリーリターンが生後1か月で使えなくなった直後から保険に入らなければ、今回のような事態に陥るのです。
前述のように獣医師の診断書が要るため、ダミーフォール症状を呈していた時期は保険には入れなかったはずですが、そこから回復した時点で保険に入っていれば良かったのです。まさに今回のようなケースでこそ、保険に入っておくメリットがあるのであって、今回、保険をかけないでいつかけるという話です。生後数か月、そしてそこから放牧地に出て走り回る当歳時が最もリスクが高い期間であり、そこで保険に入っていない時期があるのは恐ろしいことです。僕はフリーリターン制度と保険のはざまに落っこちてしまったのでした。
朝から胃が鉛のように重く、軽いうつ状態をさまよっていると、慈さんから電話がかかってきました。こんな時間にかかってくるなんて、絶対に良い知らせではないと思いつつ指を動かすと、「スパツィアーレが受胎していませんでした」とのこと。今年はこれで2回目の種付けです。相性が良いと思い、昨年と同様にホットロッドチャーリーを配合しましたが、2度目も不受胎。もうこれでなす術がありません。
アウトクロス配合へのこだわりも白紙に戻すことになりました。インクロスを限りなく避けた配合をしたダートムーア×ダノンレジェンドの仔は生後2か月で亡くなり、スパツィアーレ×ホットロッドチャーリーは2度種付けをしても受胎せず。受胎しづらさや病気の仔が産まれるというインクロスの弊害を、ばりばりアウトクロスの配合やその産駒が僕の目の前で体現してしまったのです。僕は机上の理論よりも、目の前の現実の手触りを優先するタイプですから、理論に現実が則さないのであれば、たとえ自分が信じていた理論であっても疑わざるを得ません。そして考え方や意見も柔軟に変化させていくべきだと思います。
インクロスだろうがアウトクロスの配合だろうが、受胎する時はするし、しない時はしない、健康な産駒が生まれてくることもあれば、病気の産駒が生まれてくることもある。インクロスかアウトクロスかよりも、母胎の状態や種牡馬の遺伝特性、牧場の土壌や飼育管理等、そして何よりも運が大きな影響を持つということではないでしょうか。僕たちにコントロールできることは限りなく少なく、「健康で走る馬が生まれてきますように」と手を合わせて祈ることしかできないのです。
(次回へ続く→)
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