[連載・片目のサラブレッド福ちゃんのPERFECT DAYS]カメラを止めるな!(シーズン1-79)

Uターンをして牧場まで戻る車内も地獄絵図でした。そこにいるのは福ちゃんではなく、言葉が通じない、暴れ狂う500kg近い筋肉の塊の動物でした。馬運車の中は完全な密室であり、しかも中途半端な広さの空間です。馬にとっても人間にとっても逃げ場がなく、かといって完全に身動きが取れないわけではなく、馬が暴れられるぐらいのスペースはあります。格闘技のリングほどの広さがあれば、たとえ相手がボブ・サップであっても5分間、端から端まで逃げまどうことはできますが、幅2m×奥行き6m×天井3mほどの空間でボブ・サップの3倍以上ある死に物狂いの生き物とリングインさせられて、5分間の第2ラウンドが始まったのです。

「これまでに味わったことのない恐怖を感じた。死ぬかと思った」と後に理恵さんは振り返っていましたが、決して大げさではありません。これは実際にあの空間で暴れる雄のヒグマのような動物と手綱一本で対峙してみなければ味わえないかもしれませんが、誇張抜きにして、死と隣り合わせの時間と空間でした。

鈍感な僕でさえも、今は福ちゃんが後ろにソッパ(逃げようと)しているからまだ良いけれど、前に向かって突っ込んでこられたら確実に誰かが怪我をすると考えていました。たかだか191kg(公式)しかない横綱・大の里がぶちかましてくるのとは訳が違うのです。本気で前に突進されたら、当然手で抑えることなどできず、馬運車の壁との間に僕たちは挟まれてしまいます。胸骨やあばら骨が折れるぐらいは仕方ないとして、頭部をぶつけられて潰されるのだけは避けようと考えました。手で頭をガードするか、しゃがんで避けるかです。

僕が命だけは守ろうと考えている間も、ミヅキさんと理恵さんは福ちゃんの暴走を何とか抑えようと奮闘しています。いくら僕よりも普段馬を扱い慣れているとはいえ、彼女たちは女性です。傷を負わせたくありませんし、二人ともかなり憔悴しているのが手に取るように分かります。そんな状況でも、代わって助けてあげられない自分が情けなく、僕にできるのはカメラを回すことだけでした。でももし福ちゃんが僕たちに向かってくるようなことになれば、さすがにカメラを捨てて、僕も渾身の力を込めて手綱を掴んで押さえつけなければいけません。そのときはたとえ福ちゃんを痛めつけたり苦しめることになったとしても、人間の命や安全が優先です。

数分間、暴れ続けて、福ちゃんも疲れてきたのか、一瞬、へたり込んでしまいました。横に倒れて寝るような形です。口元からは舌が出ていて苦しそう。「そのまま寝てなさい」と理恵さんも息を乱しながら、大人しくしてもらいたい一心で声をかけます。

ついに福ちゃんもあきらめたかと思った矢先、再び福ちゃんは立ち上がりました。そして、最後の力を振り絞って暴れ始めました。普通の馬であれば、1度ソッパして後ろの壁にぶつかればあきらめて大人しくなるそうですが、福ちゃんはそれを5分2ラウンド抗い続けるのです。それほどまでに恐怖を感じていたのでしょうか。それとも、碧雲牧場から出ていきたくないという意志表示だったのでしょうか。

ようやく碧雲牧場に戻り、馬運車が止まったとき、誰もが助かったと思ったはずです。僕が側面の窓から降り、そのあとに理恵さんが続き、慈さんが運転席から降りてきてミヅキさんと手綱を替わります。福ちゃんを一旦落ち着かせるために、馬房に戻すことにしました。隣の馬房のマンちゃんは、「あれっ、帰ってきたの、おかえり」と言わんばかりに、興奮冷めやらぬ福ちゃんを見つめています。

僕たちがすぐに戻ってきたことに驚きつつも、碧雲牧場の全員が集まり、報告合戦と作戦会議が始まりました。まず鎮静が軽すぎて効いていなかったこと、馬運車が動き出しても福ちゃんはお構いなしに暴れること、ソッパして座り込み、立ち上がってまたソッパしてを繰り返すので手のつけようがないこと、そして何よりも人間が命の危険を感じることを理恵さんが矢継ぎ早に伝えます。

「今まで運んできた馬たちの中でもいちばんヤバいよ」と、怖くて手の震えが収まらない両手を見せてくれました。理恵さんの言うとおり、たまたま無事に戻ってこられただけで、大惨事になっていた可能性は十分ありました。次は強い鎮静を打って臨むという話でしたが、興奮状態にあると鎮静も効きにくいようですし、エクワインレーシングに辿り着くまで持つのか不安で一杯です。

これは後から思ったことですが、スイッチが入ってしまうと手が付けられないのは、ダイナカール牝系特有のものなのかもしれません。かつて元ノーザンファームの場長であった秋田博章氏にインタビューをした際、エアグルーヴやその仔ルーラーシップについてこう語っていました。

ルーラーシップは母エアグルーヴの血を引いているからか、気性の激しい面を受け継いでいました。エアグルーヴは頭が良すぎて、気に食わないことなどがあって切れたら大変でしたよ(笑)。ルーラーシップも、現役最後の頃はゲートに突進したりして、上手くスタートが切れずに結果を出せませんでした。古馬になってからさらに強くなる血統だけに、ゲートの出の悪さはもったいなかったなあ。

──一口馬主DB 秋田博章氏インタビュー(馬体は語る2)より引用

ダートムーアの母カーリパッションはエアグルーヴの全妹であり、ダイナカールから脈々と流れる激しい血を継いでいるのは間違いありません。頭が良すぎることで、これから何が起こるか分かり、それは自分の意志に反しているとなると、頑としてでも拒否するという気高さやプライドの高さを持つ牝系なのでしょう。その賢さと気の強さがレースで走る方に向いたとき、ダイナカール牝系の馬たちは無類の強さを発揮してきたのではないかと想像します。

普通の馬ならば、あれだけ馬運車の扉にぶつかって痛い思いをしたらあきらめますし、立っているのが精いっぱいの状況であれだけ暴れることなどできないはずです。それでも転んでも転んでも何度でも立ち上がって、馬運車から出せと頑なに主張する気の強さは、ダイナカール牝系由来なのかもしれません。福ちゃんが初めて見せた狂気の血でした。

ムー子のときにもお世話になった揖斐獣医師が来て、鎮静を静脈注射してくれました。血管の中に入れるため、身体中への回りが早く、すぐに効いてきます。強い鎮静を入れると、1時間は確実に意識が朦朧とするため、そのうちに運んでしまおうというわけです。どうせなら馬運車の中で寝てもらっても良いよというぐらい、とにかく大人しくなってもらわないと、エクワインレーシングまでの30分間の道のりは耐えられそうにありません。福ちゃんが少しボーっとしてきたので、意を決して再度向かうことになりました。「馬運車に乗らないかもしれない」と心配する声もありましたが、僕は鎮静が切れる方が心配でした。

素人なので何も分からずに言っているのは前提ですが、それでも最初のトライで軽い鎮静が全く効いていなかった事実を目の前で見ているので、興奮状態にあって効きにくい中、強い鎮静を打ったところで30分間も持つのかどうか怪しいと思いました。慈さんも不安を感じたのか、出発する直前で、「先生、念のため、もう1本だけ打っておいてもらって良いですか?」とお願いしました。「それじゃあ、筋注(筋肉注射)にしておきますね。後から効いてくるはずです」と獣医師は言いながら、もう1本、福ちゃんの筋肉に鎮静を打ちました。あとから思い返すと、この筋注を追加で打っておいたことに助けられたのです。慈さんのナイス判断でした。

次の便には誰が乗るのか話し合った結果、慈さんが運転をして助手席に理恵さん、馬運車の中で手綱を持つのはミヅキさんという役割が決まりました。ミヅキさんはあれだけ大変な目に遭ったにもかかわらず、意外と肝が据わっていて、「私がやります」と最も危険な仕事を自ら引き受けてくれました。この日ほどミヅキさんが立派なホースマンに見えた日はありません。僕はどうしようかと迷いました。何かあってはマズいからと僕も助手席に乗った方が良いという意見もあれば、せっかくだから中に乗った方が良いという声もありました。僕は痛いのは嫌いですが、怪我をしたりするのは仕方がないと思っていますし、最後の見送りのシーンの動画が撮れないのも困るというジャーナリスト精神というか職業病も失われていません。しかし、僕が中に入ってもミヅキさんを助けられることはできそうになく、むしろ邪魔になってしまう可能性もあるため、迷いました。するとミヅキさんが「せっかくだから乗った方が良いですよ」と誘ってくれたので、ミヅキさんがそう言うならと心は決まりました。かなり嫌な予感はしていましたし、同じことが繰り返されて、もう一度、牧場に戻ってくる可能性もあると考えて乗り込みました。

福ちゃんは何事もなく馬運車に乗り、首を下げて、うつらうつらとしている状態です。後ろの扉が閉まっても、その様子は変わらず。ゆっくりと優しく馬運車が走り出しても、前回と打って変わって大人しくしています。眠そうにしているので、このまま心地よく眠ってもらうために、僕は福ちゃんの額を優しく撫でました。体温が伝わってきて温かさを感じると同時に、福ちゃんの顔の骨太さを手で知ります。鼻梁の太さは全身のフレームの太さであり、太い馬はパワータイプのダート向きで、細い馬は芝向きという上手獣医師から聞いた話を思い出しました。福ちゃんは骨太のダート馬だなあと思いつつ、とにかくリラックスしてもらうように、頬を撫でたり、鼻先の柔らかい部分を触ったりします。どれだけ効果があったのかなかったのか分かりませんが、最初の5分間ほどは、馬運車がどれだけ揺れようが、福ちゃんは大人しく乗っています。このままの状態があと25分続いてくれることを心から願いました。

ところが、しばらくすると福ちゃんが大人しく額を撫でさせてくれなくなりました。寝ぼけ眼ではありますが、手綱を噛んで遊ぼうとしたり、ミヅキさんに顔を寄せたりと、動きが出てきました。あれだけ強い鎮静を打ったにもかかわらず、ものの5分ほどで少しずつ覚醒しつつあるのです。残された時間のことを考えると、これはマズいと感じました。1時間は確実に持つと言われた強い鎮静でも、わずか5分で動きが出て来ているのです。祈るような気持ちで様子を見ることにしました。いつでも運転中の慈さんに電話をかけられるように(馬運車は密閉されているので運転席まで声が届かない)、慈さんの電話番号をスマホの前面に呼び出し、赤いボタンを押すだけの状態に準備をしました。

手に取るように、福ちゃんが覚醒していくのが分かります。さっきまで半開きであった瞼が少しずつ見開かれていくのです。垂れ下がっていた頭も少しずつ起きてきます。「早くね?」と僕は心の中でつぶやきました。1時間はもつと言われていた強い鎮静が、ものの5分で切れようとしているのです。どこかで鎮静が切れて、同じことが繰り返される気がしていましたが、もう少し時間はかかると考えていました。僕の想像以上に早い段階で、福ちゃんが目を覚まし始め、残されたエクワインレーシングまでの道のりを計算すると、かなり厳しいというのが僕の冷静な見立てでした。

福ちゃんができるだけ覚醒しないように、彼女をなるべく刺激することなくリラックスしてもらうために、僕は額や口元を優しく撫で続けました。赤子をあやしつけるように。それでも頭が上下に動き始めて、撫でることすら困難になりつつあります。このまま行くと、スイッチが入るのも時間の問題です。「福ちゃん、頼む、落ち着いてくれ」と僕は祈りました。互いに顔を合わせる余裕もないのですが、ミヅキさんも事態の悪化を察し、何とか時間稼ぎをするために必死で福ちゃんをなだめています。福ちゃんが手綱を噛み始めました。ミヅキさんの胸に顔を押し付けたりして、何かを訴えようとしているようです。

そのとき、福ちゃんの目に再び力が宿ったのです。あっ、と思ったその瞬間、福ちゃんは渾身の力を込めて、後ろへとソッパし、ミヅキさんが持って行かれました。そして、福ちゃんはドーンという大きな音を立てて、馬運車の後ろ扉にぶつかったのです。尻もちをつくような形から、両肢をバタつかせて立ち上がり、今度は前肢を上げて立ち上がろうとします。馬運車の天井にも頭がぶつかり、バーンという音が響きます。密室の悪夢再びです。次の瞬間、僕の目の前に福ちゃんの顔がありました。「大丈夫だから」と言いつつも、額を撫でようとすると、目と目の間の皮がめくれているではないですか。さきほど天井にぶつかったときに怪我をしたのだと思いつつ、痛そうで撫でるのはやめました。僕に馬を扱う技術や知識があれば、ミヅキさんと今すぐにでも交代してあげられるのですが、情けないことに何もできません。僕はカメラを回しながら立ち尽くしていました。

(次回へ続く→)

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