競馬の大きな楽しみの一つとして、自分の思い入れある馬のきょうだいも応援することができる、というものがある。
兄や姉の面影を弟や妹に重ね、変わらぬ声援を送り、上のきょうだいたちにも更なる活躍を期待して、その一族への愛着は一層深まってゆく。
毛色や顔立ちなどの姿かたちや脚質、得意な距離や馬場がそっくりなきょうだいもいれば、同じ母の仔とは思えぬほど個性がはっきりと分かれるものもいて、時には「あの馬の弟・妹」から始まった馬が自分にとってかけがえのない大きな存在となることもあるから面白い。
1998年11月1日、東京競馬場で行われた天皇賞・秋で、圧倒的1番人気に推された小柄な栗毛馬がターフに散った。
サイレンススズカ。
圧倒的なスピードにものを言わせた大逃げで、この年2月のバレンタインSからG1・宝塚記念も含め無敵の連勝を継続中であり、前走・毎日王冠での圧倒的パフォーマンスもあって、天皇賞での勝利を疑う者は少なかった。
そのレースで起こった悲劇は、改めて語る必要もないだろう。
多くの人が彼の死に打ちひしがれ、言葉にできないほどの喪失感にさいなまれる中、彼の一番下の弟はデビューに向け、生まれて三度目の秋を迎えていた。
弟の名は、ラスカルスズカ。
1996年に生まれた彼の父はコマンダーインチーフ。
2歳年上の兄サイレンススズカの父はサンデーサイレンスなので、半弟ということになる。
母ワキアにとって四番仔だが、ワキアはラスカルを産んだ年の8月に腸捻転でこの世を去っていたため、彼は母の最後の仔になってしまった。
兄と同じ栗東の橋田満厩舎に入ったラスカルだったが、調整は遅れ、デビューは1999年6月、函館の4歳未勝利戦(芝1800m)にずれ込んだ。デビュー戦では、厩舎同様に鞍上にも兄と同じ武豊騎手を迎え、1番人気に支持された彼は、好スタートから終始先団につけて直線では後続を5馬身ちぎる快勝を収める。
武豊騎手は、
「末の弟のラスカルも強いですよー。(中略)いやぁ楽しみですよ。ホント、嬉しくなりますね。サイレンススズカはすごいバネをしていましたけど、弟もいいですよ。ホント、いいもの持っていますから」
(都地政治『サイレンススズカ 無垢なる疾走』P.211より)
と、その期待の高さを感じさせるコメントを寄せていた。
続く北洋特別、札幌の日高特別と古馬相手に連勝を飾った彼は、秋のクラシック最終戦・菊花賞に向けて素晴らしい競走馬人生のスタートを切ったといってよい。
この年のクラシック戦線は、皐月賞馬テイエムオペラオー、ダービー馬アドマイヤベガ、ダービーで1番人気に推されたナリタトップロードを中心に展開していた。
このうちアドマイヤベガ、ナリタトップロードが10月の京都新聞杯、テイエムオペラオーがその前週の京都大賞典を秋初戦とする中、ラスカルスズカは9月の神戸新聞杯でタイトル争いに参入することとなる。
1番人気がダービー4着のオースミブライトで、ラスカルは2番人気。
スタートから一気にハナを奪ったラスカルは手ごたえ良く4コーナーを迎え、直線ではフロンタルアタックに並ばれてもなお粘り腰を見せる。しかしゴール前では、外から強襲したオースミブライトに交わされ、フロンタルアタックに次ぐ3着に敗れた。
とはいえデビュー4戦目、重賞初挑戦で菊花賞優先出走権を獲得したことは、「サイレンススズカの弟」という話題性にとどまらぬ実力の持ち主であることを印象付けたものだった。
11月7日、菊花賞当日の1番人気はアドマイヤベガ、以下テイエムオペラオー、ナリタトップロードと続き、武豊騎手がアドマイヤに騎乗するため蛯名正義騎手に手替わりしたラスカルは4番人気だった。
そして、菊花賞のスタートが切られた。
セイウンスカイがレコード勝ちした前年とは打って変わり、タヤスタモツが先導するゆったりとしたペースに。ナリタが4~5番手、テイエムとアドマイヤが中団につけ、それまでの先行策を捨てたラスカルはこれを見るように後方でじっくりと折り合いを付ける。
2周目の向こう正面で馬群は完全に団子状態となり、そのまま淀の坂に差し掛かった。
上位人気馬たちはタイミングを伺いながらも、まだじっと動かない。
レースが動いたのは坂の下りから最後の直線入り口で、ナリタトップロードが馬場の真ん中を通って一気に先頭に躍り出たが、その外からラスカルが並びかけ懸命に食い下がる。
更にその外からはごちゃついた馬群を抜け出したテイエムオペラオーが激しく追い上げ、ゴール前でラスカルを交わしたものの、ナリタトップロードがこれをクビ差凌ぎ切った。
ラスカルはさらにクビ差の3着。
デビューが遅れた馬が初勝利から僅か5か月足らずでG1で春の実績馬相手に上位入線を果たす──まして、それが前年に身罷った名馬の弟だなんて、「競馬の神」はなんてすばらしい贈り物をくれたのだろう。
サイレンススズカの死に打ちひしがれた一人として、私の心に大きなともしびが灯った。
そして心に決めた。これからずっと、ラスカルスズカを応援しよう…と。
この後、ラスカルスズカは柴田善臣騎手が騎乗してジャパンカップに出走。インコースを通って日本馬では2番目となる5着に入線。武豊騎手に手が戻った年明けの万葉ステークスでスローペースにも折り合ってオープン初勝利を挙げた彼は、3月の阪神大賞典でテイエムオペラオー、ナリタトップロードと再び相まみえる。
やや重馬場とホットシークレットの大逃げにも惑わずテイエムの2着に入り、テイエム、3着のナリタとともにこの年──2000年の古馬王道路線における主役の一頭として、天皇賞・春に臨む。
4月30日、当日の単勝オッズは、テイエムオペラオー1.7倍、ナリタトップロード3.5倍、そしてラスカルスズカ4.0倍と、文字通りの「三強対決」のムードとなった。
五分のスタートを切ったラスカルの武豊騎手はスッと後ろにつけ、一周目の坂を下りたところではナリタが5番手、その後ろにステイゴールドが控え、これを見るようにテイエムが7番手に位置を取る中、ラスカルはホッカイルソーの背後、後方3番手でじっくりと構える。
向こう正面に入り、逃げるタマモイナズマがペースを落として、ばらけていた馬群は二周目の坂を前に凝縮していく。
坂の上りでタマモイナズマは後退し、ナリタが2番手、テイエムが3番手に上がっていく。
ここでもまだ動かなかったラスカルは、坂の下りで外を通って一気にスパートをかけた。
直線の入り口、内のステイゴールドが粘る中でナリタが、テイエムが、そして外から黄色と緑の勝負服のラスカルが抜け出しにかかる。
「やっぱり三頭の争いになった、三頭の争いになった、もう言葉はいらないか、言葉はいらないか!」
関西テレビの杉本清アナウンサーがそう叫ぶ間もなく、テイエムが先頭に立ち、必死に抵抗するナリタを、ゴールの手前でラスカルが交わす。
テイエムを3/4馬身追い詰めたところがゴールだった。
ラスカルスズカのファンにとって、もちろん私にとって、G1の大舞台で必ず勝ち負けに持ち込む彼の実力は疑うべくもなかったが、同時にあと一歩のところで勝利を逃すじれったさが、かわいらしくもあり、歯がゆくもあった。故に「次こそは何としても勝ってほしい、きっと勝ってくれるに違いない、でも大丈夫だろうか、また勝ちを譲ってしまうのではないか」といつも期待と不安がないまぜになった気持ちで次のレースを待っていたのが、偽らざるところである。
もちろん、「兄のような名馬になってくれる」という希望も込めて。
天皇賞の次走、金鯱賞は兄が2年前に大差レコード勝ちを収めたレースでもあり、当日のファンは弟を1番人気に支持した。
ところが早めに抜け出したメイショウドトウをとらえきれず、3着。
春のグランプリ、宝塚記念では、インコースから3コーナー辺りでロングスパートを開始し、4コーナーで先頭に立ってファンに期待を抱かせたが、押し寄せるテイエムやメイショウドトウらに外から交わされ、5着。
私はいつも通り、「さあ、勝負は秋だ。もっと強くなって、戻ってきて来てくれよ」と、夢と希望を抱きながら、真夏を迎えた。
「競馬の神」は、時に無慈悲でもある。
夏が終わるころ、当時購読していた『Gallop』誌を開いて、ページをめくる手が止まった。
「ラスカル 秋絶望」
右前の浅屈腱炎が判明、彼は長期休養に入ったのだった。
まさに頭をガーンと殴られたような気持ちとしか言いようがない。
ラスカルのいないその年の秋の古馬王道路線は、天皇賞・秋、ジャパンカップ、有馬記念をすべてテイエムオペラオーが制した。その2着はすべてメイショウドトウ。
テイエムは「ミレニアム」のこの年、8戦無敗、年間G1・5勝の金字塔を打ち立て、彼を「世紀末覇王」と呼ぶ者もいた。
偉業の達成に驚きながらも、一方でラスカルの不在が寂しかった。
ラスカルスズカがターフに戻ってきたのは翌2001年の11月、ジャパンカップ当日のキャピタルステークスである。
ここでは5番人気で6着と初めて掲示板を外す敗北となり、年末の有馬記念を回避する。
翌2002年は1月の日経新春杯に出走し1番人気となるも6着。
3月の中山記念では武豊騎手の落馬負傷により田中勝春騎手に乗り替わり、後方から追い込むも3着。そして再び脚部不安を発症して休養する。
2003年の中山記念で復帰したが見せ場なく7着。
ダートのマーチステークスで12着となったのを最後に引退した。
引退後種牡馬となったのは、「サイレンススズカの弟」という血統もあってのことだろうか。
決して多くない産駒から、阪神牝馬ステークス4着のサワヤカラスカル、道営スプリントや名古屋記念で2着のスズカランクス、毎日王冠2着のサンレイレーザーなどの素質馬を出したものの、父と同様に重賞を勝つものは現れなかった。
種牡馬からも引退し、ノーザンホースパークなどで乗馬として供用されたのち、終の棲家として岩内町のホーストラスト北海道に移った。
私はノーザンホースパークにいた頃何度も彼に会いに行ったが、いつもグイッポをしながら迎えてくれて、くりくりとした愛らしい眼差しでこちらを見つめる姿にいつも元気をもらったものだ。
だから、岩内に移ってからもぜひ会いに行きたいと思っていた。
そんな矢先──。
2020年8月10日、ツイッターで彼が2日前の8日に空へと旅立ったことを知った。
悲しくてやりきれない思いがこみ上げ、しばらく何をしていても上の空だった。
ラスカルスズカは鹿毛で、小柄な兄とは違い標準的な馬格の持ち主だったから、ぱっと見は兄とは似ていなかった。けれど、いつもどこか遠くを見つめているような寂しげな眼差しは本当に兄とよく似ていたと思う。
一方、中距離を得意とした兄とは別に、長距離で好走を繰り返した弟は、競走馬として明らかに兄とは違う個性を持った馬だった。
「兄のような名馬になってくれる」という希望はかなわなかったとはいえ、「サイレンススズカの弟」から始まった彼が、同期のライバルたちと好勝負を繰り広げ、これだけ私たちの心を捉えて離さなかったことは、まごうかたなき「名馬」の証ではないだろうか。
兄・サイレンススズカとは違う、「ラスカルスズカ」という一頭の馬、として。