
人生、どうも上手くいかない。
雨は止まない。おまけにいつも、いつも向かい風。
太陽は人々を平等に照らす、というけれど。私は靄に包まれるばかり。
陽光は、ここまで届かない。雨に濡れた指先はずっと冷たい。
誰にも見つけてもらえず、認められない。自分はなんにもできない。
長く生きていくほどそう感じる。
奇跡なんて起こりっこない。
そんなことを感じていた27歳の春。私はケイエスミラクルを知った。
きっかけはウマ娘。
それまで、ゲームも競馬もほとんどやってこなかった。
たまたまSNSで見かけた薄青色の「彼女」が心に残り続ける。
幼少期に病院暮らしだった「彼女」と病弱な自分が重なった気がした。
私はケイエスミラクルが現役の時、生まれてすらいない。
それでも、不思議と心惹かれるものがあった。
「彼女」のモチーフとなったケイエスミラクル号を知りたい。
そこから1年をかけて、国立国会図書館に通い「彼」に関する文献を調べる日々が始まった。
二つの巡り合わせ
ケイエスミラクルはアメリカ、Tsukao Farmで生まれた。
父はStutz Blackhawk、40戦を走って3勝し、GⅢの2、3着がそれぞれ1回という馬だ。母はレディベンドフェイジャー。11戦を走って一般戦の勝利が2回と、父母とも決して競走成績は華々しいものではなかった。
日本にケイエスミラクルがやってきたのは、二つの巡り合わせが重なったから。
のちに彼を管理する高橋成忠調教師が、アメリカの繁殖牝馬セールで購入したレディベンドフェイジャーは妊娠していた。お腹の仔はのちにケイエスミラクルとなる馬だった。
もう一つは、生まれたケイエスミラクルを日本に連れていくと高橋成師が決めたことである。
Tsukao Farmで育っていく姿を見て、このままアメリカで走らせるか、日本で走らせるかを高橋成師は考えた。
この判断をしたであろう1990年ごろ、父Stutz Blackhawkは、アメリカで重賞馬1頭とリステッド競走勝ち馬を数頭輩出したくらい。日本に至ってはそもそも産駒がいなかったため、活躍するかは全くの未知数であった。それでも、高橋成師はアメリカではなく日本で走らせる決断をした。
初めての「奇跡」
二つの巡り合わせを経て、90年9月に海を渡り日本へとやってきたケイエスミラクル。
まだ競走馬としての名を持たない「彼」の名前を決める出来事が起きた。
千葉の牧場に繋養されてすぐ、原因不明の高熱にさらされた。
当時のことを高橋成師は以下のように言及している。
日本脳炎のような症状で高熱が出てね。獣医さんには”もうこれはダメかも”と言われて死にかけたんよ。それが1週間でウソみたいに治って
──『スポーツニッポン』大阪版、1991年11月12日より
命の危機に瀕しながらも、奇跡的に回復した「彼」。
この経験から、オーナーとなった高田喜嘉氏の冠名「ケイエス」に「ミラクル(奇跡)」を付け足した「ケイエスミラクル」として競走馬登録されることとなった。
続く「奇跡」
高熱を乗り越えたケイエスミラクルは冬を越えて、翌91年2月に高橋成厩舎に入厩した。
4月に新潟で初出走。出遅れてしまい、後方に控えて直線外目を一気に追い込むも2着。
次走5月の未出走戦(02年春まで行われていた、3歳新馬戦が終了したあとの競走。出走資格は当時の新馬戦と同様、初出走から同一開催であれば何度でも出走できたが、賞金は未勝利と同額)では、スタートから向正面まで、内外の2頭の間に挟まれてしまうという苦しい位置取りとなったケイエスミラクル。しかし、そこから一度下げて外に出し、直線だけで8馬身差をつける圧勝で初勝利を挙げた。
この勝利のあと、高橋成師はニュージーランドTを目標に定め、そこへのステップとしてわらび賞に出走した。
当時、中央競馬のクラシックには外国産馬の出走が認められておらず、重賞レースを含めた選択肢が現代に比べて狭い状況。そのなかで、3歳のOP馬であれば出走条件を満たすことのできるニュージーランドTは、外国産馬にとって重要な目標の一つであった。
先述の通り、ケイエスミラクルは外国産馬なので、このレースが3歳春のターゲットとなったのだろう。デビューが遅れてしまい、厳しいローテーションではあるが、なんとかこの舞台に出走させたいという、高橋成師の強い期待もうかがえる。
そんな期待を抱いたわらび賞。先行策を取ったものの引っ掛かり、しまいで競り負け2着に終わってしまう。この時点でニュージーランドTまでは残り1か月。デビューからひと月足らずで3戦を消化しており、これ以上、同月の条件戦に出走するのは現実的ではないことから、同レースへの参戦は見送ることとなった。
6月に入ると、札幌競馬場の石狩特別へ出走。高橋成師はそれまで騎乗していた自厩舎の佐伯清久騎手から、剛腕として有名な南井克巳騎手に鞍上を変えた。前走のわらび賞で、最終直線でほかの馬が来ると遊んでしまった、ケイエスミラクルの気性を理解したうえでの乗り替わりだった。
レースは出遅れこそしてしまったものの、内々を進み4角で先頭に立ち、後続を4馬身突き放すレコード勝ちを収めた。この勢いのまま、同じく札幌での藻岩山特別に続戦。前走のレコード勝ちが影響し、条件戦としては異例の単枠指定となったケイエスミラクルは、単勝1.1倍の1番人気に支持される。レース前、当時通算1000勝まで間近だった南井騎手は、ケイエスミラクルでの勝利を1000勝までの勘定にすでに入れていたという。
前走同様、ゲートで立ち上がってしまい3馬身出遅れるも、4角で先頭に並びかける。後ろはすでに追いつけない。もう、その差は圧倒的なまでのセーフティーリードだ。それでもケイエスミラクルは加速をやめることなく、ぐんぐんとその差を広げていく──。結果は、9馬身差の大差で圧勝だった。
ここまで通算5戦3勝、2着2回にレコード勝ち1回。しかもその3勝で突き放した着差は合計で21馬身にも及ぶ。条件はいずれも1400m以下という舞台で、直線で後続との差を大きく広げる勝ち方だった。条件戦で相手に恵まれた、というだけでは説明がつかない速さである。
このころから、ひそかに「高橋成(厩舎)の外車(外国産馬を指す当時の俗称)はすごい」と声が上がるようになっていた。
現在のように好きなレースを簡単に見返せる時代ではなく、関西にいる馬は関東方面にその強さが広がりにくかった時代だったのだから、ケイエスミラクルの走ったレースを実際に見た者たちが受けるインパクトはなおさらだったに違いない。徐々に『隠れた注目馬』となっていくのであった。
最後の「奇跡」
藻岩山特別の後、放牧となったケイエスミラクル。
夏休みを終え、8月中旬に戻ってきた同馬を見て、高橋成師はスプリンターズS(当時は12月開催)を大目標に設定し、その緒戦をセントウルSから始動することとなった。
初の重賞挑戦ながら、単勝3.7倍の3番人気に推される。1番人気のニフティニース、2番人気のセンリョウヤクシャが重賞馬であることを考えると、この時点でタイトルを獲得していない馬としては高い評価だった。
しかし、ケイエスミラクルはこのレースを13着と大敗。藻岩山特別のゲートで立ち上がってしまったことで、枠内駐立不全に伴うゲートの再試験を実施しなくてはならなくなり、レースまでの仕上げに割く時間が十分に足りないまま出走する形となった。
そして本来であれば、ゲートの再試験も含めての調教スケジュールが立つと思われるが、不運にもこの年に限って高橋成師の厩舎がちょうど工事中だったため、帰厩を早められないという事情もあった。セントウルS当日の馬体重は、前走からプラス10キロ。その数字は、決して成長分だけではなく、調整不足も響いてのものだったかもしれない。
さらに不運は続く。セントウルSの大敗によって獲得賞金を上乗せできず、目標だったスプリンターズSへの出走枠確保が難しくなってしまったのだ。その背景に、当時はまだ、現代と比べて短距離路線の整備が進んでいなかったというものがある。
90年にスプリンターズSがGⅠへ昇格し、ようやく短距離馬にも目標となるGⅠレースが生まれたが、まだまだ黎明期なのには変わりがない。大目標となるGⅠに向けての賞金を加算できるステップレースも不足しており、何年も走り続けて獲得賞金を積み重ねた古馬が出走枠を占めてしまう状況だった。
重賞タイトルも獲得しておらず、圏内にも入線できていない3歳のケイエスミラクルには、その積み重ねがない。同年のスプリンターズSに出走するには、さらに出走し獲得賞金を加算する必要が生まれてしまった。
無理にその年にこだわらず、翌年以降のGⅠ出走を目指せばよいのでは──。そう考える方もいるかもしれないが、当時は高松宮杯(現記念)も芝2000mのGⅡ。春の芝1200mGⅠへと変革されるのは96年まで待たなければならない。こうなれば、もしこの年、スプリンターズSへの参戦を見送った場合、次に芝1200mのGⅠへ挑戦できるのは1年後。だからこそ陣営は、ケイエスミラクルの調子が上向いているうちにどうにかできないかと模索したのだろう。次の年、万全の状態で出走できるという保証はどこにもないのだから──。
翌10月、ケイエスミラクルはオパールSに出走。3.3倍の1番人気に支持され、期待に応えてレコード勝ちを決めて無事に賞金を加算する。この勝利のあと、高橋成師は本命のスプリンターズSへの前哨戦として、スワンSに出走を決めた。京都1400mを走る右回りで、ケイエスミラクルのマイル適性を計る意味合いもあったのだろう。
91年のスワンSには、実力者が揃っていた。
前の年、GⅠとなったスプリンターズSを勝利した古豪バンブーメモリー、のちにマイルCSを連覇するダイタクヘリオス、前走の阪急杯まで怒涛の4連勝を飾ったジョーロアリング。そして、その年の安田記念を制した華麗なる才媛ダイイチルビーがいた。
人気順は、ダイイチルビー、ジョーロアリング、バンブーメモリー、ダイタクヘリオスと続いており、ケイエスミラクルはこの4頭に続く5番人気の単勝12.5倍。重賞を勝てておらず、初挑戦となったセントウルSでの大敗はまだ記憶に新しい。それが人気に反映された結果と言える。
しかし、この人気は低すぎるという見方もあった。臨時増刊号である『Gallop ’91』は、当時のことを以下のように振り返る。
外国産の勝利に拍手が少ない時代だった。
オープンのオパールステークスをコースレコード勝ち。ダイイチルビーの参戦があって、距離が200メートル延長だったとはいえ、5番人気、単勝1250円は何だったか。
父内国産馬が”最後の輝き”を放った時代、外国産馬への愛情は”憎しみ”の数分の1のサイズでしかなかった。──臨時増刊号 Gallop'91 第34回スワンステークス より
このレース、ケイエスミラクルより人気していたダイイチルビーとジョーロアリングは休養明け。
バンブーメモリーは近走で勝ち切れない競馬が続き、ダイタクヘリオスも成績に波がある。
全頭どこかに懸念があったと言えるだろう。
一方でケイエスミラクルはというと、前走のオパールSはスワンSと同じ京都競馬場。距離は1200mで、2回目のレコードを出していた。それがこのスワンSのおよそ3週間前のこと。200m伸びることでの距離延長への不安は当然存在したはずだが、前走と同じ場所でレコード勝ちしたばかりだったことを考えれば、もう少し評価されても不思議ではなかった。
いったい、何があってケイエスミラクルは5番人気となったのか。
「時代」という逆風が、そこにはあったのかもしれない。
91年の日本の競馬は、まだ世界に追いつこうとする最中であった。
「世界に通用する強い馬づくり」を目標に1981年から新設されたジャパンC。1990年までの10年間で、日本馬で優勝したのはカツラギエースとシンボリルドルフの2頭のみという状況だった。
そうした時代の中で、日本で走る外国産馬に対しても、そうした複雑な視線が向けられていたことも、『Gallop ’91』に記されているようにうかがえる、そんな時代だった。
そんな環境を分かっていたのか、この日のケイエスミラクルのレースぶりは、まるで5番人気という評価に反発するかのように、いつもと違うものであった。今までのような出遅れはなくゲートをスムーズに出たケイエスミラクルは、馬群に入るも落ち着いて先行策を取り、余裕をもって先頭から5、6番目の好位を追走。
そのまま最終直線を迎えると、前を行くディープグローリーとダイユウサクの間をひるまず、自らハミを取ってこじ開け、早めに先頭に躍り出る。
そのまま突き放すかと思ったのもつかの間、外から鋭く迫ってくる黒い影。1番人気のダイイチルビーが、残り200mから急激に迫ってきた。1馬身半ほどあった距離がみるみるうちに詰まっていくが、それでもケイエスミラクルは譲らず、ダイイチルビーとの差がクビとなったところでゴール。鞍上の南井騎手は深くガッツポーズをした。それはまるで、GⅠ馬ダイイチルビーを、ここまで歩んできたケイエスミラクルとともに破った勝利の大きさを物語るような光景だった。
それだけではなかった。当時の芝1400m日本レコードとなる1分20秒6という記録も樹立。自身3回目となるレコードを、安田記念馬ダイイチルビーを相手に打ち立て、一気に短距離・マイル路線の主役候補に躍り出たのだ。決して華やかではなかった父母の競走実績も、病気も、周りの評価も振り切って。
スワンSの勢いを受け、続くマイルCSでは一気に2番人気まで評価を上げた。勝ったダイタクヘリオス、2着ダイイチルビーには及ばなかったものの、0.5秒差の3着。1600mのGⅠでも上位争いを演じ、もはやケイエスミラクルは『隠れた注目馬』ではなくなっていた。
その生き様は間違いなく「奇跡」そのものだった。
「彼」の残したもの
しかし、「奇跡」は長く続かなかった。
マイルCSから約1か月後、最大の目標としていたスプリンターズSで、唐突に物語は終演を迎える。ゴールまで残り300mほど。先頭へ迫ろうとしていたケイエスミラクルが、突然失速した。左第一趾骨粉砕骨折。予後不良と診断され、競走生活はそこで終わった。
重賞では、最初で最後の1番人気だった。
ようやく認められたのに。
生涯3年9か月。デビューから、わずか8か月。
あまりにも、あまりにも早すぎる死。
悲しく、儚いおわり。
しかし、それでも彼が残したものもある。
その名とともに残る3つのレコードに、挑み走り続けた「軌跡」だ。
偶然はある。自分にとって不都合なものこそ重なってしまう。
評価はある。自分にとって苦しいものは強く、大きな声で聞こえてしまう。
懸命に前を向いて進めば、残せるものがあるのだと「彼」に教わって、今も私は生きている。
写真:@pfmpspsm
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