草競馬で逢おう - イグナイターの挑戦

1.「地方落ち」

文筆家・寺山修司は競馬評論家としての旺盛な活動でも有名だ。私も『ウマフリ』で寺山が世に送り出したエッセイの数々を紹介してきたが、実は馬主だったこともあるという話をご存知だろうか。船橋競馬でユリシーズという競走馬のオーナーになったのである。その経緯は実に寺山らしい。

寺山は「さらばミオソチス」というエッセイの中で、オークス3着やオールカマー・福島記念制覇といった輝かしい実績を持つミオソチスが地方競馬に移籍することを「地方落ち」として批判した。

「さらばミオソチス」という章は、中央競馬の花形だったミオソチスが草競馬に売られたことを感傷したものである。(その中で私は、かつてオールスターにえらばれたような馬がアバラヤのような公営競馬の馬房につながれていることに同情し、往年の流行歌手が地方の裏町劇場で唄っているようだ、と書いたのである)
 私はミオソチス(忘れな草という意味)という美しい牝馬は、公営で老残をさらしてほしくないと書き、名血の馬の末路には心をくばるべきだ、とも書いた。

寺山修司「草競馬で逢おう」(『馬敗れて草原あり』角川書店、1979年)より引用

しかし、これに船橋競馬の森誉騎手から反論の手紙が届いた。

 彼のいい分は「草競馬と中央競馬を区別し、中央競馬にエリート的特権をもたせようとする貴殿のいい分は、競馬音痴のすることだ」ということである。
(中略)
「暇ができたら私たちの船橋競馬場に足を向けてみなさい。少なくとも、中山競馬場の厩舎より明るく新しい馬房がズラッと並んでいますよ。それに、サラブレッドの競走馬は生まれたときから走ることを宿命づけられているのだ。どんな芝生だろうと、彼らは人間共のケチな詩的良心をこえて、いきいきとして、走っているのだ」というのである。

寺山修司「草競馬で逢おう」より引用

寺山は森騎手の率直さに好感を覚え、直接会って親交を結ぶようになる。その後調教師に転身した森騎手は、寺山に地方競馬で馬主になることを勧めた。そこで寺山が購入したのがユリシーズ。ジェイムズ・ジョイスの小説が由来だが、そもそも「ユリシーズ」はギリシア神話に登場する英雄オデュッセウスの英語名。「トロイの木馬」作戦を立案した智将の名前を付けるのだから、寺山の期待感がうかがえる。

寺山はユリシーズのレースを見守るために船橋競馬場にも頻繁に足を運ぶようになる。

三戦目の船橋で勝って、私をよろこばせてくれた。私はニンジンを持って、 船橋へ出かけてゆくことが多くなり、しだいに地方競馬の素朴さにも魅かれるようになっていった。ユリシーズは逃げ馬だったが、コーナーワークが下手で、「うまく、カーブを切れない」という難点があった。
「なあに、おれの馬は曲ったことがきらいなのさ」と、私はうそぶいていたが、三勝までトントンといったあとスランプになって、十戦ほど立てつづけに負けた。 馬主になってみれば、勝ち負けだけが競馬のたのしみ、というわけではない。予想紙にユリシーズと印刷されてあるだけでも、私は何かが胸につきあげてくるような感じをおぼえたのである。

寺山修司「あの馬はいずこに 旅路の果て」(『旅路の果て』新書館、1979年/河出書房新社より2023年復刊)より引用

ユリシーズに自分の性格を重ね、勝ち負けを超えた感情を抱いて応援する寺山。元々「反エリート」的な競走馬を愛していた彼と、中央競馬に対抗意識を燃やす地方競馬のホースマンの相性は良かったのだろう。

寺山がユリシーズのオーナーとなったのが1960年代末のこと。そこから半世紀以上が経って地方競馬の立ち位置は大きく変わった。1970年代〜80年代はハイセイコーやオグリキャップといったアイドルホースが地方競馬から中央競馬に移籍して人気を博し、競馬ブームを牽引。1999年には岩手所属のメイセイオペラが中央GⅠのフェブラリーSを勝利し、レースの歴史にその名を刻んだ。その後各地の地方競馬が立ち行かなくなって廃止の憂き目にあった2000年代初頭の冬の時代を経るも、ネット投票の普及などの影響で売上は回復した。地方と中央の交流競走も活発に行われ、2024年からは「ダート三冠」が創設。中央・地方の垣根を越えた統一王者を決める体系整備が進められつつある。もはや「草競馬」と揶揄する者はいないだろう。

地方への移籍も選択肢の一つとして捉えられるようになり、「落ちぶれた」という認識は「昭和の遺物」と言えるかも知れない。とは言え凱旋門賞やブリーダーズC、ドバイワールドCなどの世界の頂点を争う競走に毎年のように有力馬を送り出す中央競馬と異なり、地方競馬にとって海外遠征のハードルはまだ高い。2005年には大井の王者・アジュディミツオーがドバイワールドCの招待を受けたが、6着と不完全燃焼の結果に終わった。しかし、そのガラスの天井を突き破ろうと挑戦した1頭の競走馬がいた。兵庫の雄・イグナイターである。

2.運命を変えた地方移籍

エスポワールシチー産駒のイグナイターがデビューしたのは中央競馬。2020年11月の東京競馬場ダート1600m戦であったが、2戦目となった条件戦で敗れると野田善己オーナーは地方移籍を決断する。

この子のことを思えば、武者修行に出たほうがいいのかもしれないと思って。だから目標を地方の重賞に切り替えた。僕自身、地方競馬も大好きで、そちらを盛り上げる手助けになりたい気持ちもあってね

赤城 真理子「運命を大きく変えた惨敗 目標を切り替え武者修行へ【イグナイター物語2】」(『東スポ競馬』、2022年6月8日)より引用
https://tospo-keiba.jp/reporter-column/15233

地方移籍を「武者修行」に喩える野田オーナー。そこには「地方落ち」というネガティブな捉え方は無い。

本来は兵庫ダービー(現・兵庫優駿)出走を目指していたものの、収得賞金の関係から一度南関東への移籍を挟んで兵庫の新子雅司厩舎の所属馬となる。大井の福永敏厩舎所属時は京浜盃2着などマイル以上の距離を使われていたが、これまでのレースでの前進気勢の強さから、野田オーナーと新子調教師はイグナイターをスプリンターとして育てることを決めた。この決断がイグナイターの運命を大きく変える。3歳秋の楠賞で重賞馬となると、JpnⅢの兵庫ゴールドトロフィーで3着と中央勢に伍する力を見せた。

古馬となった4歳シーズンは積極的に他地区に遠征。高知では黒潮スプリンターズCを勝って臨んだJpnⅢ、黒船賞でダートグレード競走初制覇を飾る。名古屋でのJpnⅢかきつばた記念も勝ってダート短距離界のホープとして名声を高めた。秋は盛岡でマイルチャンピオンシップ南部杯・JBCスプリントとJpnⅠ2競走に挑み、4着→5着。長距離遠征でも崩れない精神力を手に入れた。

NAR年度代表馬となった5歳シーズンでは兵庫代表として南関東の舞台に戻ってくることとなる。船橋で行われる春のダートマイル王決定戦・かしわ記念。主戦の田中学騎手が同日の兵庫大賞典でジンギに騎乗することになっていたため、南関の若手ホープ・笹川翼騎手との新コンビ結成が決まる。笹川騎手は追い切り騎乗のために園田競馬場を訪れるなど入念に準備を重ねた。このレースこそ7着に敗れるが、笹川騎手の熱意は次のさきたま杯で実を結ぶ。

2024年度からのダート競走体系整備の一環としてJpnⅠ昇格が決まっていたJpnⅡさきたま杯。したがってこのレースの覇者は翌年、JpnⅠとなって初年度となる、さきたま杯ポスターのメインを飾ることとなる。タイトル奪取を目指して中央勢・南関勢共に実績十分のメンバーが顔を揃えた。

中央勢筆頭は前走かしわ記念4着のシャマル。浦和1400m戦は前年のオーバルスプリントで制した舞台であり、前年3着の雪辱を期する。加えてサウジダービー3着のコンシリエーレ、ゴドルフィンマイル・1351ターフスプリント勝ち馬バスラットレオンと海外遠征経験を持つ有力馬も参戦した。南関勢からは中央所属時代に東海Sなどを勝っている古豪エアアルマス、南関のマイル重賞で安定して好成績を残すエスポワールシチー産駒・スマイルウィらが出走。イグナイターは10頭立ての7番人気と伏兵扱いであった。

しかし笹川騎手はイグナイターの力を信頼していた。内側の4〜5番手を確保してスマイルウィ・バスラットレオンら先行勢をマーク。4コーナーから手応え良く進出を開始するとバスラットレオンを競り落とし、スマイルウィにクビ差先着したところがゴール。1番人気シャマルが跛行により競走中止となるアクシデントはあったものの、紛れもなく強い勝ち方だった。

笹川騎手は金星を挙げた相棒を讃えた。

前の強い馬をマークして運んだ。4コーナーの手前の手応えがよく、あとは自分は焦らず、リズムよく乗ればと思った。直線では最後まで歯を食いしばって、本当に頑張ってくれた。

「【さきたま杯】イグナイターがJRA勢撃破…笹川翼騎手「最後まで歯を食いしばって本当に頑張ってくれた」」(『スポーツ報知』2023年5月31日)

地方他地区の所属馬がさきたま杯を勝つのはレース史上初の快挙。ダート短距離界のスターとしての地位を確固たるものにした。

2023年の秋シーズン、田中騎手が怪我の療養に入った後は笹川騎手が引退まで主戦を務めることになる(2024年のフェブラリーSのみ、規定により笹川騎手の騎乗が出来なかったため西村淳也騎手が騎乗)。2度目の挑戦となった南部杯はレモンポップに大差勝ちこそ許したものの2着を確保。カフェファラオやノットゥルノらGⅠ級競走勝ち馬にも先着し、中央勢の一線級とも互角に戦えるところを見せた。次に挑むはダートスプリント王者決定戦・JBCスプリントである。

ここまでの実績を考えれば単勝オッズ一桁台でもおかしくないが、前走のコリアスプリントでコースレコードを塗り替える圧勝劇を演じたリメイクが単勝1.2倍と人気を集め、春に今回と同条件の東京スプリントを勝っているリュウノユキナが7.0倍の2番人気。中央勢2頭に押され、イグナイターは13.4倍の3番人気に留まった。

しかしレースは2番手からレースを進めて直線抜け出す王道の競馬でリメイクに1馬身半差をつける快勝。兵庫所属馬初のJpnⅠ制覇という偉業を成し遂げた。もはや中央・地方という枠を超え、日本を代表する名スプリンターとなったのである。

3.兵庫から世界へ

そして2024年1月、野田善己オーナーからイグナイターのローテーションが発表された。春の大目標をJpnⅠ昇格初年度となるさきたま杯とした上でフェブラリーステークスから始動し、結果次第でドバイ遠征を行うというものである。

春の大目標をさきたま杯にしてのローテーションなので
兵庫からの海外遠征に未知な部分が多過ぎて先ずはもうひとつの憧れでもあるJRAG1に挑戦する事にしました

検疫の問題等未整備な部分も多くJRA勢が海外に行くのが
兵庫からでは宇宙に行く感覚に近いです😅
ただ挑戦しなくては解決出来ない問題でもあるので必ず挑戦するつもりです
1400がベストの彼にとって府中の1600も試練ですが奇跡を信じて陣営一丸で頑張ります
もし勝てればさきたま杯の心配は考えずドバイに行きたいです

野田善己氏X、2024年1月25日投稿より引用
https://x.com/i/status/1750469876416930240

結果としてフェブラリーSは11着に終わるが、逃げたドンフランキーを捉えて一度は先頭に立ち、NAR年度代表馬としての意地を示したレースであった。マイル戦ではなくスプリント戦なら、と思わせる走りを見せたイグナイターの次走について、野田オーナーはドバイゴールデンシャヒーンへの出走を決意。「宇宙に行く感覚」と語る海外遠征が実現したのである。

兵庫所属馬どころか西日本地区の地方所属馬による海外遠征は史上初。JRA協力のもと、栗東トレーニングセンターの検疫施設を活用しての輸送という異例の措置が取られ、イグナイターはドバイへ飛んだ。

レース本番、イグナイターは大きくは出遅れなかったものの中団からの競馬になってしまった。最後は末脚を見せるも5着まで。とは言え初めてづくしの海外遠征で掲示板に入ったのだから、歴史的なレースだったと言えよう。

レース後、野田オーナーは以下のように回顧している。

チームジャパンとして世界で闘ってみて思ったのは
JRAの陣営はこれが日常として経験してるんだと
日本のレースでこの経験を当たり前のようにしてるJRAはそりゃNARより強いわと思いました
JRAとNARの差は施設や馬質だけじゃなく
こう言った経験の差もあるのかなと
世界で闘うってのはそれだけ凄いことやらないとって勝てないんだと肌で感じて思いました
NAR陣営ももっと世界に出て行くべきじゃないのかなと

野田善己氏X、2024年3月31日投稿より引用
https://x.com/i/status/1774423687640556016

結果は5着です
競馬にタラレバ言ってもですが
枠と並びがイグナイターには向かず
全くやりたい競馬が出来ずに終わりました
その中での5着なので悲観はしていません
むしろチャレンジを続ければいつか地方からでも勝てるのではと手応えを掴みました

野田善己氏X、2024年4月2日投稿より引用
https://x.com/i/status/1775118865531584874

中央競馬と地方競馬が経験してきた海外遠征に対する蓄積の差を指摘しつつ、チャレンジを続ければ地方馬が海外GⅠを勝つことが可能ではないかと語る野田オーナーの言葉は、地方競馬が新たなフェーズに入ったことを感じさせた。

4.草競馬で逢おう

帰国後のイグナイターは自らがポスター写真を飾ったJpnⅠさきたま杯で再びレモンポップと再戦するも、リベンジはならずまたも2着。そして秋2戦も勝つことは出来なかった。翌2025年はサウジアラビアのリヤドダートスプリントに出走するもゲートでのトラブルがあり大敗。この年の南部杯を最後に引退、種牡馬入りした。単純に数字だけ見ればGⅠ級競走は1勝のみだが、この馬の功績はそれだけで測れるものではない。

サウジアラビアからの帰国初戦となった兵庫大賞典の前、野田オーナーは次のようなポストをしている。

自分の選んだ道が損だと分かっていても
得するのが必ずしも正解だと思ってないから全然いい

他人には間違ってる馬鹿だと思われようが
自分が納得出来る事が僕は一番大事なので
損得計算だけで流されながら右往左往して生きるよりずっと納得出来ます

野田善己氏X、2025年4月29日投稿より引用
https://x.com/i/status/1917145126268551197

イグナイターが国内に専念していればもっと勝利を重ねて賞金を獲得できた可能性はあるだろう。しかし、陣営は困難な挑戦を選んだ。

寺山修司は森騎手が持つホースマンとしての矜持に感銘を受け、次のように綴っている。

私は、もしかしたら草競馬に偏見をもちすぎていたかも知れない、と思った。
それは森騎手のいう「騎手も調教師も同じ日本人なのに、ちがうわけがない」という意識とふかいところでつながっている。

寺山修司「草競馬で逢おう」より引用

この森騎手の言葉は半世紀以上前のもの。当時は中央馬ですら海外遠征で苦戦していた時代。地方馬の海外遠征など夢物語だっただろう。にもかかわらず、現代の地方競馬を支えるホースマンたちにも通底する魂が感じられるのは、脈々と受け継がれてきた「草競馬」の誇りがあるからだと思われる。

寺山は「ミオソチス」(忘れな草)という馬名と「草競馬」との不似合いさを指摘していたが、「イグナイター」(点火剤)という馬名は、現代の「草競馬」に非常に似つかわしく思う。

イグナイターの挑戦の後、地方競馬からの海外遠征において偉業が相次いだ。ユメノホノオは高知所属馬初の海外遠征を敢行し、YTN杯で3着、コリアグランプリで4着と韓国の地で健闘した。大井のディクテオンはGⅢのコリアCで勝利し、地方所属馬初の海外ダート重賞制覇を達成。イグナイターが「点火」した炎はこれからも燃え続けていくであろう。世界を目指す優駿たちよ、「草競馬で逢おう」。

写真:s1nihs、ほこなこ

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