[ウマ娘]小柄で臆病…でも健気なウマ娘! ウマ娘ライスシャワーと、史実馬ライスシャワー。

「周りで起こる不幸は全部自分のせい……」

そう思い込む、1頭のウマ娘がいました。

そのウマ娘の名は「ライスシャワー」。

小柄で臆病で弱気ながらも、誰かのためなら一生懸命に頑張る事ができる、健気なウマ娘です。

今回はそんな、自分の名前に反して自分の周りを不幸にしかしないと思っているウマ娘を、史実のライスシャワーと共に解説させて頂きます。


(馬齢に関しては分かりやすいように現代の表記に合わせています)

メイクデビューに出走

ライスシャワーは1989年3月5日、北海道登別市のユートピア牧場で産まれました。ライスシャワーの父は、米国産馬で桜花賞馬シャダイカグラの父でもあるリアルシャダイ。母はマルゼンスキー産駒のライラックポイントです。産まれた当時のライスシャワーは「小柄だがバランスの取れた馬格だ」と評価されていたといいます。1歳になり育成場に移動した後も、立ち姿だけでは体が硬いのかなと思われることもあったようですが、いざ乗り役を背に走ってみると「雲の上に乗っているような気分だった」と抜群の柔らかさを見せる一面もあったようです。

ライスシャワーは本来であれば1991年の7月にデビューする予定でしたが、熱を出してしまい8月10日のデビューとなりました。

後にステイヤーと呼ばれたライスシャワーですが、デビュー戦は1000mの超短距離戦。といっても2歳の夏のレースは多くが1200mから1600mなので、ライスシャワーが異例中の異例という訳ではありません。3200mを勝っている馬が1000m戦を勝てるか疑問に思う方もいらっしゃるかもしれませんが、ライスシャワーはこのレースを先行策からの差し切りで、見事デビュー戦での勝利を収めました。

2歳の時点で距離適性に関して色々と言うのは野暮かもしれませんが、約1年後に3000mのG1レースを勝利する馬が1000mのレースを勝利するというのは持ち前のスピードの証だったのかもしれません。

スプリングSで5着以内

新馬戦を勝利したライスシャワーは新潟3歳S(現在の新潟2歳S)に向かいますが、出遅れたということもあり11着と大敗。ただ、鞍上の菅原騎手も「乗った印象としては短いところで忙しいレースをするより、長距離でじっくり勝負するタイプだと思った」と語るように、この頃から長距離適性を見せていたようです。

ライスシャワーは3戦目で少し距離を伸ばし芙蓉Sに出走します。芙蓉Sでは出遅れることなくスタートを決めて、アララットサンとの競り合いを制しOP馬の仲間入りを果たしました。

これで来年のクラシックに向けて勢いがつくか、となったタイミングでしたが、全治3か月の右前足の骨折が判明。残りの2歳シーズンは完全休養となりました。


年が明けて3歳になったライスシャワーは、スプリングSに出走。新馬戦と芙蓉Sでは当時若手だった水野騎手が騎乗していましたが、皐月賞のトライアルということもあり、ベテランの柴田政人騎手が騎乗しました。レースはミホノブルボンが2着に7馬身差をつける圧勝で、ライスシャワーは4着に敗北。結果としては敗れたライスシャワーでしたが、鞍上の柴田騎手に「この先体調も良くなり、レースの距離も伸びれば、かなりいいところまでいく馬だと思ったよ」とコメントを残されているように、レースを重ねれば重ねるほど、その素質を徐々に見せはじめていっまのでした。

日本ダービーで5着以内

スプリングS後、ライスシャワーはいよいよクラシック戦線に乗り込みます。乗り込むとは言っても、皐月賞以前のライスシャワーを見ていたファンの中で「皐月、ダービー、菊花のどれか1つは取る」と思うファンは、あまり多くなかったかもしれません。

そのファンの気持ちを反映したのかライスシャワーは皐月賞では11番人気、NHK杯でも9番人気と、お世辞にも高い人気とは言えませんでした。

レースでも初めてのG1となった皐月賞では最終コーナー付近で失速し8着。続くNHK杯でも8着と、なかなか良い所を見せることができませんでした。

さて、仮にウマ娘で皐月賞で8着を取ってしまうと、ライスシャワーは申し訳なさそうにトレーナーの元にトボトボと戻ってくるかもしれません。

皆さんなら何と声をかけますか?

私なら出走しただけで充分凄いことですから「頑張ったね!」「次頑張ろう!」と、皐月賞という舞台に出走できた事を、沢山褒めてあげると思います。

これは実馬のライスシャワーにも言えることで、年間8000頭以上の競走馬が生産されていた中で、その中で一流の牡馬達が揃うクラシックレースに出走したことは、少なからず生産者・関係者・ファンをワクワクさせる十分な活躍を見せたと言えます。つまり、当時から充分に名馬としての素質を持っていた競走馬だったということではないでしょうか。


1992年5月31日、東京競馬場に16頭の優駿が集います。その中に、ライスシャワーもいました。
単勝114.1倍と超大穴とみられていたライスシャワーでしたが、いよいよその名馬の片鱗を見せることになります。

レースでは皐月賞馬ミホノブルボンが先頭で引っ張る展開に。

その後ろでミホノブルボンの背中を見ながら2番手の位置につけていたのが、ライスシャワーでした。

1コーナー、2コーナー、向こう正面と完全にミホノブルボンがペースを作りそれにじっとついていくライスシャワー。3コーナーで徐々に前に迫ると、それに反応するかのようにミホノブルボンもペースを上げていきます。

迎えた最終コーナー、ミホノブルボンが完全に抜け出します。ライスシャワーもそれに食らいついていこうとしますが、ミホノブルボンのペースに付いていっていたということもあり、最後はなされてしまいます。しかし後続の追込みには競り勝ち、ダービーという舞台で2着を勝ち取りました。

このライスシャワーのダービー2着の凄さについて……競馬では200mごとのタイムを測るのですが、ダービーでのミホノブルボンのタイムがこちら。

12.8 - 11.7 - 12.3 - 12.2 - 12.2 - 12.2 - 12.5 - 12.5 - 12.3 - 12.6 - 12.0 - 12.5

この精密なペースについてこれる先行馬はほとんどいないでしょう。そのため、先行争いをしていた馬たちは直線で息が切れてしまい後退。特にライスシャワーと2番手争いをしていた2頭、ホクセツギンガ・マーメイドタバンは14着、8着と共に馬群に沈んでしまいました。3着、4着、5着と掲示板に乗った馬はすべて、レース序盤は後方12番手以下から足を溜め、最後の直線に賭けていた差し・追込み馬たちばかり。そうしたことからも、ライスシャワーがミホノブルボンにスタートから付いていき2着になった凄さがうかがえます。

菊花賞で3着以内

ダービー後休養を挟み7月下旬にトレセンに帰ってきたライスシャワー。休養明け1戦目のセントライト記念を2着、菊花賞トライアルの京都新聞杯でもミホノブルボン2着と、勝ちきることはできませんでしたが、着実に成長を見せます。

そして、遂に迎えた菊花賞。鞍上の的場騎手は、ミホノブルボンには3000mという距離は合わないだろうということ、そして京都新聞杯の後に「逃げ馬のキョウエイボーガンが出走すれば勝てるかもしれない」と語っていたキョウエイボーガンが狙い通り菊花賞に出走してきたということもあり、ライスシャワーがミホノブルボンに勝てるという思いを強めていたはずです。

レースではキョウエイボーガンが大逃げを打ち、ミホノブルボンは2番手、ライスシャワーは5番手の位置からレースを進めました。ミホノブルボンにとってはこの2番手での競馬が慣れないもので、苦戦します。スプリングSから菊花賞の前走の京都新聞杯まで先頭を走り続けたミホノブルボンは、前に馬がいることを嫌がり、掛かり気味で追いかけてしまったのです。『サイボーグ』と言われたミホノブルボンが感情をむき出しにした瞬間でした。

結果、菊花賞史上稀にみるハイペースとなります。そしてこのハイペースが、ライスシャワーを後押ししました。

最終コーナー手前でキョウエイボーガンをミホノブルボンが交わして先頭に立ち「3冠達成か!?」とファンの視線を集めます。しかしのこり200mで、一気にマチカネタンホイザとライスシャワーが競り合ってきました。

逃げるミホノブルボン、内からマチカネタンホイザ、外から迫るライスシャワー。ミホノブルボンも必死の抵抗を見せマチカネタンホイザは抑えましたが、最後にはライスシャワーがミホノブルボンを差し切り、レコードタイムのオマケ付きで見事クラシック最後の一冠を手にしました。

……普段であれば優勝馬を讃えるG1馬の舞台でしたが、この日の京都競馬場は異様な雰囲気に包まれてしまいます。「拍手もなくて、ブーイングのような雰囲気」だったと語られるように、ミホノブルボンの無敗三冠を阻止したライスシャワーを讃えるファンは、多くはなかったと言います。

天皇賞(春)で1着

菊花賞のあと有馬記念に出走したライスシャワーですが、ここでは作戦がかみ合わず8着に。年が明け4歳となったライスシャワーは、目黒記念から始動しました。天皇賞春を目標にしていた陣営は、菊花賞3着のマチカネタンホイザを目標に定めレースに挑み結果は2着と敗れました。ただし調整中だったということもあり、陣営も内容的には満足していたことでしょう。

そして天皇賞(春)前の日経賞では1番人気に応え、見事に勝利。重賞2勝目となりましたが、気を緩めることなく、天皇賞(春)を2連覇していたメジロマックイーンに目標を定め、徹底的に追い込む調教が施されました。その調教内容は「レース前に馬がつぶれるほどではないか」と言われるほど過酷な調教内容だったそうです。

その調教の結果はレース前のパドックで、すでに表れていました。

このレース騎乗予定だった的場騎手は

「なにか猛獣というか、すごい生命体というか、そばに近づいたときから、火でも吹かれるんじゃないかって、そんな恐ろしいような雰囲気がありましたが、乗ったらもう、馬じゃない別の生き物でしたよ。これで下手に怒らせたら、指や足を食いちぎられるんじゃないかと思ったぐらい」

と語るぐらい、ライスシャワーは打倒メジロマックイーンに燃えていました。

レースでは前年の有馬記念を制したメジロパーマーが逃げ、メジロマックイーンがそれを見る形で、更にその後ろにライスシャワーが付ける形に。2周目の向こう正面までメジロパーマーが大きくリードを保ち、最終コーナーが近づくにつれ3頭が一気に横並びとなり、馬群から完全に抜け出しました。

3200mという長い距離のレースの最後の直線、脚が上がっていてもおかしくはありません。しかし3頭はゴールまで、激しい叩き合いを続けます。

そしてその叩き合いを制したのは……ライスシャワーでした。
3分17秒1のレコードと、とてつもない速さで天皇賞(春)を駆け抜けました。


このレース以降ライスシャワーは「関東の刺客」「レコードブレイカー」と呼ばれるようになりました。

宝塚記念で3着~有馬記念で1着

ゲームであればシニア級(4歳)で宝塚記念に出ていますが、史実では宝塚記念には出走せず休養には入り、9月上旬にトレセンに帰ってきました。休養明け1戦目のオールカマーでは、天皇賞(春)でメジロマックイーンに勝利したということもあり1番人気に支持されますが、ツインターボの大逃げを捉えられず3着に敗れます。続く秋古馬三冠でも天皇賞(秋)6着、ジャパンカップ14着、有馬記念8着となかなかレースで振るわず……。馬体そのものは天皇賞(春)制覇時とさほど変わらなかったことから、陣営は精神面の問題を探りましたがそれもはっきりせずレースを重ねる日々が続きました。

年が明け5歳になったライスシャワーは京都記念5着、日経賞2着と徐々に復調の兆しを見せ始め「ここらあたりがトンネルの出口かとも」と主戦騎手の的場騎手も思っていたようです。

しかし天皇賞(春)連覇に向けて調教を積んでいたライスシャワーに、2度目の骨折が襲い掛かりました。

2歳時の骨折と違い、競走馬として現役を続行すること自体が危ぶまれるほどの骨折でした。種牡馬になる道も検討されましたが、小柄な馬体と長距離以外での実績がないということを受け、現役続行が決断されたと言われています。

2度目の天皇賞春

現役復帰を目指すライスシャワー。骨折当初は復帰まで1年程と見込まれていましたが、予想以上に回復が早く10月末にはトレセン学園へ戻ってきました。復帰戦の有馬記念ではその年の三冠馬ナリタブライアン、女傑ヒシアマゾンに続いて3着に。

年明け6歳になったライスシャワーは昨年と同じく京都記念、日経賞に出走しますが、2戦連続で6着と結果こそは出ませんでした。しかし着実に、レース勘を取り戻していました。

そしてついに2度目の天皇賞(春)を迎えます。阪神大賞典を制したナリタブライアンが回避したことにより、ライスシャワーは4番人気ながら5.8倍のオッズと混戦模様の天皇賞(春)となりました。

レースは逃げ馬不在ということもあり、スローペースで進みました。このスローペースに1番反応したのがライスシャワーで、スタートから7番手付近を追走していたのですが、向こう正面で一気に前進していき3コーナー辺りで先頭に立ちます。そのライスシャワーのやる気に鞍上の的場騎手も応え「この瞬間の馬のやる気にのって、その勢いでゴールまで粘りこむという、一種の奇襲戦法をとれば、僅かだが勝つチャンスがある」と考え800mのロングスパートを仕掛けたそうです。

最終コーナーで先頭に立ったライスシャワーが逃げ込みを図り、のこり100mの時点では数馬身後方と離れていましたが、最後の最後で外からステージチャンプとほぼ同時にゴール。先に、ステージチャンプの鞍上・蛯名騎手の手が上がります。しかし実況を担当されていた杉本清さんの「やったやったライスシャワーです!」「メジロマックイーンもミホノブルボンも喜んでいる事でしょう」という実況が響きます。

結果は写真判定の末、ライスシャワーが2年ぶりのG1、天皇賞(春)2勝目を勝利。ファンは、ライスシャワーの復活劇を祝いました。

そして、菊花賞の時とは異なり、多くのファンの祝福と温かい拍手に迎えられました。

ライスシャワー、最期のレース

天皇賞(春)を制したライスシャワーは、宝塚記念へと向かいます。阪神淡路大震災の影響で京都競馬場で開催されるということ、斤量が軽い56kgで出走できること、そしてなにより宝塚記念のファン投票で1位に選出されたことが大きな理由のようです。さらには、宝塚記念という中距離でのレースで実績を残して種牡馬入りするという目標がライスシャワーに課せられていたとされています。

1995年6月4日京都競馬場。天気は曇りでしたが、多くのファンがライスシャワーに声援を送りました。

ゲートが開き、各馬が一斉にスタート。いつもなら前方でレースをしていましたが、ライスシャワーはこのレースでは後方10番手からのレースとなりました。ライスシャワーの異変は最初のコーナーで出ていたそうで、鞍上を務めた的場騎手は「今日は勝つどころじゃない、慎重にまわってこようと」考えるほどでした。そして迎えた第3コーナー、ライスシャワーは自らスピードをあげます。

その直後ライスシャワーは転倒、左第一指関節開放脱臼、粉砕骨折を発症し、その場で安楽死の措置がとられたのでした。

史実馬ライスシャワーと、ウマ娘ライスシャワー

ライスシャワーという名前は「本馬に触れる全ての人々に幸福が訪れるように」との意味が込められていたと言われています。

しかしウマ娘のライスシャワーが自分といると周りが不幸になると思い込むのは、ミホノブルボンの三冠阻止、メジロマックイーンの天皇賞春3連覇阻止、そしてやっとファンに迎えられた宝塚記念で天馬になってしまうといったバックグラウンドがあるため、自分がいると周りが不幸になると思い込んでいるのかもしれません。


しかし今はどうでしょうか。
ライスシャワーという名前のウマ娘が、ウマ娘の世界で活躍し多くのファンを笑顔にし、幸せにしています。私も、その1人です。

この記事を書くにあたり、ライスシャワーの主戦を務めた的場騎手の言葉に、深く考えさせられました。

「僕らは勝つために、最大限の努力をしている。その努力には、さまざまな思いや戦略が、たとえひとつでも違っていたら勝利を勝ち取ることなどできないほどの緊密さ、複雑さで絡み合っている。そのあたりをこそ見てほしいのだ。それこそが勝負の面白さ、レースの面白さでもあると僕は思う。アイドルだとか悪役だとか、馬たちを擬人化しては、ドラマ仕立てで眺めるのも競馬のひとつの楽しみ方なのかも知れないが、そうした見方では決して感じ取れない、ずっと奥の深い、面白い世界が、そこには広がっているはずである」

今まさにウマ娘という世界で多くのウマ娘たちが擬人化され、それぞれのドラマを多くのファンが楽しんでいます。そしてウマ娘に出会わなければ見ることのなかった、ずっと奥深く、面白い世界に触れることができています。

誕生から約30年という長い時を超えて、その名の通り多くの人々に幸せにし、競馬という世界に誘うライスシャワー。

私はこれからも、彼女、そして彼の功績が、後世に語り継がれることを願っています。

開発:Cygames
ジャンル:育成シミュレーション
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