
6月の府中開催が終わると、季節はゆっくりと夏へ向かい、福島競馬が始まる。
この切り替わりは、毎年どこか胸の奥をそっと撫でていく。初夏の府中競馬場で積み重ねてきた濃密な週末とは違う、「夏のリズム」が動き出す合図のようでもある。
関東エリアの夏競馬——福島から新潟へと続く10週間は、週末を競馬場で過ごしてきた生活に、ひと呼吸を与えてくれる時間だ。馬たちが府中から函館へ、福島へ向かうように、私の気持ちも少しだけ軽くなる。日曜の午後、グリーンチャンネルを眺めながら、メインレースまでの時間がゆっくり流れていく。その「間」は、今までとは異なる時間の余韻が生まれる。
3つの競馬場から10分ごとにゲートが開き、馬たちが真夏のゴール板を目指して駆けていく。そのシーンを追いながら、ふと気づく。夏の競馬は、ただ結果を追うだけではなく、季節の移ろいを感じながら馬と向き合う時間なのだと。
福島開催が始まると、競馬の熱は形を変える。冷めるのではなく、少し落ち着き、深呼吸をして、また次の高揚へ向かう準備を始める。そんな「夏の入口」としての福島が、今年もまたやってくる。

夏の福島開催といえば、やはり思い浮かぶのはラジオNIKKEI賞と七夕賞だ。開幕週に組まれるラジオNIKKEI賞は、3歳馬たちが秋へ向けて一歩踏み出す「夏の始発駅」のような存在である。春のクラシック戦線を駆け抜けた馬も、ここから再び歩みを進める馬も、福島の1800メートルに集い、それぞれの秋への思いを描き始める。
このレースの歴史は古く、今年で75回目。名称は時代とともに変わり、2005年以前はラジオたんぱ賞、1978年以前は日本短波賞として親しまれてきた。施行時期が現在のように春のクラシックが終わった直後に落ち着いたのは、1954年(第3回)から。福島の1800メートルが舞台として定着したのは1979年、名称がラジオたんぱ賞となった年である。
そこから約半世紀、ラジオNIKKEI賞は夏の福島の幕開けを告げるレースとして、競馬ファンたちに親しまれてきた。
クラッシック戦線の熱気が少し落ち着き、夏の光が強さを増す頃、福島のターフで3歳馬たちの熱い戦いが展開される。その光景は、夏競馬のゆったりとしたリズムの中に、ひと味違う躍動をもたらす。それが、ラジオNIKKEI賞である。
半世紀近く福島で施行されてきたラジオNIKKEI賞だが、その長い歴史の中では、福島競馬場の改装などに伴い、舞台が移った年もある。
2011年には中山で行われ、フレールジャックが夏の始動戦を鮮やかに飾った。
ラジオたんぱ賞時代の2000年は府中で施行され、ルネッサンスが直線の長い東京コースを力強く駆け抜けた。
さらに遡れば、1996年にも中山競馬場で第45回ラジオたんぱ賞がスタートしている。
■偶然が生んだ、運命の舞台
1996年夏。
中山競馬場で行われたラジオたんぱ賞を制したのが、ビッグバイアモンだった。
ビッグバイアモン——生涯わずか5戦3勝。数字だけを見れば、競馬史に名を刻むほどの実績ではない。しかし、その短いキャリアの中で彼が見せたスピードは、当時彼のレースを見た、古い競馬ファンの記憶には鮮烈に残っている。
後年、鞍上を務めた蛯名正義騎手(現調教師)が「無事なら天皇賞(秋)くらい勝てた馬」と語ったとされる逸話がある。その言葉こそ、ビッグバイアモンという存在をもっとも端的に表しているのかもしれない。
「未完」——その二文字が、似合う幻の名馬だった。

1996年のラジオたんぱ賞は、福島競馬場の改装工事で代替開催として中山競馬場で施行された。この「偶然」が、ビッグバイアモンにとって運命の舞台となる。
中山芝1800メートルは、単純なスピードだけでは押し切れないコースである。スタート直後から流れに乗る器用さ、コーナーをスムーズに回るセンス、そして最後まで脚を持続させる機動力。そのすべてが要求される。ビッグバイアモンは、その条件に驚くほど適合していた。
ビッグバイアモンはデビューが遅れ、4歳(現3歳)の4月、新潟の4歳未出走戦でデビューする。スタート後、楽に2番手に付けて直線で抜け出す強い競馬。3馬身半差をつけて快勝すると、日本ダービーへの最終切符を目指してプリンシパルSに出走する。
距離の壁もあり、ダンスインザダークの3着に敗れたが、2着のトピカルコレクターとはクビ差の惜敗。日本ダービーへの優先出走権獲得はならなかったが、それでも蛯名騎手はこの馬の持つスピード能力に大きな可能性を感じていた。
ビッグバイアモンはその後、4歳500万以下(現3歳1勝クラス)のほうせんか賞に出走し、楽に逃げて、6馬身差で圧勝する。
■「逃げ」という名の才能開花
そして迎えた6月30日。
中山で施行されるラジオたんぱ賞には、後にセントライト記念を制するツクバシンフォニー、皐月賞3着馬メイショウジェニエなど、例年以上に骨っぽいメンバー9頭が集まっていた。
ビッグバイアモンは2番人気。しかし、パドックで見せた気配は、むしろ主役そのものだった。



ゲートが開く。
その瞬間、ビッグバイアモンは迷いなく前へ出た。蛯名騎手が軽く促すと、自然な流れでハナを奪う。逃げ馬にありがちな力みはない。ただ、自らのリズムで風を切っていく。
1コーナーを単騎先頭で通過。
後続にはツクバシンフォニー、カシマドリームらが続く。しかし、ビッグバイアモンの手応えだけが異様に軽かった。
向正面でも、鞍上の手はほとんど動かない。
中山特有の急坂を下り、3コーナーから4コーナーへ向かう頃には、むしろ後続との差が広がっていくように見えた。

そして直線。
スタンドがどよめく。ビッグバイアモンは中山の短い直線で、逃げ馬が脚色を鈍らせないまま押し切ろうとしている。内ラチ沿いを真っすぐ駆け抜ける。その脚色は衰えるどころか、むしろ加速を増していく。終始2番手でビッグバイアモンをマークしていたツクバシンフォニーは次第に後退。メイショウジェニエも伸びてくる気配は無く、追いすがるカシマドリームを半馬身抑え込み、そのまま先頭でゴールへ飛び込んだ。

勝ち時計1分46秒0はレコードタイム。
だが、その価値は数字以上に大きく、レース内容が圧倒的だった。「とにかくスピードが違った。最後まで手応えが残っていた」というコメントで、蛯名騎手は振り返った。
ビッグバイアモンが刻んだラップは、単なる逃げ切りではなく、スピードでねじ伏せた勝利だった。
この一戦によって、ビッグバイアモンは一躍クラシック後半戦の主役候補へと躍り出る。
■秋へ伸びていくはずだった未来
ラジオたんぱ賞の勝利は、「重賞をひとつ勝った」というだけの内容ではなかった。完成度の高いレース運び。古馬相手でも通用するのではないかと思わせるスピード能力。そして、まだ底を見せていない伸びしろ。陣営は迷うことなく秋の神戸新聞杯へ向かった。
そこをステップに菊花賞、さらに古馬中距離路線へ──。夢は大きく膨らんでいた。
神戸新聞杯でのビッグバイアモンの単勝、1.4倍。
ファンもまた、ビッグバイアモンの未来を疑っていなかった。しかし、競馬というスポーツは、ときに残酷なまでに非情だ。
神戸新聞杯、結果は5着。距離か、展開か。敗因はさまざまに語られた。しかしレース後に判明したのは、左前浅屈腱断裂という重い故障だった。
競走能力喪失…。
わずか5戦で、ビッグバイアモンの競走馬生活は終わりを告げた。
■「もしも…」を永遠に残した馬
引退後、ビッグバイアモンは東北地方の乗馬クラブへ引き取られたという。種牡馬入りの可能性も模索されたが、それは叶わなかった。
しかし不思議なことに、ビッグバイアモンという名は今も語られ続けている。
ラジオたんぱ賞で見せた彼のスピードが、それほどまでに鮮烈だったからである。
後に半妹スティルインラブが牝馬三冠を達成した際、「兄も無事なら……」と語るファンは少なくなかった。
競馬は、「もしも…」を語るのが楽しいスポーツだ。故障がなければ。順調なら。もう少し長く走れていたなら…。
ビッグバイアモンもまた、競馬史の中で「もしも…」が似合う名馬の一頭である。

ビッグバイアモンの走りには、独特の美しさがあった。完成されきっていない荒削りさ。
それでいて、他馬を圧倒するスピード。そして、一瞬で消えてしまった「はかなさ」。
長く走り続けた名馬が、競馬史の主役になることは多い。しかし短い競走生活でも、人の心に深く刻まれる馬はいる。
ビッグバイアモンは、その象徴だった。
中山芝1800メートルを駆け抜けた、あの夏の午後。
栗毛の馬体が描いた一筋のスピードは、30年近く経った今も色褪せていない。
Photo by I.Natsume
