田嶋翔騎手とテイエムチュラサン~「BestFriend」コンビが見せた、夏の輝き

「1615年、陰暦3月3日、首里は祭日で闘鶏と競馬が催される」

(ウィリアム・アダムス(三浦按針)、「琉球諸島航海日誌」)

沖縄は「競馬不毛の地」と思われがちだが、琉球王朝時代の士族の楽しみとして今から400年近く前には競馬が開催をされていたという記録がある。我々が思っている以上に、沖縄と競馬は古くから密接な関わりがあるのかもしれない。
現代の競馬では、名前に沖縄が関連している馬も何頭かいる。
例えば、沖縄民謡から名付けられた「ムスメジントーヨ」や、カッコイイという意味の「チビラーサン」など、競馬の出馬表を見ているだけで沖縄の方言や文化に触れられる機会も多い。
そんな沖縄を連想させる馬は何頭もいるが、今回は重賞戦線でも活躍した「テイエムチュラサン」にスポットをあてていきたい。

冠名の下に付けられたチュラサンとは沖縄言葉で「美しい人」という意味。朝の連続テレビ小説でも「ちゅらさん」というタイトルのドラマがあったので、広い世代に知られている単語かもしれない。

テイエムチュラサンの父は、外国産馬として初の年度代表馬に輝いたタイキシャトル。
母はノーザンテースト産駒のフルフリングスという血統で、鹿児島県のテイエム牧場で誕生した。

競走馬としてのデビューは2004年7月の小倉競馬場で、名物ともいえる「九州産限定」の新馬戦にエントリー。小池隆生騎手を背に2番人気に推されたテイエムチュラサンはスピードの違いでハナに立つと、そのまま逃げ切り勝ち。2着馬に2馬身半をつける完勝だった。
2戦目は小倉でのオープン特別・フェニックス賞。こちらは一般馬に混じっての出走となり、10着と大敗。再び九州産限定戦のひまわり賞に出走すると、やはりここではスピードが違うとばかりに逃切りでの勝利を挙げる。
その後は、賞金を積んだことで出走が叶ったその年の暮れの阪神ジュベナイルフィリーズでは14着。続けて、当時は年末の芝1200mとして開催されていた世代の牝馬限定重賞フェアリーステークスも6着に沈んだ。

「九州産同士なら強いけど、一般馬相手だと勝ち負けできない」

という、九州産馬にありがちなジレンマに陥りかけていた。
ともすれば、地方競馬への転出も囁かれることになりかねないのだが、テイエムチュラサンは一味違った。

ラインクラフトが勝った桜花賞ではシンガリ人気で16着と大敗を喫するが、この敗戦はただの「負け」ではない、テイエムチュラサンにとっての分岐点となった。

1つはクラシック路線には乗らずに短距離路線を進むことを決定付けたこと。
父タイキシャトルという血統的な観点もあったかと思うがオークスには行かず、これ以降はマイル以下の短距離路線を進むこととなった。

もう1つは鞍上の変化。
桜花賞では田嶋翔騎手がその背に乗っていた。テイエムチュラサンを管理する小島貞博厩舎の所属騎手でもあり、その後の主戦騎手となるジョッキーが初めてテイエムチュラサンとのレースに臨んでいたのだ。

桜花賞の次に選んだのは、京都競馬場での世代限定オープン特別の橘ステークス。桜花賞からは400mの距離短縮となる芝1200m戦。それはつまり、小倉で2勝を挙げたときと同じ距離に戻すことを意味した。
さらに直線に坂が無い平坦コースというのも小倉と似たロケーションでもあり、テイエムチュラサンは一般馬相手でも“小倉を思い出したかのように”スピードを活かして2番手を追走。そこから粘りきって2着でゴールをした。

テイエムチュラサンが好走する条件は「直線に坂の無い平坦コースの、芝1200m」ということが分かった陣営は、それに絞ったレース選択をしていくこととなる。
これも当時は6月に芝1200mで開催されていた中京競馬場での名物重賞・ファルコンステークスにエントリーするとカズサラインからコンマ5秒差の5着と掲示板を確保。
小倉でデビューしたときと同じように、季節が夏に向かっているのもテイエムチュラサンには追い風だったのかもしれない。
福島の1600万下のTUF杯、さらに新潟競馬場の直線1000mの新潟日報賞はともに6着だったが、どちらも勝った馬とは1秒差以内の負けだった。

そして迎えた、夏。
自己条件のレースに出走するのは手堅い選択だったが、陣営はこの後、格上挑戦という形でGⅢのアイビスサマーダッシュに挑むことを決断する。

この年の出走馬は13頭立て。
前年の覇者で、GⅠ勝ちもあるカルストンライトオが2倍を切る圧倒的な1番人気に推されていた。
2番人気のウェディングバレーは条件戦とはいえ2戦続けて今回と同じ新潟の直線1000m戦を使われて1着・2着とコース相性の良さは実証済み。
次いで3番人気は新潟の直線1000mでのオープン特別勝ちがあるカフェボストニアン。
そしてやはり直線1000mでの実績があるスピニングノアールまでの4頭が単勝オッズ10倍を切る人気を集めていた。

一方のテイエムチュラサンはというと、単勝オッズは20倍を超える7番人気。
新潟日報賞では先着を許したウェディングバレーも居る顔ぶれでもあり、この人気は仕方のない位置のようにも思えた。
もちろんテイエムチュラサンの逆転の可能性が、ゼロだったわけではない。
まず特筆すべき点は斤量。特に夏競馬では、古馬と3歳馬の負担重量の大きさが目立つことがあるが、このときのアイビスサマーダッシュでも人気のカルストンライトオは59キロ。対してテイエムチュラサンは51キロで、差は8キロ。負担重量は別定で決まるが、ともすればハンデ戦と見間違えそうな斤量差は考慮に入れるべき要素であった。
そして直線1000mでは枠順も重要な予想ファクターとなる。外ラチに近い方が踏み荒らされていない分、綺麗な芝を通れることで「外枠有利」が定説の直線1000m戦。ところが、人気を集めたカルストンライトオが引いた枠は1枠1番。さらにカルストンライトオは「右側にあるラチを頼って走る」癖がある。コーナーがある競馬場では右回りを得意としている馬が、外ラチから最も遠い枠が当たったことで波乱を予想する声も聞かれる状況だった。

レースが始まると13頭は綺麗なスタートを切り、人気のカルストンライトオは最内から一気に外ラチを目掛けて馬を右に右にと寄せていく。そのカルストンライトオに外ラチを取らせなかったのは、抜群のスタートを切ったテイエムチュラサンと田嶋翔騎手のコンビだった。
軽量を活かしてダッシュを効かせると、歴戦の古馬にも遠慮はいらないとばかりに先手を主張。ピタリとその背後にウェディングバレーが追走してレースは中盤戦に差し掛かった。
カルストンライトオは前を捕まえようとするものの、やはり8キロの斤量差は大きいのか、逃げるテイエムチュラサンから次第に離されていき、脚色は一杯になっていく。その様子が実況されると、観衆は大きくどよめいた。
まとめて差し切るような末脚を残している馬も見当たらず、レースはテイエムチュラサンとウェディングバレーの一騎打ちとなった。
外ラチ沿いで激しくもつれ合った、牝馬2頭による叩き合い。

──軍配が上がったのはテイエムチュラサン。
クビ差、凌いでいた。
勝ちタイムは54秒0。

1998年にコウエイロマンが小倉3歳ステークス(当時)を勝利して以来の、九州産馬によるJRA平地重賞制覇だった。

その後、テイエムチュラサンは余勢を駆って秋はスプリンターズステークスにも出走。
そこでは15着と大敗を喫したものの、翌2006年の福島民報杯(当時は芝1200m戦)ではゴールデンキャストとタイム差無しの2着に食い込む走りを見せた。

結果として、勝ち鞍は2005年のアイビスサマーダッシュが最後だった。

2ケタ着順が続く競走生活の晩年になると、2005年のアイビスサマーダッシュの勝利は
「斤量や枠順に恵まれただけだった」
と揶揄する声も聞かれたけれど、でもそういう意見を言う競馬ファンには、こう言い返したい。

「恵まれた状況を活かせずに敗退する馬もたくさん居るなかで、あの日あのレースの人馬は力を出し切ったのだから、素直に褒め称えようよ」

と。

テイエムチュラサンという馬が与えた影響は有形無形問わず、大きなものだったと私個人は思っている。
まず、管理する小島貞博調教師と田嶋翔騎手の師弟コンビ、そして生産牧場の鹿児島県にあるテイエム牧場に「初重賞勝利」をもたらしたことは特筆すべき点ではないだろうか。
また、九州産馬による「JRA平地重賞制覇」は先述したとおりコウエイロマン以来だったが、限定重賞ではなく「古馬混合」のJRA重賞勝利を収めた九州産馬となると1981年の日経新春杯を勝ったケンセイグットまで遡ることになる。だからこそ、この偉業はもっと讃えられてしかるべきだと私は思うのだ。

いつの日かテイエムチュラサンの血を引く馬が、また一般馬を相手に重賞で勝ち負けするところはぜひとも見てみたいと私は願っている。

そういえば、テレビドラマの「ちゅらさん」の主題歌はKiroroが歌う『Best Friend』という曲だった。

♪あなたの笑顔に 何度助けられただろう ありがとう ありがとう Best Friend♪

騎手を引退し助手に転身した田嶋翔騎手とテイエムチュラサンは、お互いに今でも
『Best Friend』
だったと、私は思うのだ。

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