ライスシャワー~その魂は、今も心の中に~

2021年の年明け、フィエールマンの引退と種牡馬入りが発表された。

勝利したGⅠは、菊花賞と2度の天皇賞春。3レースとも3000m以上のレースだった。

3000m以上のレースは、年に数回しか施行されていない。
そのため“スペシャリスト”が出やすく、天皇賞春を二度勝った馬は、天皇賞秋に比べて多い。
──とはいえ、それらの馬達はすべて3000m未満のGⅠでも、しっかり連対を果たしている。フィエールマンもまた、天皇賞秋で、アーモンドアイを相手にあわやのところまで迫った。

一方、天皇賞春を"連覇"ではなく"隔年"で二度勝利した馬は、2021年現在で1頭しかいない。その馬も、3000m未満のGⅠで連対が1度あるものの、そのレースではほぼノーマークの存在。もちろん、その時々の調子の良し悪しや、展開の向き不向きはあっただろうが、本質的には、3000m以上のレースで強さを見せたステイヤーだった。

"競馬の神様"こと、評論家の大川慶次郎氏は、その馬を「ヘビーステイヤー」と呼んだ。

2000m前後のレースに重きが置かれ、スピードや瞬発力が重視される現代の競馬では、なかなか現れない存在かもしれない。そういった意味で、フィエールマンという「現代のヘビーステイヤー」が出現したことは、非常に大きな驚きでもあった。

小柄な馬体に秘めた闘志

1989年3月5日。
北海道登別市のユートピア牧場で、1頭の牡駒が産声を上げた。

父リアルシャダイは、この1ヶ月後に桜花賞を勝つシャダイカグラを送り出し、後に長距離を主戦場とする産駒を多数輩出した。

一方、母のライラックポイントは現役時39戦4勝。名牝オホヒカリ(代表産駒に牡馬二冠のクリノハナ。種牡馬としても3頭の天皇賞馬を輩出)から続く、ユートピア牧場が代々遺してきた名血の出身である。

そのライラックポイントの父は、“スーパーカー”と呼ばれた悲運の名馬マルゼンスキー。リアルシャダイ同様、父や母の父としても、数々のG1馬や長距離の名馬を世に送り出した大種牡馬である。

後に、ライスシャワーと名付けられたこの牡駒は、幼少期から小柄ではあったものの、非常に均整のとれた馬体の持ち主だったといわれている。

1歳の10月。ユートピア牧場の育成施設で、ライスシャワーは千葉県市原市にある大東牧場へと送られた。そこでは、先頭に立たないと気が済まないような、闘争本能の強さを見せる反面、人間の言うことを非常に素直に聞くという一面も見られ、調教は順調に進んでいったという。ただ、この期には、後に中山大障害を勝つローズムーンや、皐月賞を共に走るクリトライ、そしてダービーを共に走るブレイジングレッドなどがいた。だからこそ、特別、目立つ存在ではなかったという。

その後、母と同じ美浦の飯塚好次厩舎に入厩すると、早くも、8月新潟芝1000mの新馬戦でデビューを迎えることとなる。鞍上には、飯塚厩舎所属で、デビュー2年目の水野貴広騎手(現・調教師)が配された。

ゲートが開き、好スタートを切ったライスシャワーは、そのまま3番手につける積極的なレースを見せる。そして、直線の入口で早くも先頭に立つと、追うダイイチリユモンとマッチレースになったもののクビ差先着し、58秒6の好タイムで勝利。見事に、初陣を飾ったのである。

続く2戦目は、3週間後の新潟3歳ステークス。
水野騎手が騎乗停止のため、ベテランの菅原泰夫騎手に乗り替わりとなったが、前走の好内容からも3番人気に推された。しかしここでは、ライスシャワーの新馬戦を上回るタイムで勝ち上がってきたユートジェーンや、同窓のクリトライに及ばず、10着と大敗してしまう。

さらに、そこから中2週で出走したのは、中山芝1600mで行われるオープンの芙蓉ステークス。
鞍上に、再び水野騎手を配し、距離延長となった。

ライスシャワーは、デビュー戦と同じように4コーナーで先頭に立ち、そこから押し切りを図る。ゴール前でアララットサンが急襲してきたものの、それをアタマ差しのいで優勝。この時、オープン特別を勝利して賞金の上積みに成功したことは、後の活躍を考えれば、非常に大きな意味を持つことになる。

──というのも、レース後、右前脚に骨折が判明。およそ、半年の休養を余儀なくされてしまうからである。

怪物との出会い

迎えた復帰戦は、皐月賞トライアルのスプリングステークス。鞍上には、柴田政人騎手が配された。

このレースでは、ライスシャワーを語る上で外すことのできない、ある名馬との出会いがあった。

──ミホノブルボンである。

ミホノブルボンは、管理する戸山為夫調教師によって、入厩当初から栗東の坂路コースを中心にスパルタ調教を課された結果、とてつもない強さを身につけた馬だった。ここまで3戦3勝で、前走はGⅠの朝日杯3歳ステークス(現・朝日杯フューチュリティステークス)を勝利。ここは、それ以来およそ4ヶ月の休み明けだったが、距離適性が疑問視され、デビュー以来、初めて2番人気でレースを迎えていた。

結果は、重馬場を全く苦にせず、2着に7馬身差をつける圧勝で逃げ切り。
皮肉にも、これまでで最も強い勝ち方を見せたのである。
一方のライスシャワーは、その驚異のパフォーマンスに遠く及ばず、1秒6も離された4着に敗れてしまった。

すると、的場騎手と初めてコンビを組んだ皐月賞でも、再びミホノブルボンの驚異的なスピードの前に為す術なく敗れ8着。当時、ダービートライアルとして行なわれていたNHK杯も、8着に終わってしまった。

それでも、芙蓉ステークスの勝利によってダービーへの出走が叶ったものの、この成績で注目するファンは皆無に近く、人気は18頭中の16番目という低評価も仕方がなかった。

これがコンビ3戦目となった的場騎手は、その中では最も調子が良いと感じていたそうで、「うまくすれば掲示板には乗れるかな」程度に思っていたという。

しかし、この2400mという長丁場に、湿った馬場という3歳馬にとって過酷な条件が、ライスシャワーの中に眠っていた長距離志向の血を目覚めさせたのだろうか──ファンはもちろん、当事者達の予感すらも、はるかに超える結果をもたらすこととなった。

ゲートが開くと、同じ7枠の15番から飛び出したミホノブルボンが、この日も17頭を従えて先手を切った。相手の出方やペースがどうこう、府中の直線がどうこうという問題ではなく、スピードの違いでの逃げだった。

ライスシャワーは、ホクセツギンガ、マーメイドタバンと並び、先頭から3馬身離れた2番手を追走。その直後に、2番人気のナリタキングオーが続いていた。

迎えた4コーナー。的場騎手は、早くもライスシャワーの肩口に右鞭を3発入れ、ミホノブルボンに並びかけようとした。しかし、平均よりやや早めのペースで逃げていたミホノブルボンは、それをあっさりと突き放しにかかる。それは、同期とはとても思えないような、恐るべき怪物の真の実力だった。

そこから、あっという間に差が4馬身へと広がり、直線の半ばでは、既にセーフティリードとなっていた。問題は2着争いとなったが、強い逃げ馬が圧勝するレースでは、得てして、道中それを追いかけていた馬は苦しくなるもの。

ところが、4コーナーで一度ミホノブルボンに並びかけようとしたライスシャワーは必死に粘り、後方から追い込んできたマヤノペトリュースと競り合いを演じている。これもまた、信じられない光景だった。

結局、ミホノブルボンは4馬身のリードをキープし、圧倒的な強さを見せつけて二冠を達成。一方、200m以上続いた2着争いは大接戦となり、一度は交わされたライスシャワーが、ゴール前でマヤノペトリュースを差し返して2着を確保。馬連29,580円の波乱を演出したのである。

手の届かない存在から、確実に捉えた怪物の背中

ダービーの結果が良い意味で思いがけないものとなり、ライスシャワーの秋の目標は、菊花賞に定められた。

その秋初戦は、セントライト記念。この時は、田中勝春騎手に乗り替わりとなったが、小柄な馬体は12kg増え、肉体的にも精神的にも成長したライスシャワーは、3番人気に推されていた。

結果は、ミホノブルボンと同厩で、その主戦を務める小島貞博騎手が騎乗するレガシーワールドにアタマ差及ばず2着。ただ同馬は、3ヶ月後の有馬記念でハナ差2着し、翌年のジャパンカップを制する強豪。ダービー2着の激走が、決してフロックではないことを証明してみせた。

続く京都新聞杯は、ライスシャワーにとって休み明け2戦目、ミホノブルボンにとっては休み明け初戦で、通算4度目の対戦となった。鞍上は的場騎手に戻ったものの、それでもミホノブルボンの壁はやはり厚く、レコードでの逃げ切りを許し2着に惜敗。

……しかし、初対戦のスプリングステークスでつけられた1秒6の差は、皐月賞の1秒4、ダービーの0秒7を経て、この時ついに0秒2。着差にして、1馬身半まで縮まっていた。

本番の菊花賞は、ライスシャワーにとっては有利、ミホノブルボンにとっては不利と思われる3000mが舞台。ここまで、異次元のスピードを武器にはるか前を走っていた怪物の背中は、確実に捉えられるところまで迫っていたのだ。

最終追い切りを栗東で行い、飯塚調教師によれば「3歳で最も良い状態」で迎えた菊花賞。

ミホノブルボンが、単勝1.5倍の圧倒的な支持を集め、ライスシャワーは7.3倍の2番人気。わずか5ヶ月前には、295倍もついていた2頭の馬連は、この日はわずか4.9倍となるほど、両雄の人気は抜けていた。

ゲートが開くと、逃げて重賞2連勝中のキョウエイボーガンがハナを切り、ミホノブルボンは久々に2番手に控える、意外な展開となった。

大観衆が待つスタンド前を通過したところで、1000mの通過は、59秒7とやや早いペース。ミホノブルボンは、そこから2馬身半後方を追走していたため、およそ1分ちょうどで通過した計算となる。一方、5番手を進むライスシャワーは、そこから15馬身以上も差があった。

ところが、向正面に入ると13秒台のラップが連続し、さすがにペースは落ちた。続く坂の上りで、先頭から最後方までの差がおよそ15馬身となると、勝負どころの坂の下りで、ついにミホノブルボンがメイショウセントロとともに先頭へと躍り出る。それを見るようにして、ライスシャワーとマチカネタンホイザが2馬身後方に忍び寄り、4コーナーを回ると、再び湧き上がる大歓声の中、ついに真なる勝負の幕が切って落とされた。

直線に向き、ミホノブルボンまでの差は2馬身。ただ、この距離では怪物もさすがに苦しいのか、ダービーのように、一気に後続を振り切ることができない。そこへ、ライスシャワーとマチカネタンホイザが、ミホノブルボンを挟むようにして着実に差を詰め、残り200mで、ついに並びかけるところまでやってきた。

それでも、ミホノブルボンが坂路で鍛えた究極のスピードと底力は、ここに来てもなお衰えることがない。これこそが、デビュー前から当たり前のように1日3~4本、坂路を駆け上がってきた怪物の底力。まさにその底力と根性だけで、2頭が前に出ることを許さず、3頭の壮絶な競り合いとなった。

しかし、ゴールまで残り50m。ついに、ライスシャワーがミホノブルボンを振り切って生涯初めて前に出ると、差を1馬身半に広げ、歓喜のゴールイン。

果てしなく高い怪物の壁を、5度目にして打ち破ったライスシャワーは、ついに最後の一冠、菊の大輪を手にしたのである。それはまさに、死力を尽くした究極の名勝負。秋の陽差しに照らされたライスシャワーの黒光りする馬体、そして、ミホノブルボンとマチカネタンホイザの栗毛の馬体が、あまりにも美しく淀のターフに映えた瞬間だった。

勝ちタイムの3分5秒0は、従来のタイムを0秒4更新するレコードタイム。
10年前に、従来のレコードをマークしたのはホリスキーで、この前年の1991年に、ダービー2着から菊花賞を制したのはレオダーバン。この2頭の父とライスシャワーの母の父は、奇しくもすべてマルゼンスキーである。身体の中に眠っていたマルゼンスキーの血が、ライスシャワーの闘争本能とスタミナを爆発させ、怪物を凌駕する力へと変えたのだった。

自らが怪物となり、古馬の頂点へ

続いて、3歳最後の一戦として出走したのはグランプリ有馬記念。ミホノブルボンは、既に故障で戦線を離脱しており、ライスシャワーは、3歳馬を代表して出走することとなった。

前走、ジャパンカップを制したトウカイテイオーに次ぐ2番人気に推されたものの、その存在を意識しすぎたせいか、後に的場騎手が「僕の騎乗ミスで、悔やんでも悔やみきれないレース」と振り返る内容で、後方のまま伸びきれず8着に敗戦。古馬との初対決は、ほろ苦い結果となってしまった。

年が明け4歳となったライスシャワーは、菊花賞馬としては当然のように、目標を春の天皇賞に定めた。

始動戦となったのは、当時2月に行なわれていた目黒記念。ここは、菊花賞で負かしたマチカネタンホイザの2着と敗れたものの、続く日経賞を完勝し重賞2勝目をあげる。本番へ向け、順調にローテーションを歩んでいた。

その本番でライスシャワーを迎え撃つのは、春の天皇賞を2連覇中の芦毛メジロマックイーンと、4連覇中の武豊騎手である。

日経賞の勝利からおよそ1ヶ月。
白き巨人と若き天才を倒すため、陣営はライスシャワーを徹底的に追い込んだ。

特に、直前追い切りは過酷を極め、周りからも「すごい調教をしたな」と、言われるほど。それでも、肉体的にも精神的にも耐えられる状態になっていたライスシャワーは、その過酷な調教をクリアしたのであった。

もともと小柄な馬体は、過去最低タイの430kgにまで減っていたが、見た目に細いということはなく、極限まで研ぎ澄まされた状態となっていた。的場騎手が「見ていて恐ろしい」と思ったほどの鬼気迫る目つきやシルエットは、ミホノブルボンに変わり、ライスシャワー自身が怪物に変身した姿でもあった。

単勝オッズは、産経大阪杯を5馬身差で圧勝してきたメジロマックイーンの1.6倍に対し、ライスシャワーは5.2倍。前年の菊花賞を思い起こすようなオッズとなり、いよいよ古馬最強馬決定戦の火蓋が切られたのである。

ゲートが開くと、一目散に飛び出したのは、前年に春秋グランプリホース制覇を達成したメジロパーマー。メジロマックイーンは4番手につけ、ライスシャワーはその直後5番手を追走した。

1周目のスタンド前で、メジロパーマーのリードはおよそ8馬身となり大逃げに近い形となったが、それでもペースは平均より少し遅め。そして、レースが動き出したのは、例によって2周目の坂の頂上からだった。

まず、メジロマックイーンが、ムッシュシェクルとともに馬なりで先頭との差を詰めると、ライスシャワーもそれに反応。勝負どころの坂の下り、残り600mの標識でムッシュシェクルが脱落すると、ここからはGⅠ馬3頭によるマッチレースとなった。

横並びとなって迎えた直線。その中で、最も外に進路を取ったライスシャワーが、残り300mで早くも先頭に立つ。それは、関西圏の長距離レースで、メジロマックイーンが後ろから来た馬に差されるという、かつて見たことのないような光景。怪物となったライスシャワーが、とてつもなく恐ろしい強さを見せた瞬間だった。

驚異的な粘りを見せたメジロパーマーもさすがについて行けず、同じ勝負服の2頭との差は徐々に、しかし確実に広がっていく。そして、残り50mからは流すような格好となり、最終的には、メジロマックイーンに2馬身半差をつける完勝。

勝ちタイムの3分17秒1は、従来の記録を1秒7も更新する驚異的なレコードだった。3頭共が互いに完璧なレースをし、力を出し切った文句なしのマッチレース。そこでライスシャワーは、生涯で最も強い勝ち方を収めたのだ。

ちなみにメジロマックイーンは、この6歳シーズンこそが最も強かったのではないかと言われている。というのも、11ヶ月ぶりの復帰戦となった大阪杯を5馬身差で圧勝し、天皇賞2着を挟んだ後の宝塚記念も完勝。秋の京都大賞典では、次走でジャパンカップを制すレガシーワールドに3馬身半差をつけ、芝の2400mでは、当時の中央競馬史上2例目となる、2分22秒台で勝利するのである。

既に、3000mを超える長丁場はベストな条件ではなかったかもしれないが、全盛期のメジロマックイーンを2馬身半も突き放したライスシャワーのパフォーマンスは、驚異的というほかなかった。

──しかし。

究極の仕上げの反動からか、この後5ヶ月の休養を挟んで秋に復帰したライスシャワーは、覇気に欠け、気力もなく、まるで牙を抜かれてしまった怪物のように凡走を繰り返した。秋初戦のオールカマーで、ツインターボの完璧な大逃げの前に3着に完敗すると、天皇賞秋6着、ジャパンカップ14着、有馬記念8着と、3戦連続で掲示板すらも確保できない。

5歳初戦の、阪神競馬場で行なわれた京都記念も、後輩の菊花賞馬ビワハヤヒデの前に5着。続く日経賞では、ゴール前でステージチャンプに差されたものの、ようやくハナ差の2着に好走し、復調の気配を覗かせたかに思われたが、連覇を目指した天皇賞春の1週間前に、2歳時と同じ箇所を再び骨折し、休養を余儀なくされてしまうのだった。

疾走の馬 青嶺の魂となり

ただ、久々に故郷のユートピア牧場に戻って休養に専念した結果、当初の診断より早く復帰が叶ったライスシャワーは、その年の有馬記念に出走。ナリタブライアンとヒシアマゾンという、3歳牡・牝馬のチャンピオンには及ばなかったものの3着に好走し、上々といえる内容を見せたのだった。

ところが、6歳となって迎えた京都記念と日経賞は、小柄な馬体に60kg、59kgという酷量を背負い、ともに6着。2年ぶりに春の天皇賞へ出走は叶ったものの、期待よりも不安が上回る臨戦過程となってしまう。

この年の春の天皇賞は、前年の三冠馬で、前哨戦の阪神大賞典を圧勝したナリタブライアンが、故障して戦線を離脱したことにより大混戦となっていた。

前年のダービーで2着、菊花賞でも3着したエアダブリンが1番人気に推されたものの、単勝10倍を切ったのは4頭。メンバー中、唯一のGⅠ馬でもあるライスシャワーは、その4番目となった。
期待と不安。復活を願う気持ちと、その復活を本当に信じ切れるかという信念。
ファン、そして関係者の様々な思いが交錯する中、111回目となる天皇賞のスタートが切られた。

ゲートが開き外からハナを奪ったのは、8枠のクリスタルケイ。5馬身離れた2番手にキソジゴールド、メイショウレグナムが並び、ライスシャワーはその後ろの集団の中、6番手で1周目のスタンド前を通過した。

重い馬場が遅い流れに拍車をかけ、最初の1000m通過が1分3秒7、1600m通過は1分42秒0というペース。それを見て、向正面でエアダブリンが3番手に上がり、ライスシャワーも4番手まで進出した。

そして、坂の上りに差し掛かるところで、早くもライスシャワーが馬なりのまま先頭へと躍り出た。思えば、古馬の頂点に立ったあの歓喜の勝利以来、京都で走るのは、まだこれが二度目である。2走前の京都記念で一度走ってはいるものの、それは60kgという過酷な斤量を条件下でのもの。

そのまま、大好きな坂を軽やかに駆け下り、直線の入口で、前走敗れた2番手のインターライナーを一気に突き放す。さながらそれは、久々にホームグラウンドの土を踏みしめたことに喜びを感じて生き生きと躍動し、熟練の技術で若手を翻弄するベテラン選手のようだった。

直線に入り、さらにそのリードが4馬身に広がると、俄然、ライスシャワー復活のシナリオが完成しそうな雰囲気が場内を包み込み、ヴォルテージも最高潮に達した。そうはさせじと、エアダブリンが追うも差は縮まらず、逆に大外から猛追してきたのは、同じリアルシャダイを父に持つ、ステージチャンプとハギノリアルキングの2頭。

とりわけ、ステージチャンプの勢いが目立ち、一旦は安全圏と思われたライスシャワーのリードはみるみる縮まる。そして、歓声と悲鳴が混じる中、内と外で2頭の馬体が合わさったところにゴール板があった。

1~3着をリアルシャダイ産駒が独占したことに間違いはなかったが、勢いで勝っていたのはステージチャンプで、騎乗した蛯名騎手もゴール後ガッツポーズを見せたほど。

肉眼では判別できないほどの際どい差となったが、写真判定の結果、ハナ差先着していたのはライスシャワーだった。2年ぶりの復活勝利が、2度目の天皇賞制覇という快挙。実に、11戦もの長きトンネルから脱出したライスシャワーは6歳春、ついに最強ステイヤーの座を確固たるものとしたのである。

──それから1ヶ月半。

春のグランプリ宝塚記念は、この年の1月に発生した阪神・淡路大震災の震災復興支援競走として、甚大な被害を受けた阪神競馬場から京都競馬場に開催地を変えて行なわれた。

天皇賞の激闘の疲れがなかなか抜けなかったことで、当初陣営は、ライスシャワーの出走に難色を示していたが、ファン投票で1位に選出されたことや、偶然にも得意の京都競馬場で行なわれることもあり、最終的には出走に踏み切った。

しかしこの時、レースが始まって1コーナーに入るまでに、的場騎手はライスシャワーに違和感を覚え、無事にレースを終えることだけを考えて騎乗したと言われている。

このすぐ後に起きた悲劇に関しては周知のとおりで、詳細についてはここに記さない。ひとつ言えることは、この先、ライスシャワーがゴールテープを切ることは二度となかった。

歓喜の復活劇から一転、あまりにも大きく、深い悲しみが競馬界全体を包み込んだのである。ただ、その悲劇を忘れてならないのは当然だが、勝利したダンツシアトルもまた、度重なる故障から何度も立ち上がり、この日、ついに歓喜の瞬間を迎えたことも忘れてはならない。


その後、生まれ故郷のユートピア牧場に墓が建立され、京都競馬場や大東牧場、栃木県の大田原市にあったくろばねスプリングスの跡地に、記念碑や供養塔が建立された。

その碑に刻まれたのは『疾走の馬 青嶺の魂となり』という言葉。

菊花賞で5度目の対決にして怪物を超えた勇姿、一度目の天皇賞でメジロマックイーンを圧倒した闘志と鬼気迫る姿、二度目の天皇賞でステージチャンプの猛追を懸命に凌いだ意地とプライド──。

ライスシャワーの御魂は、彼を愛したすべてのファンや関係者の心の中に、今なお生き続けているのである。

写真:かず

あなたにおすすめの記事