今も昔も、桜花賞馬はどうにも儚いというか、散り急ぐというか……要は活躍期間が短めの馬が多いというイメージがある。こう思っているのは私だけでは無いのではないだろうか。
その点、2015年の桜花賞馬レッツゴードンキはそうしたイメージとかけ離れた活躍を見せた。逃げから差し&追い込みにモデルチェンジしたとは言え、堅実さはそのままに、馬体はさらにバルクアップさせて、短距離の一線級で走り続けるのは、立派の一語に尽きよう。
そんなレッツゴードンキが走る様を眺めていると、何となくデジャヴが……そう、あの馬を思い起こさせるのだ。
1997年の桜花賞馬、キョウエイマーチを。
超の付くスローペースを利した逃げでライバルを完封したレッツゴードンキの桜花賞と、雨中のハイペースを2番手先行からぶっちぎったキョウエイマーチの桜花賞。
同じ逃げ先行馬による『4馬身差圧勝』でも、まるでカラーの異なる勝利だった。
それでも、芝だけでなくダートにも挑戦して、常に争覇圏内に在り続ける姿は相似形に近い。この二輪の桜の花は、とてもよく似ている。
1994年生まれのキョウエイマーチの父は、80年代における欧州最強馬の1頭・ダンシングブレーヴ。そして母はインターシャルマンという名の馬であった。母はキョウエイマーチが活躍する頃には病気で仔を産めない身体となってしまい、彼女がほぼ一粒種にして唯一の後継牝馬である。
小さな頃から大柄で、下半身の筋肉が際立っていたというキョウエイマーチ。現役時の母と同じく栗東・野村彰彦厩舎に所属すると、1996年11月の3歳新馬戦で逃げて大差勝ちを収め初陣を飾った。続く千両賞では不覚を取り3着に終わったが、年明けの寒梅賞を10馬身差で圧勝。ここまでの2勝はどちらもダート短距離戦で挙げたものであり、共に松永幹夫騎手が手綱を取った。
ダート戦にて完璧な強さを披露したキョウエイマーチは、1997年2月のエルフィンSから芝戦線へと身を投じる。このレースにおいて、重賞級の呼び声高かった外国産馬ホッコービューティを完封すると、3月のG2・4歳牝馬特別(現在のフィリーズレビュー)を7馬身差でぶっこ抜いた。
これで通算5戦4勝。クラシック候補として堂々、名乗りを上げたわけである。1997年の4歳牝馬戦線には3歳女王のメジロドーベルという確固たる中心馬がいたが、4歳初戦のチューリップ賞にて気の悪さを見せ3着に敗退。こうして桜ロードは混沌とし始めた。そこに圧勝劇を繰り返すキョウエイマーチが登場したというわけで、桜花賞1番人気の座を旧女王からマーチが楽々奪い取る形に。
逃げ先行馬には不利な大外18番枠も不良馬場も何のその。必死の形相で追い込む吉田豊騎手鞍上のメジロドーベルを尻目に、松永幹夫騎手のキョウエイマーチがスイスイ走って戴冠した。
浪花節を好む競馬ファンは「6年前のイソノルーブル(落鉄事故もあって5着)の雪辱を鞍上が果たした!」と色めき立った。そういった事情はさておき、ピンクを基調とした勝負服と桜色のメンコを携えた、桜花賞馬らしいカラーの桜花賞馬が誕生したように、その時思えたのだ。
オークスの11着大敗は、マイラーの彼女には距離が厳しかったということなのだろう。秋初戦のローズSは同期のマル外No.1牝馬シーキングザパールと初顔合わせとなったが、余裕の逃げから二の脚を繰り出して完封勝利。本番の秋華賞ではオークス馬メジロドーベルに再び屈したものの、3着エイシンカチータの強襲をクビ差しのぎ貫禄の銀メダル。続くマイルチャンピオンシップは圧巻だった。
まだ未完成なサイレンススズカを相手にハナを奪い、前半5ハロン56秒5という猛ラップを刻んで逃げる展開に。最後は同い年の新鋭タイキシャトルに交わされたものの、2着はキッチリ確保した。当時のキョウエイマーチは可憐さを幾分残しながらも、芯の強さを垣間見せる強い女性であった。
──ところが、5歳時は5戦して勝ち星ゼロ。
ひたすら逃げ戦法にこだわったが結果は出ず、いつの間にやら鞍上はハンサムな松永幹夫騎手から目元涼やかな秋山真一郎騎手へとスイッチしていた。6歳初戦に選ばれたのはダートのG1・フェブラリーS(5着)。この選択がカンフル剤となったのか、1999年4月の阪急杯にて彼女は蘇り、復活勝利を飾る。あの桜の舞台から2年経て、社会に揉まれた(?)キョウエイマーチはすっかり“大人のオンナ”に変貌していたのだった。阪急杯後も短距離路線を駆けたが春は勝てずに終わり、同年秋には盛岡・南部杯に遠征し2着に頑張った。
同期のメジロドーベルは11月のエリザベス女王杯で引退の花道を飾り、シーキングザパールは仏G1タイトルを嫁入り道具に渡米していた。
キョウエイマーチも引退が近いのか……そんな風評を吹き飛ばしたのが、翌2000年正月のG3・京都金杯(この年より芝2000mから芝1600mに距離短縮)での快走であった。
ハンデ57kgは実質最重量。
快速自慢のロードアヘッドが淡々と飛ばす展開を、7歳牝馬キョウエイマーチは2番手で折り合い追走した。やがて直線入口で逃げ馬を捕まえると、後は彼女のワンマンショー。
結局2着のアドマイヤカイザーに5馬身差をつけて、3年前の桜の女王は再びウィナーズサークルへと舞い戻った。
考えてみれば、メンバー中唯一のG1馬。格の違いを見せつけるような走りだった。
7歳での重賞勝ちは、歴代桜花賞馬では初めてのケース。
デビュー当時478kgだった馬体重は502kgに成長しており、彼女は“大人のオンナ”を通り越してまるで歴戦の女子プロレスラーと化していた。
末は北斗晶かジャガー横田か、それならパートナーの秋山騎手は……という小ネタはさておき、7歳にして健在を示したキョウエイマーチだったが、結果的には京都金杯が最後の輝きとなった。4月のマイラーズCで6着に敗れた後、生まれ故郷のインターナショナル牧場で休養に入った彼女は、同年10月にそのまま繁殖入りした(まもなくノーザンファーム遠浅に移動)。
通算28戦8勝。以降、2007年に死亡するまで4頭の産駒を遺し、皐月賞2着馬のトライアンフマーチなど良駒は出せども、中央重賞は勝てずに終わった。
後継牝馬は初仔のヴィートマルシェのみだ。
私は今も、脳裏に浮かぶ彼女が駆ける姿を、レッツゴードンキに重ねているふしがある。競馬は同じことを緩やかに繰り返しがちなスポーツ。レッツゴードンキもキョウエイマーチも、子孫ともども、競馬場で走る限り応援していきたいと思っている。
穴党としては、彼女たちの“思わぬ好走”を時折見届けられれば、言うことは無いのだが。
──京都金杯を目にする度に、私はあのたくましい桜花賞馬を思い出す。
(馬齢表記は旧表記で統一)
写真:Horse Memorys、かぼす