聞いてくれないか、ふたりのその後の話を。 − アルアイン

「あれ、北村? 初GⅠ?」

私の心の声をなぞるように、隣にいたオッチャンが中山の大画面を茫然と見つめながらぼやくので、相槌を打ちたくなった。2019年の大阪杯のことだ。

「ですって、意外ですねえ」
「そうかあ、北村、ついにやったかあ。よかったなあ。あれ、でもアルアインて、前は松山を勝たせたよなあ。おれもアルアインに乗せてもらいたいもんだなあ」

北村友一騎手の初GⅠを前に、アルアインの2年ぶりの勝利はそっちのけ、「アルアインに乗れば初のGⅠを勝たせてもらえるらしい」と、見知らぬオッチャンと二人、空想にふけった。

決して派手ではなくとも

つくづく我々は質実剛健とか、堅実とか、そういう言葉で評されるようなコトよりも、つい派手な方に目がいってしまう。この2年前、2017年の牡馬クラシック一冠目・皐月賞。この年は異例の主役の登場に競馬ファンは沸き立っていた。

3戦3勝、重賞を0.8秒差で圧勝した牝馬・ファンディーナが出走を表明。皐月賞での牝馬の1番人気はグレード制導入後初で、歴史上最後の牝馬の勝利は69年前まで遡る。今や白毛馬初のGⅠや芝GⅠ9勝など、記録ものにはすっかり慣れっこになってしまったが、近代競馬において類まれな瞬間の到来を前に、当時王道のトライアルを勝ち進んできた牡馬たちはみな脇役におしのけられた。これまで重賞・毎日杯含む4戦3勝で挑むアルアインもまた、伏兵評価に甘んじた。

53,000の熱い視線が送られる中、皐月賞のゲートが切られる。好スタートのファンディーナ、食らいつくアルアイン。逃げ馬たちを前に、両者は二頭並ぶような形で先行する。機を狙い固まる馬込みの中、内目をついてじわりじわりと位置を上げていったのはペルシアンナイト。最終コーナーを前に鞍上が激しく手綱を動かすと、ファンディーナは騎手の意思を瞬時に察したかのように加速、横一線の勝負に並びかける。しかし牡馬勢も黙っていない。怪物牝馬の脚が鈍ったその一瞬、我々にため息をつく隙も与えることなくすかさず内からペルシアンナイトが伸び、勢いそのままに怪物牝馬も後続も抑えて先頭に立つ。鞍上の鞭がしなる。

──いかせてなるか。

馬場の真ん中から赤の十字の勝負服が猛追してくる。アルアインだ。ペルシアンナイトに急追するその脚は明らかに他馬と異なり、並ぶ間もなく先頭へ立ちゴールを突き抜けた。
過去77回を数える皐月賞で、最も速いタイムでの勝利だった。

何度も何度も、鞍上の松山弘平騎手は拳を突き上げた。先程の猛追とはうってかわって、27歳の無邪気な笑顔をこぼした。初のGⅠタイトルだった。人気の馬を確実に勝たせ、人気薄でも馬の力を引き出す──そんな鞍上のこれまでの成果を踏まえれば、誰もが肯く勝利だっただろう。アルアイン自身も、大外一気とか大逃げとか、あっと言わせるような勝ち方をしてきたわけではなかったが、それでも確実に力をつけ、こうして結実した。

7,015頭の同期の中でたった一頭、アルアインは牡馬クラシック二冠への挑戦を許された。この勝利の10日後、次走は日本ダービーと発表された。鞍上は続投、松山騎手だった。

遠ざかる背

ダービーでこそ主役かと思いきや、そうもいかなかった。過去のダービーの勝ちタイムと比べて3番目にあたる2:23.6で青葉賞を圧勝したアドミラブルが1番人気、”青葉賞勝ちはダービーをまだ制したことがない”ジンクスを覆すかと期待が寄せられた(つくづく我々はこの手の記録モノが大好きだ)。続いて名門・藤沢厩舎悲願のダービーをかけたルメール騎手騎乗のレイデオロ、共同通信杯覇者スワーヴリチャード。アルアインは皐月賞馬ながら、彼らに続く4番人気に支持された。

蓋を開けてみれば、ルメール騎手は別格だと思い知らされるとんでもないレースだった。ペースが遅いとわかるや否や、向正面でレイデオロは後方から先頭2番手へと並びかけていく。ルメール騎手の体内時計。勝負勘。レイデオロの強さを信じたからこその決断。すべてに打ちのめされた。アルアインは懸命に走るも、レイデオロはどんどん遠くなっていった。

それにしてもこんな展開、誰が予想できたか。ダービーの大舞台であんな決断ができるなんて、ファンの立場でもその力量に圧倒されたのだ。松山騎手とアルアインは、どんな思いで遠ざかる背中を見ていただろうか。

そんなアルアインがようやく主役として期待されたのはセントライト記念。単勝1.7倍の1番人気に支持された。このレースに、かつて二冠を目指す道のりを共にした松山騎手の姿はなかった。代わりに、アルアインの背にはダービーで他を圧倒したルメール騎手がいた。

休み明けが影響してか、一度は先頭に立つも坂を駆け上がったところで差されアルアインは2着に敗れる。菊花賞では引き続きルメール騎手が鞍上。最後の上位争いに加わることはできずとも、雨の中でも大崩れなく走り抜いた。

アルアインの背に松山騎手が戻るまでここから2年余り、アルアイン現役最後のレースの日まで待つことになる。

松山弘平騎手

どうしても届かぬ主役の座

クラシック戦線を終え、アルアインの同期である2014年生まれ世代は充実の一途を辿った。かつて皐月賞で打ち負かしたペルシアンナイトは3歳ながらマイルチャンピオンシップを制した。当時3歳での勝利は17年ぶりの快挙だった。レイデオロはジャパンカップで逃げ粘る古馬筆頭・キタサンブラックをクビ差封じた。勝者シュヴァルグランには届かずも、堂々たる2着だった。

一方のアルアインも貫禄を見せつけた。翌18年、川田将雅騎手を背に京都記念で戦線復帰、因縁のライバル・レイデオロに先着。次走となる大阪杯ではアルアイン、ペルシアンナイトら4歳世代が激突、同期・スワーヴリチャードに及ばずも意地の3着を確保した。

ダービー馬レイデオロとも互角に、時にそれ以上に力を発揮する。アルアインは確実に世代代表の一角としてレースに挑み続けた。挑戦の幅を広げ、大阪杯の後には日の丸を背負い香港に遠征。帰国後は休養を経てオールカマーへ。その背には9月の時点ですでに前年勝利数を上回る70勝近くをマークし勢いに乗る北村友一騎手を迎えた。直線では早くも先頭に立つも内から迫るレイデオロにかわされ2着だった。その後の天皇賞・秋も道中二番手で絶好の手応えのまま直線へ、このまま突き抜けるかと思いきや伸びあぐねて4着、ここでもレイデオロに敵わなかった。

王道を先頭で歩むダービー馬を筆頭に、同期たちが実りある季節を迎える中、アルアインだけはどうしても主役の座には届かなかった。ひたむきに雌伏の時を重ねた。

どうすれば勝てるのか。翌年の大阪杯のレース後、ファンを前にしたインタビューで北村騎手はアルアインについて次のように話している。
「いつも善戦してがんばってくれている。でも、気持ちが最後まで続かない感じがある」
堅実なように見えて、アルアインには最後に気を抜くずるさがあったという。そう言われてみれば、先の天皇賞・秋も、最後の最後まで気持ちがもたなかったのかも、と思う。

その頃、次の世代が早くも充実期を迎え始めていた。マイルチャンピオンシップ、前年に異例の3歳で制したペルシアンナイトの連覇は、3歳馬のステルヴィオに阻まれた。王者レイデオロは天皇賞・秋ののち1番人気で有馬記念へと駒を進めるも、3歳馬・ブラストワンピースにクビ差敗れた。ファンの熱い視線は瞬く間に次世代へと注がれていった。アルアインにとって年明け初戦となる金鯱賞にも、ダービー以来の実戦となる年下ダノンプレミアムが出走を表明。真価が問われる一戦として注目を集めた。
黙って見ているわけにはいかない。競馬新聞のアルアインの欄に、はじめて「B(ブリンカー)」の1文字がついた。この一文字の向こうには「気持ちが最後まで続かない」そんな葛藤に対する陣営の試行錯誤が見える。

しかし金鯱賞前日、アクシデントが発生する。予定していた北村騎手が落馬負傷、乗り替わりとなった。レース本番、アルアインはダノンプレミアムから0.9秒遅れること5着。不利を受けたシンザン記念、距離と道悪が響いた菊花賞を除き、これほどの着差を許したことはなかったはずなのに。
このままアルアインは主役になることなく、世代交代を許してしまうのか。

勝利は勇気ある決断とともに

次走となる大阪杯には有馬記念から直行するブラストワンピースを筆頭に4歳世代のGⅠ馬4頭が集った。アルアインは14頭中の9番人気だった。

2019年3月30日。アルアインの最後の勝利から、まもなく2年が経とうとしていた。この日の阪神競馬場は一日中曇り空。次の季節に抗うかのような寒さだったが、桜の蕾はところどころ膨らみ始めていた。

大阪杯のゲートが切られた。アルアインはいつも通り好スタートから逃げ馬を前にラチ沿い先団で機を狙う。それほど速いペースではない。第3コーナーをまわり次第にアルアインの外にスパートをかける馬たちが並びかける。アルアインは内をつく。これまで何度も見た光景だ。
でもこの日は違った。いかせてなるかと飛び出したのは5歳馬たち。その先頭にいたのは、アルアインだった。同じ5歳馬キセキが食い下がる。4歳馬が並びかけようとするも届かない。後続の馬に何度も鞭が飛ぶ。しかし北村騎手の両手は一心に手綱を握ったまま。
鞭を入れることなく、どこまでもどこまでも軽快にアルアインは伸びていった。最後まで誰一人、アルアインには届かなかった。

長く続いた雨のあとの、どこまでも突き抜ける青空のような2年ぶりの勝利だった。この勝利を復活と言った人もいた。でも本当にアルアインは低迷などしていただろうか。大崩れなどなかった。この馬はいつだって強かったじゃないか。
鞍上の北村騎手は、大きなガッツポーズを見せるでもなく、喜びを爆発させるでもなく、静かに人差し指を天へと突き上げた。まるではじめてとは思えないようなGⅠ勝利だった。ステッキなどいらない。気持ちを維持したまま、伸び伸びと走らせる。GⅠの大舞台で冷静にこの判断を導き出したとすれば──北村騎手の判断に息を呑んだ。

北村友一騎手

競走生活最後の日

ファン投票4位を携え堂々挑んだ宝塚記念の4着が、アルアインにとって現役生活最後の掲示板入りとなった。外枠の影響もあるかもしれないが、天皇賞・秋、マイルCSと、かつてのように先団好位に取り付くことも、直線の先頭争いに加わることもなく後方のままレースを終えた。着差も勝ち馬から2秒近くもつけられていた。同年12月4日。アルアインは暮れの有馬記念を最後に引退すると発表された。

同レースではアルアインの同期で活躍した馬の引退も多く、春秋グランプリ連覇がかかるリスグラシュー、牡馬相手でもひるまずNHKマイルを制したアエロリットらが有馬記念を最後の舞台に選んだ。そして何度もしのぎを削ってきたライバル・レイデオロも、その中の一頭だった。

それでも多くの人にとってこの年の有馬記念は、アーモンドアイに熱い視線を注いだレースだったかもしれない。同期も5歳馬も子供扱いした天皇賞・秋を経ての参戦。彼女が先頭でゴールすることを願う人々の思いが、単勝1.5倍の数字に現れていた。

最後の舞台、アエロリットは一か八かの大逃げを打つ。レイデオロは遅れるもかつての切れ味にかけ後方で機をうかがう。この時アルアインは、どんな走りをしていただろうか。改めてアルアインだけを見つめてみると、胸のあたりがぎゅっと苦しくなって、帯びた熱は次第にまぶたの奥へと上昇してくる。

アエロリットから大きく離れること四番手の外目に、アルアインはいた。何度も期待を抱いて見届けてきた積極策だ。最後の直線、いかにして先頭争いへと勇んでいくか。それとももう、難しいのだろうか。
この日の鞍上は松山騎手。あの皐月賞と同じ舞台での、最後の答え合わせ。残り600メートル、アルアインと松山騎手は決断した。深く息を吸うように、余力たっぷりに、疲弊する先行馬たち目がけてスピードを上げていく。アルアインの競走生活最後の、長い長いラストスパートがはじまった。

決して派手ではなかったかもしれない。主役を期待されることも少なかったかもしれない。けれどいつだって、自分の走りを貫いた。たとえ最後に差されたとしても、長く畳み掛ける勝負根性で先頭を自分のものにし続けた。私たちは幾度となく期待と夢を乗せ口走ったものだ。ああ、ここでくるか! と。
最終コーナーが近付く。アルアインと先頭までの差が縮まっていく。ダービーの日を最後にアルアインの背から離れて2年余り。きっと松山騎手も、ずっとアルアインの強さを見届けてきたのだろう。その上で、アルアインが最も輝ける形を選んだとしたら。

束の間、無情にも後続が進出を開始、次々放つように年下の馬が先頭争いへと躍り出る。そんな争いも脇目に大外からリスグラシューが飛んでくるや否や、明らかに違う脚色でみるみるうちに後続と差を広げていった。歓喜と悲鳴がごちゃ混ぜになってこだまする。リスグラシューはどんどん突き抜けていく。皆置き去りにされていく。アルアインは遠く後続馬群へと沈んでいった。

それでも確かに、きらめくラストスパートを見せた。アルアインは静かにターフを去った。

君に話したいことがある

引退した馬の思い出を、静かに宝箱の中にしまう。年月を重ねるごとに宝箱の引き出しの数は増えていき、ひとつひとつを引き出す時間は少なくなっていく。それでもアルアインはしょっちゅう、思い出の中からひょっこりと顔を出す。

ペルシアンナイトが出てくれば、アルアインは元気だろうかと思い出す。アルアインの20戦の中で、7度も共に戦ってきた僚馬ペルシアンナイト。またあのコンビが揃ってやってきては、復権への期待、時に買いはぐったことへのほろ苦い後悔を抱かせてくれることはないと思うと、少しさみしい。

でもさみしいばかりではない。アルアインのことを思い出して、嬉々として声をかけたくなる日もある。たとえばこんなふうに。

「やってくれたぞ! あのダービーを乗り越えた松山騎手が無敗の牝馬三冠を勝ち取ったんだ。あのダービーの悔しさがなかったら、三冠牝馬は生まれてなかったかもしれないね。それだけじゃない。あの北村騎手がグランプリジョッキーになったのさ。ノーステッキで制した大阪杯の日から、どれだけのGⅠを勝ってきたんだろう。二人とも今やすっかりトップジョッキーだよ。きっと彼らがこれからの日本競馬を引っ張っていくんだろうね。

だけど最初の頂の景色は、君が教えてくれたんだよね。すごいなあ、アルアイン」

いつか牧場で会えたら、そんな話をアルアインに語りかけてみよう。でもアルアインにはどうか、そんないち競馬ファンの思いなど知らんぷり、淡々とおだやかに、牧草を食んでいてほしい。そう願ってやまない。

写真:手塚 瞳

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