非サンデーの雄・ビッグバイアモンと、蛯名騎手

1996年、競馬界には「サンデーサイレンス旋風」が吹き荒れていた。
クラシック前哨戦はことごとくサンデーサイレンス産駒が上位を占め、クラシック第一弾皐月賞もサンデーサイレンス産駒・イシノサンデーが制した。
私はこの時「競馬界に凄いことが起き始めている」と痛感した。そんな皐月賞が終わった翌週、新潟競馬場でひっそりと「4歳未出走戦(現3歳)」でデビューを迎えた、1頭の馬がいた。
彼の名は「ビッグバイアモン」。
父はバイアモン、母の父はロベルトという血統で、サンデーサイレンスの血は入っていなかった。

そのレース条件は、ダートの1000m。
キャリアを積んだメンバーを相手に、これがデビュー戦となるビッグバイアモンは単勝1.9倍と、断然の1番人気に推された。
この時私はまだ、彼のことを知らなかった。

そしてビッグバイアモンは宝来騎手を背に、2番手追走から0.6秒突き放して勝利してみせた。
しかしダート1000m戦を制したところで、この時は、誰もがクラシック戦線とは無縁の馬だと思っていたに違いない。

私は父の影響で競馬は小学生の頃から見ている。馬はもちろん大好きだが、途中からは蛯名正義騎手のファンになり、競馬はどちらかと言うと「蛯名騎手の応援」が中心に変わっていた。この時蛯名騎手はデビュー10年目。成績は上々だが、まだGⅠは勝てずにいた。

皐月賞では騎乗馬がいなかった蛯名騎手。「ダービーでも騎乗できる馬はいないのか?」と心配していると、ダービートライアルのプリンシパルSで騎乗依頼があるのを知った。その馬こそが、ビッグバイアモンだった。

「ん!?ダービートライアルに、ダート1000mを勝ったばかりの馬とコンビ!?」

正直、驚いた。
それまでの競馬歴において、こんなローテーションでダービートライアルにぶつけてきた馬は見たことがなかったからだ。プリンシパルSは芝2200m。一気の距離延長に加え、ここはダービートライアル。さらには、サンデーサイレンス産駒で、前年のオークス馬の弟という超良血・ダンスインザダークも出走馬に名を連ねていた。
正直厳しいだろうと思っていたが、どんなレースをするか楽しみではあった。

ゲートが開いた。
先手争いで他馬が手綱をしごく中、ビッグバイアモンは押っ付けることなく大外から楽々と先頭に立った。しかし、ダート1000mを走っていた馬が、このペースで逃げて果たして最後までもつのか?と心配でもあった。

後続を引き連れて向かえた、府中の長い最終直線。ビッグダイアモンは、二の脚を使ってもうひと伸びして見せる。
「これはもしかしてダービーの切符を掴めるかも!?」と、興奮した。
そんな中、残り200mのところで単勝1.1倍のダンスインザダークが持ったまま猛然と襲い掛かってきた。
──これは仕方ない、さすがの脚だ。でも2着までに入れば優先出走権が与えられる!
ダンスインザダークに交わされても2番手に粘っていたビッグバイアモンだが……ゴールの直前、トピカルコレクターにクビ差だけ交わされて3着となってしまった。
レース前はさほど期待はしていなかったのに、3着となると「惜しい!悔しい!」という気持ちがわき上がる。
でもこれがデビュー2戦目であったことを考えれば、負けて強しといった印象で、次走が楽しみになった。

引き続き蛯名騎手とのコンビで迎えた3戦目。プリンシパルSより距離が短縮される、東京競馬場・芝2000mのほうせんか賞。ビッグバイアモンは単勝1.8倍の圧倒的1番人気に支持された。
ここでもスピードの違いで先頭に立ち、やや掛かり気味の逃げを披露。それでも直線は持ったまま後続を引き離し、6馬身差で圧勝した。
「これは本物だ」
気が早いことに、私はこの馬こそが蛯名騎手に初GⅠをもたらしてくれる馬だと思い始めていた。
そしてGⅢラジオたんぱ賞(現ラジオNIKKEI賞)で、ビッグバイアモンは初の重賞レースに挑んだ。2番人気に推されたビッグバイアモン。しかし、メンバーはかなり強力だ。単勝1.5倍の圧倒的1番人気には、弥生賞・NHKマイルCで2着の外国産馬・ツクバシンフォニー。他には皐月賞・ダービーともに3着に入ったメイショウジェニエ、京都4歳特別勝ち馬ザフォリア、青葉賞2着のカシマドリームなどが参戦してきた。ちなみに、この年は改装工事中の福島競馬場に代わって、中山競馬場にて行われた。

私はこの時高校3年生。ビッグバイアモンと蛯名騎手のコンビの写真を撮りたくて、父に一眼レフカメラを買ってもらっていた。しかし、この日は競馬場に行っていなかった。学校のテストが近かったのだ(笑)
「まぁ、そのうちまた中山競馬場で走ってくれるだろう」
そんな考えを、後に後悔することになる。
ビッグバイアモンは、このレースでも逃げた。いや、あまりにもスピードが違いすぎて、自然と先頭に立ってしまう感じなのだ。
彼のレースを見ていると、時に目が錯覚する。飛びが大きく、脚の回転は他馬よりもゆっくりなのに、後続はビッグバイアモンについて行くだけで必死な走りをしているからだ。
不思議な感覚を覚えさせられるのが、ビッグバイアモンの凄いところだと思った。

蛯名騎手は、よどみないペースでレースを進める。最後の直線、ビッグバイアモンの重心がグっと下がってギアチェンジする。
「ビッグバイアモンが更に加速した!」
これでは、後続が彼を捕まえることはできない。
勝ちタイムは、1:46:0。
前日に古馬のクラウンシチーが叩き出したばかりのレコードを、0.9秒更新しての優勝だった。4月にデビューし、これが4戦目というレースで、自らレースを作ってのレコード勝ちの価値は大きい。
ほうせんか賞勝利の際にすでにGⅠ級の器だと感じていた私は、もうこれで確信に変わっていた。
「無事にレースを迎えられれば、菊花賞は狙える!」と。
母父ロベルトは長距離血統。スタミナに加え素晴らしいスピードの持ち主だ。
もはやサンデーサイレンス旋風など、怖くはなくなっていた。

夏の間、ビッグバイアモンは放牧に出されることはなく、秋へ向けて厩舎で調整されていた。

ここでビッグバイアモンの馬体についてひとつお話をしたい。ビッグバイアモンは前後左右蹄の形が違い、繋ぎの角度が違っているため、中尾正調教師曰く「脚に爆弾を抱えているようなもの」というコメントを目にすることもあるような馬だった。私もそのコメントを耳にしてから改めて雑誌で馬体の写真を見た際に、気がついた。
そうした不安要素を聞いても、私はむしろ、こうした身体的特徴を持っている中で強い競馬をしているビッグバイアモンをますます好きになっていたのだった。そして夏の間、ビッグバイアモンはまだ背が伸び続けていたという嬉しい情報も耳にした。

順調に調整され迎えた秋初戦は、神戸新聞杯。ビッグバイアモンは単勝1.4倍の圧倒的1番人気に支持された。重賞未勝利という意味ではこれまで挑戦者だった立場から、ライバルを迎え撃つ立場となったビッグバイアモンは、たてがみにもポンポンを着けて編み込みをしてもらい、おめかしをしていた。
関西馬でありながら、関西の競馬場で走るのはこれが初めてであった。

ラジオたんぱ賞を終えたあと、多くの専門家から「抑える競馬を覚えた方がいい」という声が聞こえた。目標は3000mの菊花賞なのだし、そう思うのは当然だ。しかし蛯名騎手は、この日も逃げた。
ビッグバイアモンは無理に先頭に立ったことは一度もない。
繰り返し言うが、バネの効いた体で、スピードが違い過ぎて先頭に自然と立ってしまうのだ。脚の動きは本当にゆっくりだから不思議だ。

3コーナー過ぎ、さすがにライバルたちはビッグバイアモン1頭を徹底マークで、いつもより早く襲い掛かってきた。
4コーナーを回る時には一瞬だけ「飲み込まれてしまうのか!?」とヒヤっとしたが、それもあくまで、ほんの一瞬。
ビッグバイアモンは直線に入るといつものように重心を低くして二の脚を繰り出し、瞬時に差を付けた。彼が加速する時の姿はいつも一目でわかり、カッコいい。
「よし!勝てる!」
そう思った私は、その後すぐにビッグバイアモンがガクっとした瞬間を見逃さなかった。そのままあっという間に後続に飲み込まれ、ビッグバイアモンは5着に敗れた。
私がこの敗戦に納得するわけがなかった。決して実力で負けたのではない、そう思っていた。でも、実力で負けたのではないとしたら……。

この時代、まだインターネットによる情報もなく、私は翌朝のスポーツ新聞に情報を頼るしかなかった。
翌朝、恐る恐る新聞を開くと「左前浅屈腱断裂 競走能力喪失」の大きな文字が……。
「脚に爆弾を抱えている」
この不安なコメントは皮肉なことに、的中してしまった。
私は絶望した。本当に悔しくて悲しくて、もう彼の走りを見られないのかと思うと残念でならなかった。
それよりもまずは命があってほしいと願い続けていた。
どうしてなのだろうか?
蛯名騎手を応援するために見ていたはずの競馬で、私がここまで1頭の馬に夢中になったのは、初めてのことだった。

蛯名騎手は同年、秋の天皇賞にてサンデーサイレンス産駒のバブルガムフェローに代打騎乗し、初のGⅠを制した。ビッグバイアモンがいなくとも、GⅠを勝てた。でも私は何だか胸がつかえた気分でいた。翌週に行われた菊花賞はダンスインザダークが勝利。やはりサンデーサイレンス旋風は、吹き荒れていた。

彼の無事を確認できたのは、あの悲劇の神戸新聞杯からかなり後のことであった。
2年後、彼が東北の乗馬クラブにいることを知り、迷わず会いに行くことを決めた。今まで家族旅行以外行ったことのない私が。蛯名騎手のいる競馬場ではないのに。それから私は、3年連続彼に会いに行った。

引退後引き取った馬主さんは、彼を種牡馬にする夢を捨てていなかった。そのためビッグバイアモンは去勢されずにいたため、乗馬としては気性が荒く少々苦労されていた様子ではあった。半面、乗馬クラブの方もビッグバイアモンのバネの凄さを絶賛されていた。中山競馬場で会えなかった彼に、ようやく会えた瞬間だった。
3度会いに行った私は一旦満足してしまったのか、仕事が忙しかったからか──それからしばらく、乗馬クラブへ足を運ぶことはなくなった。

そしてビッグバイアモン引退から7年後、サンデーサイレンス産駒の妹スティルインラブが三冠牝馬に輝いた。ビッグバイアモンの無念を妹が晴らしてくれたようで、大変嬉しかった。私はおせっかいにも、スティルインラブが三冠牝馬に輝いたことを報告したくて、しばらくぶりに乗馬クラブへ会いに行こうと思った。
しかし、そこに彼はいなかった。
残念ながら乗馬クラブを移動してしまい、その先のことは分からないとのことだった。

ラジオたんぱ賞を見に行くこともなかった。いつでも行けば会えると思っていた乗馬クラブでも、会えなくなった。
私はそれ以来、会いたいと思ったら会いに行く、行きたいと思ったところには行くようにと考えが変わった。
後悔は、もうしたくないから。

後に蛯名騎手はビッグバイアモンについて「無事なら天皇賞秋くらいは勝てた馬」と評価した。また、スティルインラブが三冠牝馬になった際も「ビッグバイアモンの妹なら当然」という旨のコメントをしていた。
引退後数年経っても、時折、蛯名騎手がビッグバイアモンの名を出してくれることが私にとっては大きな幸せであった。

5戦4勝。蛯名騎手とはたったの4戦を共にしただけなのに、その4戦があまりにも強烈で、ビッグバイアモンと蛯名騎手のコンビ結成から長い時間が流れた今も、私にとってはこれから先も1番好きな馬で、変わることは決してない。

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