望遠鏡みたいなデカいカメラを提げて競馬場を低徊するオネエサンの話

競馬場には、馬券好きのオッチャンたちに紛れてデカいカメラを提げて走り回る人たちがいる。
馬や騎手などの追っかけだ。

その一人が、夜明け前の品川駅にいた。大きなカメラバッグを二つも担いで、青白い顔で始発を待つ女。この日、このオネエサンの“推し”の若手騎手が中京競馬場のGⅠに出るという。それも相当の人気馬だ。デビュー9年、ついに初GⅠ勝利が現実のものになろうとしている。それで彼女は遠く中京競馬場まで行くのだ。
車窓の向こうに金色の朝焼けが広がると、それを眺めては目を潤ませたりするオネエサン。何やら事情がありそうなさまだが、単に推しの初GⅠを前にしているだけなのだ。

他に心配することはないのか。

オネエサンはこれまでさまざまな人生の心配事、資産形成、キャリア、結婚云々をことごとく推しの初GⅠ勝利後に後回しにし、”推し活”に全てを捧げてきた。
でもそれではまずいと彼女自身も薄々勘付いてはいたようだ。激烈に虚しくなる体験も一度ばかりではない。例えば遠征のその足で、ケチって高速バスで帰省した際、新婚まもない弟夫婦が親の手伝いに来ているのに出会してしまったとき。その気まずさたるや想像するだけでゾッとするが、それでもオネエサンは追っかけの生活をやめない。細々と自身の居場所をやりくりしながら競馬場に通っている。

そんなことをしていると追っかけ同士は次第に互いを見知ってくるという。名前などよく知らなくて、騎手の名前で互いを把握する。武史のオネエサンであり、菜七子のオニイサンであり、田辺のオバチャンである。それで十分だという。

オネエサンはたまに思う。

「みんな、こんなにたくさんお金を使って、週末に同じことを繰り返して。情けなくなったり、虚しくなったりしないのかな。本当のところはどうなんだろう」

それでもあえて聞かないし、わざわざ話さない。せっかくの競馬場で難しいことを考えても仕方ない。広い空の下ではぜんぶ忘れてしまうのだ。

それでもこの日のオネエサンは心なしかブルーにみえた。

「もし推しがGⅠを勝ったらどうなってしまうんだろう」

これまで推しが重賞を勝つたび、オネエサンは世界中から祝福されるような喜びとほんの少しの寂しさを味わってきたという。外ラチのすぐ先にいても、やっぱり手の届かない存在だと思い知るのだろう。

「勝ってほしくないわけではない。絶対に勝ってほしいし、それ以上のことはない。だけどその時がきたら、ずっと遠くにいってしまうような気がする」

GⅠを勝つことの重さだ。それでも懲りずに彼女は馬場入りする推しをめがけて大きな望遠のカメラをかまえる。遠くをアップで切り取るカメラは、楽しいところだけ見て生きるのにはちょうどいいのかもしれない。この騎乗がGⅠ前最後のレースだった。連写した写真を見たオネエサン、これがGⅠジョッキーになる前の最後の写真なのだ、と直感した。ひとつの時代が終わるみたいに。

そういえばオネエサン、かつて推しが茶髪になっただけで動揺したことがあるといっていた。一体どんな心変わりがと青ざめるオネエサンに対し、アレッサンドロ・ジョバンニ・ジェレビーニ(仮名)は「ボクと同じ色でいいね」と笑っていた。その度彼女は卑屈になった。アレッサンドロ・ジョバンニ・ジェレビーニとは、日本の競馬場巡りが大好きな若きイタリア人で、よくあちこちで遭遇する。オネエサンが名を知る数少ない競馬場の友人だ。この日もアレッサンドロ・ジョバンニ・ジェレビーニと鉢合わせたので、比較的空いている寿司屋で一緒に昼食をとった。オネエサンはちっとも食が進まなくて、寿司の半分をアレッサンドロにあげた。アレッサンドロはスシを喜ぶでもなく、競馬新聞を眺めながらあれこれ予想を演説している。およそニッポンの競馬場のオッサンであった。

それからふたりは冬空の競馬場を歩き回った。顔の広いアレッサンドロは〈今回GⅠに出走する馬の一口を持っている友人がいる。勝ったら口取りに混ぜてもらえるかも〉とウィナーズサークルの入り口を探していた。オネエサンは陽気なイタリア人を笑いながらも、心は違うところに向いているようだった。
オネエサンはアレッサンドロと別れて、ひとりGⅠのパドックに向かった。

その日はあいにくの曇り空だった。オネエサンはパドックを眺めながら、2週間前に死んだTという馬のことを思い出していた。
Tは将来が期待される2歳馬だった。鞍上は推し。しかし1番人気で挑んだ2歳重賞で故障発生。安否はすぐに報道されなかったが、オネエサンは後日亡くなったという記述をひっそりと見つけていた。
オネエサンは心の中でTに語りかけた。

〈きみに乗ったあの青年が今日、GⅠを勝つかもしれないんだ。よかったら見にきてほしい。できれば力を貸してほしい〉

すると嘘みたいな話だが、ふいに雲間から光が差してきて、パドックに大きなスタンドの影を落とした。そこを抜けてきた推しの馬にたくさんの光が降り注いだのち、すっと陽は雲間に隠れ、もとの曇天にたちかえった。
〈Tが会いにきてくれた〉。オネエサン、そう信じずにはいられなかったようだ。

オネエサンはパドックを見届けるや否や足早にゴールすぎへと向かって、ウイニングランがよく見えるところを探しはじめた。勝利の確信に突き動かされていた。オネエサンは人混みの隙間にスッと収まると、指先が震えているのに気付いた。あらがうようにカメラのグリップとお守りを強く握った。

GⅠレースがはじまった。ゲートを飛び出した馬たちは瞬く間にスタンド前を過ぎる。オネエサンはデカいカメラを望遠鏡がわりに掲げて、モニターの中の推しの現在地をたしかめる。馬たちはよどみなく向正面を過ぎて、再び帰ってくる。推しは馬群の内側、包まれたところに収まった。オネエサンは一瞬、絶望した。動揺する暇はない。まもなく馬群が近づいてくるのを察知して、カメラの先を実物の推しに振り切った。同じ速さでカメラを振った寸時、推しはゴール板を過ぎた。カメラは捉える先を失った。

天体望遠鏡みたいなカメラで覗いたせいで、ゴールの位置も推しの前に誰がいるかも、オネエサンは咄嗟にわからなかった。これは遠く光る一番星を見つけても、夜空の全てはわからないようなものだろう。
オネエサンが狼狽えた一瞬、後ろにいたオッチャンがお姉さんの推しの名前を叫んだ。オネエサンは真っ白になった。

オネエサンは見事に見逃したようだが、勝ったのは推しだった。

彼女はなおも懲りずに望遠を覗き込んではレースを終えた馬群に推しの姿を探すが、ぞろぞろ引き上げる中に推しの姿はない。するとひょっこりと推しと推しの馬が顔をのぞかせ、芝コースへとただ一頭歩き出した。

オネエサンはようやく現実に追いついてきたようだが、馬上の青年はまだ目の前の出来事を受け止めきれていないようだった。勝ち馬が淡々とスタンドの方へ近づいてくる。オネエサンは早く帰っておいで、と漏らした。何度も繰り返した。「遠くにいってほしくない」と言っていたオネエサンの、早く帰っておいで。

それから馬上の青年は顔を上げてスタンドの大観衆をみとめたのか、ようやくガッツポーズを作った。するとたちまちたくさんの拍手の雨が青年目がけて降り注いだ。クリスマスプレゼントを見つけた少年のように、まっすぐな喜びをあらわにしては何度も馬を撫でた。自分のことよりもずっと、頑張った相棒が愛おしくてたまらないようだった。なんと心やさしい青年か。オネエサンはシャッターボタンをほぼ押しっぱなしでファインダー越しに彼を見つめる。重いカメラを支える手首が震えているけど、今の彼女にはなんてことないのだろう。

それからオネエサンは人混みを飛び出しウィナーズサークルへと駆けていった。中京の人びとは彼女の顔を見るや否や「きみは前で見たほうがいい」と次々前へと促し、モーゼみたいに道ができた。オネエサンは選挙の候補者みたいに頭を下げ、知らない人と握手したり肩を抱き合いながら、とうとう最前列まで躍り出た。そんなことになるなんて、彼女は一体どれほど泣いていたのだろう。中京の人びとはなんと温かいのだろう。たくさんの祝福に包まれながら、オネエサンは推しの口取りや表彰式を熱く見守った。

続く勝利騎手インタビューで喜び極まる推しは突如絶叫した。会場は一瞬ぽかんとしてから、彼が「ブラボー」と叫んだとわかって、大きな歓声で応えた。いつの間にかオネエサンの隣にいたアレッサンドロも本場のBravoを叫んだ。成し遂げた大偉業に比して子どものように喜ぶ騎手。だけど語ることばのひとつひとつに、これまでの苦労、長年GⅠを夢見た日々、家族や馬への感謝が滲んでいた。誰もが目頭を熱くする素晴らしいスピーチだった。

アレッサンドロは「次は海外かフェブラリーか」と飛び跳ねながら「君も見に行くんだろう」とオネエサンに畳み掛ける。オネエサンはなんの考えもなしに「もちろん」と答えた。

その瞬間、オネエサンの心に穏やかなあたたかみが満ちてきたという。

〈なんだ。GⅠを勝っても、彼は彼のまま。私も私のままじゃない〉

それからオネエサンは次のレースへと向かう推しを追って、再びパドックへと駆けていった。

彼女はその後早速、推しがもたらした約8万円の払戻金を貯金したという。推しがGⅠを勝った今、放っておいた人生の心配事に着手しなくてはいけないのだろう。それでも週末になると、これまでと変わらずデカいカメラを提げて競馬場へと向かっていった。

ようやくはじめた資産形成についてオネエサンは、「推しの次なるGⅠに向けての遠征費」と語っている。

写真:手塚 瞳

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