絆、つながる。2人の調教師が織り成す初代女王〜第1回徽軫賞〜

2019年6月金沢競馬場。
菅原欣也調教師は管理馬の出走レースもまともに見る暇もないほど、多忙を極めていた。
仕事の内容は所属馬の日常管理に出走管理、厩舎の経営などなど。
仕事自体は、普段の調教師として働いている時と変わっていない。
問題は、その管理する馬の数。

「あの時、120頭位はいたんじゃないかなあ」

その年末に、しみじみと菅原師は述懐した。

管理する頭数だけ見ても異常に多いが、これが一夜にしてこれだけの数に膨れ上がったというから驚きである。
もちろん、この管理馬激増にはちゃんとした理由がある。
それは2018年度のリーディングトレーナー、鈴木長次調教師との繋がりだった。

鈴木長次調教師。
1947年生まれで、1977年山形県の上山競馬場で調教師として開業。
順調に勝利を積み重ねて重賞も27勝。常にリーディング上位を争う厩舎に育て上げた。
しかし、2003年に上山競馬が廃止となり、2004年に金沢で再び開業。再開業当初は思うように成績は伸びず、忸怩たる思いを続けた。
だが、近年は重賞戦線で活躍馬を送り込み、勝ち星も順調に積み重ねリーディング上位どころかトップを争うまでになり、2018年度──ついに上山時代も含めて初めてのリーディングトレーナーとなった。

さあ、これからと言う矢先に病魔が鈴木師を襲う。
それでも闘病しながら厩舎を率い、2019年度も5月まではリーディング2位につける活躍を見せていたが、5月20日に急逝。享年71歳だった。

開催毎に多くの馬を出走させていた鈴木厩舎。
その管理馬は1か月間、菅原師へと仮所属となった。
鈴木師急逝の報に接して、私は鈴木師の管理馬が菅原師へと移されるだろうと思っていたし、菅原師もそう思っていた。
──それくらいに2人の繋がりは強かった。

その、菅原欣也調教師。
1953年生まれで1993年栃木県の宇都宮競馬場で調教師として開業。
北関東リーディングで上位を争う気鋭の厩舎を率いていたが2005年に宇都宮競馬が廃止。
金沢で再開業するきっかけは、

「長さん(鈴木師)が『寂しいからお前も来い』って言うから」

というもの。そうして、2006年に金沢競馬で再開業することとなったという。
2人のつながりは、再開業の前から、所属する競馬場は違えど強いものがあった。
鈴木師が闘病中の時も菅原師が管理を手伝ったりもしていた。
だからこそ鈴木師の管理馬が菅原師へと託されるのは、当然の流れと言えた。
ただ、

「ほとんど全部来るとは思っていなかった」

とのことで、菅原厩舎は前年のリーディング厩舎を──1か月だけとはいえ──ほぼ全部預かる事になったのだ。そして、冒頭の多忙っぷりが訪れる。

そんな菅原厩舎に一時預かりとなった鈴木厩舎の馬の中にいたのが、サノラブだった。
サノラブはこの時5歳の牝馬。2歳時にJRAで新馬勝ちを収めて素質を見せたが、それから11戦走って掲示板を飾ったのが1度だけ。しかもほとんどが二ケタ着順と、苦戦を強いられた。
4歳の夏に新天地を求めて金沢の鈴木長次厩舎へ移籍。
すると今までの苦戦が嘘のような走りをみせ、移籍後8戦6勝2着1回着外1回と大活躍でオープン馬となった。
その後金沢競馬が冬休みに入ると大井に移籍して1勝を挙げると、再び金沢の鈴木長次厩舎へと戻ってきた。

しかし、戻って来てからの成績は6着→9着と、一時期の勢いは失われる。さらに菅原師に一時預かりとなった初戦も7頭中6着。
前年の金沢の栄光はどこへやら。
そんな状態で菅原師が次走に選択したのが、この年新設された3歳以上の牝馬限定重賞、徽軫賞(ことじしょう)だった。
近走の成績もパッとしない、その上これが初めての重賞出走。
さらに相手は、前年の中日杯を制したヤマミダンスや、前年の留守杯日高賞を制したエグジビッツなど、かなりの好メンバーが揃っていた。

そんな中でのサノラブは11頭中7番人気。
妥当と言えば妥当に思われた。

この低評価に反発してか、あるいは感じていた菅原師への一宿一飯の恩義を返そうとしたのか。
サノラブは一変した。

好スタートからハナを奪い、エグジビッツとミスアンナを連れての逃げ。
このサノラブを先頭とする3頭に少し離れてヤマミダンスが続く縦長の展開に。向こう正面に入るとヤマミダンスに早くも鞭が入る。しかし行きっぷりはあまりよくなくポジションがどんどん後退、集団から置いていかれる。
それをしり目にサノラブは快調に飛ばして最終コーナーから直線に。
するとサノラブはエグジビッツとミスアンナを振り切りにかかり、その差を広げていく。
同じく菅原厩舎に一時預かりとなっていたフジノナデシコが鋭い末脚で追い込んでくるも、エグジビッツを差して2着に食い込むまで。

サノラブは4馬身差をつけ、初代女王としてゴールを駆け抜けた。

こうして第1回徽軫賞は元鈴木厩舎現菅原厩舎のワンツーフィニッシュとなった。
この伏兵サノラブの一変。それは距離にあったのではないだろうか。
実はサノラブ、金沢の1500mに異様に強く最初の移籍で上げた6勝2着1回は、全て1500mでのもの。着外に沈んだのは最後に走った1900m戦で、2度目の移籍後の3戦は1700m→1700m→1900m。
不振に見えたが、単に距離が合ってなかった事につきるのかもしれない。

1500mのスペシャリストと言える彼女が1500m戦の重賞の初代優勝馬になったのは番狂わせでもなく当然の結果と言えた。
……と、終わってから、そう思った。

菅原師に一時預かりになっていた鈴木師の元管理馬は、サノラブも含めて、加藤和宏厩舎を中心に他の厩舎へと正式に移籍。菅原師の異常事態とも言える多忙な日々も、終わりを告げた。
サノラブ重賞制覇の事を訊くと菅原師は、

「あれ、俺のとこの馬じゃねえもん」

笑いながらそう言う。菅原厩舎所属で優勝したが、実際は鈴木厩舎の馬。そう言いたいのだろう。

しかし、金沢移籍後徹頭徹尾1500mのレースを選択して走らせた鈴木師と、新設された1500mの重賞に出走を決めた菅原師。
間違いなくサノラブはこの2人の調教師の管理馬であり、2人による重賞ホースなのだ。

最後に。
鈴木長次調教師は金沢で再開業をした2004年に初めての重賞を制覇している。
それは上山の頃から管理をしていたマルワサンライム(牡6)と言うアラブによるもの。
そのレースの名前は「ことじ賞」。そしてこれが最後の開催だった。
鈴木師の管理馬は最後の「ことじ賞」を制し、菅原師に託されて最初の「徽軫賞」を制した。
歴史に残るちょっとした快挙を、2人の繋がりがひっそりと起こしていた。

写真:ゆうか

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