私が競馬を好きな理由は、主に3つある。
一つ目は、馬に関わる「人」のドラマがあるから。
二つ目は、脈々と続く「馬と血統」のドラマがあるから。
そして三つ目は、「デッドヒート」に代表されるような胸が熱くなるドラマチックなレース展開があるからだ。
そんなドラマチックな瞬間を目の当たりにしたときは、レースが終わった後もいつまでも「こんな素晴らしいレースを見られて良かった」とか「こんな時代に生きていて良かった」などと語り合えるのだ。
2000年(平成12年)のダービー。
ゴール前で壮絶に叩き合った二人の騎手の「デッドヒート」には、運命めいた「人」のドラマと、「馬と血統」のドラマがあった。
そのドラマの主役は、河内洋騎手と武豊騎手。
そのダービーのゴール前、私はテレビ越しに河内騎手を応援していた。
武騎手が嫌いだったわけではない。むしろ好きな騎手だった。
ただ、河内騎手を応援したくなるようなる理由があったのだ。
──話は、そこからさらに11年前に遡る。
私が父に連れられて、初めて競馬場に行ったのは、小学校に入る前の1989年(平成元年)春、京都競馬場だった。
その日のメインレースは天皇賞春で、勝ったのはイナリワン。
その背にはまだデビューして2年と2ヶ月に満たない武騎手がいた。
地方から移籍してきた乗り難しいイナリワンを3200mの長丁場で見事にエスコートして、終わってみれば5馬身差の圧勝。しかも、それが武騎手にとって3つめのGⅠ勝利である。
現在の競馬界に置き換えてみれば、キャリア2年ちょっとの若手騎手が、自身のGⅠ3勝目を天皇賞春であげることが、いかにとてつもない快挙だったかは容易に想像ができるだろう。
幼かった私は当たり前のように、その日から武騎手を応援するようになっていた。
しかし当時、関西所属騎手のリーディング上位には、名手と呼べる騎手が他にも多数いた。
その中の一人が河内騎手だった。
全国リーディング3回、当時史上最年少での1000勝達成と、紛れもないトップジョッキーである。
1970年、騎手候補生として武田作十郎厩舎に入門した河内騎手だが、それはその後の1987年にデビューした武騎手も同じであり、いわゆる「兄弟弟子」の関係であった。そして、河内騎手の兄弟子もまた、武騎手の父・武邦彦騎手だった。
独断と偏見で決めてしまうとすれば、二人の関係を最もよく表していたレースといえば、1988年~1994年の桜花賞だ。
この7年間で両騎手は3度ずつ桜花賞を制覇している。
武騎手が有力馬に乗れない年は河内騎手が勝つといった構図だ。
武騎手を応援していた私にとって、そんな河内騎手は少し恨めしい存在でもあった。
それから私も年を重ね、少しずつ競馬を客観的に見るようになっていた。
思い出すのが1998年(平成10年)の天皇賞春。勝ったのは河内騎手とメジロブライトだった。武騎手とメジロマックイーンのコンビが勝利してから実に6年ぶりの「メジロ」による天皇賞春の制覇だった。
本人達は全く意識していなかったと思うが、6年ぶりに弟弟子から兄弟子に、メジロの勝負服を通じてバトンのようなものが渡された気がして、私はなんだかとても嬉しくなった。
そんなイメージから、私は河内騎手のことも応援するようになった。好きな騎手の兄弟子ではなく、好きな騎手として。
少し話は逸れてしまったが……私の中で武騎手・河内騎手は、それほど思い入れのある騎手、ということだ。
そしてその2人が相まみえたのが、2000年のダービーだった。
1番人気は武騎手騎乗のエアシャカール。
瞬発力を持ち味とするサンデーサイレンス産駒にしては珍しく、長くいい脚を使えるのが持ち味の馬だ。
前走・皐月賞では3コーナー16番手からまくり気味に進出し、ゴール前できっちりと1番人気ダイタクリーヴァをとらえ、最初の一冠を手にしていた。
2番人気はそのダイタクリーヴァ。先行抜け出しのソツのないレース運びが持ち味だが、血統面からダービーでの距離延長が不安視されていた。
そして、3番人気で続いたのが河内騎手騎乗のアグネスフライトだった。
父はエアシャカールと同じサンデーサイレンス。母はアグネスフローラ。アグネスフローラは前述した「7年間の桜花賞」の一つ、1990年・桜花賞を、河内騎手とのコンビで制した実績馬である。さらにその母もまた、河内騎手でオークスを制していたアグネスレディー。2世代に渡りクラシック制覇を達成している牝系の、超がつく良血馬である。
しかし、母仔3代によるクラシック制覇がかかるこの馬がダービーに挑んでくるまでの過程は、華々しいエアシャカールのそれとは全く異なるものだった。
前年の10月末にデビューしたエアシャカールに対し、アグネスフライトのデビューは年が明けて2月の初旬。ダービーのたった4ヶ月前だ。
新馬戦こそ快勝したものの、2戦目となった皐月賞トライアル・若葉ステークスは、22kgの馬体減が響いたのか12着に惨敗。その結果、皐月賞を諦めることになってしまう。
しかしオープンの若草ステークスから再始動すると、そこを快勝。続く京都新聞杯も、皐月賞のエアシャカールと同様に3コーナーからまくり気味に進出し、ゴール100m手前で一気に抜け出して突き放すという強い勝ち方で、なんとかダービーに駒を進めてきていた。
──実はこの2年前、武騎手と河内騎手はダービーでワンツーフィニッシュを決めている。
その年は武騎手がスペシャルウィークで勝利し、10回目の挑戦で念願のダービー初制覇を達成。このとき2着のボールドエンペラーに騎乗していたのが河内騎手だった。しかしスペシャルウィークが栄光のゴール板を駆け抜けたとき、ボールドエンペラーは5馬身も後ろを走っていた。あくまで14番人気の伏兵を好走させたというイメージのダービーだ。
だからこそ、2人揃って有力馬とのコンビでダービーに参戦したのは、この2000年が初めてだったと言って良いだろう。
このとき河内騎手は、デビュー27年目。
過去16回のダービー挑戦。
1番人気馬に騎乗すること3回。
しかし不思議なことに、ダービージョッキーの称号を一度も手にしていなかったのである。
「ここまで来てしまったので。後はそうそうチャンスがあるわけではないですし、なんとか頑張りたいです」
ダービー前の共同記者会見で、自らに言い聞かせるように静かに、しかし力強く語った河内騎手。年齢からも、おそらくこれがラストチャンスになるだろうと思っていたに違いない。
それが分かっていたからこそ「なんとかその夢を叶えてほしい」と、河内騎手・アグネスフライトのコンビを応援していた人は少なくなかったように思う。
ダービー当日にふさわしい快晴の下、20世紀最後の大一番の火蓋は切って落とされた。
オースミコンドルが少し出遅れたが、他に大きく出遅れる馬はなく、好枠を引いていたエアシャカールとアグネスフライトは後方に控える。1コーナーから2コーナーに差し掛かる地点での有力馬の位置取りは、先行抜け出しを持ち味とするダイタクリーヴァが中団9番手、エアシャカールは皐月賞と同じ16番手、アグネスフライトはなんと最後方だった。
「1コーナーを10番手以内で回らないとダービーには勝てない」と言われていたことから有名だった「ダービーポジション」という単語は、フルゲートが18頭となり瞬発力を武器とするサンデーサイレンス産駒全盛の当時には、既に死語にはなっていた。
しかしそれでも「さすがにこれは後ろ過ぎるだろう……」と、両馬を応援していた人達は多くがそう思ったはずだ。
しかし、ダービー2連覇中でエアシャカールの持ち味をしっかり掴んでいる武豊騎手と、デビュー以来すべてのレースでアグネスフライトとコンビを組んできた河内騎手は、揺るぎない自信を持ってお互いの相棒を信頼し、最良のポジションをとっていたのだ。
向正面に入り、マイネルブラウ、タニノソルクバーノ、パープルエビスの3頭が後続を3馬身ほど引き離して快調に逃げる。
前半1000mの通過59秒1は、かなりのハイペースだ。
距離が不安視されていたダイタクリーヴァはさらに位置取りを下げ、先頭から10馬身ほど離れた中団やや後ろ11番手に、エアシャカールは先頭から20馬身ほどの15番手、アグネスフライトは変わらず最後方でエアシャカールの3馬身ほど後ろにいた。
1200mを通過してからの2ハロンは13.1-13.0とさすがにペースは落ち、縦長だった隊列はそこから一転して集団になりつつあった。
しかし、ここからゴール1ハロン手前までは全て加速ラップとなり、結果的に消耗戦になっていく。
残り1000mのハロン棒を通過したところで、このペースが落ちたのを見計らった武騎手が仕掛けた。
長くいい脚を使えるこの馬なら、きっとゴールまで持続できるという判断だろうか。
皐月賞と同じように、馬群の外目をスルスルと上がっていき、あっという間にダイタクリーヴァに並びかけると、場内からは早くも大歓声が上がった。
それを見ながら、河内騎手も遅れまいとさらにその外から追走を開始する。
4コーナー手前で、先頭からおよそ3、4馬身のところまで差を詰めたエアシャカールと、さらにその2馬身後方をいくアグネスフライト。
直線に向くと逃げ馬は捕らえられ、馬場の真ん中からまず第2集団にいた5番人気のジョウテンブレーヴと6番人気のアタラクシアが抜け出し始める。さらにその外からエアシャカールが襲いかかり、ゴールまで残り200mを切ったところで早くも先頭に立つと、2頭との差をぐんぐんと広げ始めた。
しかし、ここからが世代の頂点を極める本当の勝負。
まるで運命に導かれたかのように、かつて兄弟弟子だった二人の天才騎手により、ダービー史上最高の呼び声高いデッドヒートが繰り広げられたのである。
先頭を行くエアシャカールをただ1頭大外から猛然と追ってきたのは、河内騎手とアグネスフライトだった。
その差は詰まるが、なかなか並びかけるところまでいかない。
ダービー初制覇の夢を叶えるため、河内騎手は左鞭を連打してアグネスフライトを鼓舞し、前をいくエアシャカールを必死に追う。
牝馬と共に多数のGⅠを「華麗に」獲得してきた河内騎手からは、想像もできないような豪快なアクションだ。武騎手も、ダービー3連覇という夢を叶えるため、負けるわけにはいかない。ダービージョッキーという意味では「先輩」だ。兄弟子に遅れは取らない。
ファンも、それを理解した上でデッドヒートを見守る。
残り80mくらいの地点で、少し外によれるエアシャカール。しかし、それにひるまないアグネスフライト。とうとう並びかけるところまでやってきた。
もはや、胸突き八丁なんて言葉を超越した死力を尽くした叩き合いが続く。
そして、二人の夢を乗せた2頭の馬体が完全に並んだところがゴールだった。
「どっちが勝ったんだ!?」
かなり際どい態勢でゴールしたのは、誰の目から見ても明らかだった。
しかしゴール板を過ぎてすぐ、河内騎手が右手でガッツポーズを作った。
当時の私は河内騎手が勝ったレースを何度も見てきたが、ゴール後ガッツポーズをする河内騎手は記憶になかった。ついにダービーを勝ったという、確固たる自信と手応えがあったのか。
その姿が映し出されると、一瞬静まりそうになった歓声がまたひときわ大きくなった。
2コーナーで互いに馬を止めて握手をする兄弟子と弟弟子。
場内からは早くも大「河内」コールが鳴り響く。
最後の直線でエアシャカールが外によれたところが審議の対象となっていたが、写真判定となっていた1着のところにアグネスフライトのゼッケン番号を示す「4」の文字が点滅し始めると、再度大歓声と拍手が沸き起こり、「河内」コールはますますその大きさを増した。
スタンド前に戻り、ウイニングランを行う河内騎手とアグネスフライト。
アグネスフライトの馬券を買った人も買っていない人も、みんながこの瞬間を待っていて、祝福しているかのようにすら思えた。
大声援に応え、何度も何度もガッツポーズを作り、場内の雰囲気を噛みしめるように地下馬道へと消えていく河内騎手。こうして20世紀最後のダービーは、お互いの夢を叶えるために死力を尽くして叩き合った最強の兄弟弟子二人による、ダービー史上に残るデッドヒートで幕を閉じたのである。
後日談にはなるが、翌2001年、河内騎手はアグネスフライトの全弟・アグネスタキオンで皐月賞に参戦した。それまでの戦績は3戦3勝でいずれも圧勝。単勝オッズは最終的に1.3倍となり、その圧倒的な支持の中で、当然のように勝利した。この勝利で河内騎手はクラシック完全制覇となり、これがこの一族4頭目のクラシック勝ち馬の誕生の瞬間となった。鞍上は全て河内騎手。再び「馬と血統」のドラマを演出したのだ。
アグネスタキオンには、無敗のダービー制覇どころか史上最強馬になる可能性も囁かれ始めていたが、皐月賞後に屈腱炎が判明。二冠達成の夢、河内騎手のダービー連覇の夢が、絶たれた。
そして、夏も終わりに差し掛かった頃、同馬の引退が発表された。
河内騎手もまた、2年後の2003年に調教師試験に合格し、騎手生活引退を表明。
結果的には、2000年のダービーが文字通りラストチャンスだったのである。
迎えた2003年2月22日の京都記念。
アグネスフライトの背には、現役最後の重賞騎乗機会となった河内騎手の姿があった。
アグネスフライト自身は、ダービーの翌年に発症した故障の影響もあってか、その後勝利を挙げることはできていなかった。
しかし、前3走は全て2桁着順に敗れていた同馬がこの日は6着と気を吐き、名手のフィナーレに花を添え、自らも次走の大阪杯を最後にターフを去ったのだった。
写真:かず