
新緑のターフを風が駆けた。
数多の夢を、幾多の願いを、その背に乗せて。
──長い直線。静寂を破り、歓声が波のように押し寄せる。
彼は駆ける。ゴールを目指して、真っ直ぐに。
勝利は約束されたものではない。
それでも彼は信じる。騎手の手綱を、声援を、そして自らの脚を。
あの日、府中の空に掲げられたのは一つの希望。
ファンの想いが結実した栄光。

ドウデュース。
その名が響くたび、あの瞬間が蘇る。
夢を叶えた、ダービー馬の誇りを。
──なぜ、私は競馬を追い続けるのだろう。
血のロマンを求めて。馬に人生を重ねて。一攫千金を夢見て。
あるいはもっと単純に、馬が大好きだから。馬が活力をくれるから。
さまざまな想いを抱き、私は競馬を愛している。飽きることのない世界が、そこにある。
もちろん、良いことばかりじゃない。
願いも、祈りも。そのほとんどは届かない。心躍る出会いがあれば、心裂く別れもある。思い描いた未来は、そう簡単には来ない。
だからこそ、手を伸ばし続けるのだ。
そして、ときどき訪れる「その瞬間」に、心の底から飛び跳ねる。
年齢を重ね、競馬を長く見続けても、その一瞬に吹き抜ける瑞々しさは変わらない。
2022年5月29日、第89回日本ダービー。
眩しい陽射しに包まれた府中。新緑の直線を、ドウデュースが駆け抜けた。その光景に、今も胸が焦がれている。

朝、アラーム音よりも早く目が覚めた。いつもなら「もうひと寝入り」と思うのに、今日は違う。遠足前のような落ち着かない気持ちで、ベッドを降りる。コーヒーを一口、朝のニュースを眺める。目に留まるのは競馬の記事ばかり。大きな異変はない。全馬、無事に朝を迎えた。それだけで、少し肩の力が抜ける。
スーパーマーケットの開店と同時に足を踏み入れ、いつもより少し高い食材を買い物かごに。レジの列でおばちゃんと鉢合わせ、お先にどうぞ、と道を譲る。店を出ると、陽射しが肌を刺す。時計は10時を少し過ぎたところ。まだまだ、まだまだ……。
帰宅し、テレビをつける。グリーンチャンネルのキャスターが、華やいだ装いと弾んだ声で競馬場の様子を伝える。それを横目に料理にとりかかる。野菜を刻み、肉を炒め、塩コショウを振る。普段なら少し手を抜くところも、今日は丁寧に。
テレビ画面にジョッキー紹介の様子が映っている。手を振りながらパドックに入場する18名。キーファーズの勝負服をまとった武豊騎手が入場すると、歓声が一段と高まる。
高ぶる気持ちを落ち着かせようと、窓を開けて深呼吸。外の熱気に夏の足音を感じる。遠くで二羽の鳥がじゃれている。競馬場の歓声がテレビの向こうからなおも響く。この日を、この空気を、この胸の高鳴りを、心に焼き付けておこう──。
この日は特別だな、と改めて思う。
あと数時間、静かに、穏やかに、ただ待つ。人馬の道が開かれることを祈り、過ごす。
その祈りの中心は、ドウデュースと武豊騎手だった。
いつから、ドウデュースは特別な存在になったのだろう。
小倉の新馬戦だろうか。アイビーステークスだろうか。ゴールに向かってなお加速するその末脚に、揺るぎない芯の強さに、彼の走りに、心は躍っていった。

朝日杯フューチュリティステークスも、何度も見返した。
初めて経験するマイル戦。そのペースに戸惑ってしまうだろうと思っていた。だが、彼は迷いなく流れに乗り、長い仁川の直線を存分に使い、万雷の拍手に包まれて悠々と突き抜けた。
武豊騎手が長らく手にできていなかった勲章。欠けていたピースを、武豊愛を公言してやまない名物オーナーの勝負服が埋めた。
一念岩をも徹す。願いが届いたのだと思った。時代の流れに抗うように、特別な何かを持つ馬の手綱が、再び武豊騎手に手に託された。それが、たまらなくうれしかった。
弥生賞、皐月賞と連敗しても、ドウデュースの能力を疑う気はなかった。レーススタイルを変えながら脚を測った2戦は、ダービーへの良い布石に思えた。

しかし同時に、心の片隅に距離適性の懸念が芽生え始めた。3歳を迎えて一段と筋骨隆々に膨らんだ馬体とピッチの速い走りは高いスピード能力を感じさせ、それ故に、それが短い距離を得意とする馬の資質にも思えた。東京芝2400mでは脚が鈍るかもしれない──そんな不安が膨らんでいた。
それでも、ライバルに先んじる。逆転のシナリオを、幾度も思い描いた。
きっと武さんは末脚に懸けるはず。直線、全馬を飲み込む力があるはず。
私の視線の先にはずっと、ドウデュースがいた。
パドックにダービーの出走馬が姿を見せる。
燦燦と降り注ぐ日差しを浴び、18頭の馬体が輝いている。
その中でも、ドウデュースの隆起した筋肉としなやかで力強い歩様は出色に映る。特別な日に、究極の仕上げを施す厩舎の技量に畏敬の念を抱く。
だがライバルも負けてはいない。イクイノックスのしなやかで雄大な動きには、内奥から隠しきれない才能がほとばしっている。ダノンベルーガの特徴的な歩様に、薄氷を履む調整を完遂した陣営の苦心が垣間見える。ジオグリフの逞しさと柔らかさが同居した振る舞いに、完成された強さを感じる。
握り締めたコップの氷が、かたりと揺れる。
私は緊張とともに麦茶を流し込んだ。時計の針が遅く感じられた。
コースに駆け出すドウデュース。
その姿を見届けて、私は「13」の単勝馬券を、いつもより少し厚く握る。
それは確信じゃなく、願いだった。ドウデュースと武豊騎手への願いを形にしたかった。
ダービーは、ダービーだけは、応援したい人馬を見守ろう。そして祈ろう。願いが叶うことを。
そして大きな拍手に包まれ、ゲートが開く。
隊列は大方の予想通り。逃げ宣言のデシエルトが迷わず飛び出し、春の重賞を制したアスクビクターモア、ビーストニッシド、ピースオブエイトが追いかける。直後にダービー最終便で権利を取った3頭。プラダリア、セイウンハーデス、アスクワイルドモアが続く。
ドウデュースは迷いなくスッと後方に控える。
舞台は灼熱の東京芝2400m。待ち受ける長い府中の直線を前に、余力は残しておきたい。
馬群が徐々に縦に伸び、1コーナーへと突入していく。
映し出される一頭一頭が、それぞれに特別な想いを背負っている。彼らは今、とんでもない世界に生きているのだ。ここはダービー、過酷な戦いの末に辿り着いた夢舞台である。大志を胸に臨む2分20秒の戦い。厩舎、牧場、オーナー。この日、このステージに立つすべての者への敬意が胸を満たす。
向正面、静かな駆け引き。ドウデュースのすぐ目の前ではダノンベルーガとジオグリフが火花を散らしている。イクイノックスはドウデュースの後ろで睨みを利かせている。
ドウデュースは、他馬の影響を受けず、薫風に乗って軽やかに自身のリズムを刻み続けている。
──いいぞ、ドウデュース。いける。いける……。
手が汗ばむ。その一歩が、次の一歩が、正しく進むことを祈る。
迎えた直線。その結末を待ちわびた歓声が一気に上がる。
ドウデュースの全身が収縮し、ピッチがこれ以上なく速まる。武豊騎手ですらドウデュースについていくのがやっとなほどに思える。進路を遮るものはない。ゴールまで残り525m。
前方ではアスクビクターモアが先頭に立っている。
「いけ! いけ! いけ!!!」
声が出る。叱咤の右鞭に内へ切れ込みながら、ジオグリフとダノンベルーガをパスする。ものすごいスピードで、あっという間に先頭に迫る。心臓の鼓動がどんどん早まる。
アスクビクターモアを捉えた次の瞬間、外から迫る影。イクイノックスだ。ドウデュースと対照的な、大きく伸びるストライド。ルメールのステッキが唸る。差がじわりと詰まる。それでもドウデュースは前へ、前へ。
イクイノックスとの差はさらに詰まる。視界が揺れる。武豊騎手はステッキを左に持ち替え、二度、三度。さらにステッキを持ち替えて二度、相棒を鼓舞する。
その数秒が、刹那にも、永遠にも、感じる。スローモーションになった世界で音が消え、ただ鼓動だけが響く。
──ゴール。
テレビには、歓声に手を上げて応えるドウデュースと武豊騎手が大きく映し出されている。
願い、焦がれてきた姿がそこに映し出されていた。

物心ついた時から、これまでに何千、何万とレースを見てきた。様々なレースの記憶は折り重なり、色々なものは少しずつ混濁している。
それでもこの瞬間は、生涯忘れない、と思った。
長かった疾禍を乗り越え、歓声が戻った競馬場。澄み切った青空の下、ひときわ輝くヒーロー。とてもとても、眩しかった。

鳴り響くユタカコール。その中心をドウデュースと武豊騎手が誇らしげに進む。
「ああ、競馬が好きて良かった」
そう思わずにはいられなかった。こんな景色が訪れると信じる限り、私は競馬を愛し続けられるのだ、と思った。
「ともに、見る夢」
彼のヒーロー列伝ポスターのキャッチコピーである。
彼がターフを去った今、彼の存在の大きさを改めて思う。
ドウデュースのキャリアは激しい浮き沈みの中にあった。何度も挫けそうになり、そのたびに立ち上がった。振り子のようなその競走生活は、私の心を揺さぶった。
様々に紡がれた縁。たぶん多くの競馬ファンも、同じ夢を見ていた。
イクイノックスが誇った完璧な強さも魅力的だけれど、私はドウデュースが持つ破天荒な強さが好きだ。彼の脆さは、彼の力強さを際立たせる。彼が持つ究極の武器は、歴代の名馬に負けない輝きで私を魅了した。

2028年、ドウデュースは父の名でターフに戻る。
もしかしたら、ドウデュースの仔が、武豊騎手の手綱で王道を駆けるかもしれない。
ライバルと父仔2代の戦いを繰り広げるかもしれない。
それは簡単なことではない。でも、ドウデュースならやってのける。そんな予感がある。
よく食べ、よく眠り、しなやかで、逞しい筋肉を纏った仔たちが、競馬場に帰って来る。
彼の面影を宿す遺伝子に、私は声の限り「おかえりなさい」を伝えたい。

ドウデュースと見る夢は、まだまだ終わらない。
競馬は果てしなく続いていく。
たくさんの願いと、祈りを乗せて。
そして私は、競馬に身を焦がし続ける。
いつかまた、思い描いた未来が訪れると信じて。
写真:s1nihs