春が見えて来る3月初週、牝馬限定重賞として最長距離の交流重賞・エンプレス杯が開催されます。
川崎競馬場の2100mで施行されるエンプレス杯は、1995年から2001年までは6月〜7月、2003年からは2月末〜3月に開催されてきました。

今回は、その長い歴史において見事に本レースを連覇した馬のなかから、4頭ピックアップしてご紹介したいとおもいます。

アムールブリエ 連覇が得意な"お嬢様"

父:Smart Strike
母:ヘヴンリーロマンス 母父:サンデーサイレンス
2015、16年連覇

父は名馬カーリンなどを輩出した名種牡馬、母は天覧競馬での波乱の立役者です。
兄にはアウォーディー、弟には何かと話題を振りまいたラニがいる血統。本馬を含めダートの長い距離で存在感を発揮している一族です。

新馬戦では芝を使われたものの、すぐさまダートに切り替えて関東オークスで3着。
その年の秋から鞍上が浜中騎手に変わると、初戦こそ2着に敗れるものの、その後3連勝でエンプレス杯を制覇。さらに次走のブリーダーズGCではサンビスタとの大激闘を制し、牝馬ダート界の主役候補に踊り出ます。

JBCレディスクラシックでは、彼女にとっては距離が短かったのか頂上には立てず。しかし2000m以上では川崎記念3着や名古屋グランプリ連覇、エンプレス杯連覇、ブリーダーズGC連覇などを果たしています。

鞍上が浜中騎手に変わったことと素質の開花がタイミング的に重なったこともあるのか、自分が好きな競馬場と距離をわかっているかのような戦績です。東京大賞典が昔の距離ならどうだったのだろうか──という想像も楽しくなる1頭です。

シルクフェニックス 歴代屈指の"エンプレス杯キラー"

父:アジュディケーティング
母:ジュエルドクラウン 母父:Seattle Slew
1997、98年連覇

父は名種牡馬・アジュディケーティングです。
芝ではアジュディケーター、ダートではアジュディミツオーを筆頭に、数々の重賞馬を輩出。
南関東のサンデーサイレンスの異名をとり、2001年から8年連続で地方競馬のリーディングサイアーを獲得するなど、日本のダート史に名を刻んだ大種牡馬です。

そして、母であるジュエルドクラウンも血統馬。父はアメリカ3冠馬Seattle Slewで、母父もアメリカ3冠馬のSecretariat、さらに祖母もNY3冠牝馬。まるでゲームかのような血統です。近親にもチーフズクラウンなどがいます。

本馬は現3歳シーズンに、500万下(プラス44キロで勝利)・900万下を連勝。さらに阿蘇Sで2着、まだこの当時秋開催だったユニコーンSでも2着と好走し、牝馬三冠を締め括る秋華賞に出走するも惨敗(勝ち馬はファビラスラフィン)します。

休養し1戦挟んだのち、夏開催だったエンプレス杯に出走すると、オールカマー2着などの実績をもつファッションショーら相手に勝利しました。

しかしそこから波に乗れず、スランプに陥ることになります。
結局、翌年までスランプが続き、勝ち星からは遠ざかりながらも、シルクフェニックスは連覇のかかるエンプレス杯へ出走。日経新春杯など芝ダート問わず重賞3勝をあげたメジロランバダらを相手取り、勝利をあげました。その後もスパーキングレディーカップやクイーン賞で2着に食い込むなどの活躍を見せながらも、勝ち星には届かないまま引退となりました。

デビューから引退するまでの勝ち鞍が、未勝利戦・条件戦以外、エンプレス杯の2勝のみという彼女。
まさに「エンプレス杯キラー」と呼べるでしょう。

ファストフレンド 快速の父から託されたバトン

父:アイネスフウジン
母:ザラストワード 母父:ノーザンテースト
1999年、2000年連覇

デビューは遅く、現3歳の5月。
芝でデビューするも振るわず、すぐさまダート路線へと向かいます。ダートでは2着→1着→2着→1着→1着と順調に勝ち進んだものの、そこからは苦戦。次の勝利まで年をまたぎ、半年を要することになりました。

1998年の暮れのフェアウルフSから才能が徐々に開花し始め成績も安定していき、1999年の4月のマリーンCで現5歳での遅咲きでの重賞初勝利。ここから一気に階段を駆け上がることになりました。
オアシスS・武蔵野Sを連続して3着と自力を見せると、次走のスパーキングレディを勝利、さらにその次走・エンプレス杯では5馬身差の圧勝劇を見せます。さらに秋初戦のクイーン賞も勝利と、一気にダート牝馬重賞路線の主役へと駆け上がりました。

さらに、それで終わらないのがファストフレンド。
そこからは、牡馬相手にもヒケを取らないところを見せつけるようになりました。
東京大賞典2着、川崎記念3着、フェブラリーS3着と一気にダート界の中心へと登り詰めます。東海Sではスマートボーイ・マイターンなど牡馬相手にも勝利。次走の帝王賞では、ウイングアロー・メイセイオペラなどを相手取り、G1級競走を制覇します。父とは違い遅咲きながらも、ダート界の主役の1頭となりました。

さらに、連覇のかかる次走のエンプレス杯では力が違うといわんばかりの完勝劇。
その後も冬のダート総決算東京大賞典を勝利します。

遅咲きながらも重賞9勝。エンプレス杯では特筆すべき強さを見せました。
父とは違う路線で王者に輝いたファストフレンドは、砂の女王というに相応しい馬ではないでしょうか。

ホクトベガ 馬場不問の女傑

父:ナグルスキー
母:タケノファルコン 母父:フィリップオブスペイン
1995、96年連覇

今回ご紹介した4頭、ラストは、やはりこの馬です。
ファストフレンドを女王と称したことと、同厩舎のヒシアマゾンや名牝馬達と劣らない強さであったことから、ここでは"女傑"と表現しました。

父ナグルスキーはサンエムキングやダートの名馬ナリタハヤブサなどを輩出している、ニジンスキー産駒。
母タケノファルコンは、ホクトベガ以外にはこれといった子供は見当たらない繁殖ですが、本馬を含めて産駒6頭が勝ち上がりという打率の高さをみせました。

ホクトベガは現3歳デビューし、ダートで猛時計をだして勝利。
その後2着を挟みカトレア賞を勝利し、オープンへ早々と到達します。ダートの素質の片鱗はみせていたものの、この時代はまだ今のようにダート路線は整備されていなかったこともあり、クラシック戦線へ乗り込みます。

そして次走・フラワーカップで芝初勝利を上げると、一躍クラシック路線の主役候補に。
しかしこの年代の牝馬戦線は層が厚く、ベガやユキノビジン、マックスジョリー、後のマイル女王ノースフライトなどがおり春のクラシック路線は辛酸を嘗めることに。秋に入ってもその牙城を崩すことは困難を極めましたが、諦めずにエリザベス女王杯へ駒を進めます。ここでは勝ちきれないという評価から9番人気でしたが、後方から3ハロン上がり最速の末脚を繰り出しノースフライト、ベガらを退けて勝利を手にしました。

『ベガはベガでも、ホクトベガ!』という名文句が生まれた瞬間です。

今ほど牝馬達が混合戦で通用する時代ではありませんでしたが、翌年の夏の札幌日経OP、札幌記念を連勝します。その後も障害への転向などが噂されるなか、勝ちきれないまでも掲示板には安定的に食い込み続けました。

そして安田記念5着のあと、ついに、このエンプレス杯に出走することになりました。
このレースで、ホクトベガは衝撃的な勝ち方をしてしまうのです。なんと、後続を4秒以上ちぎり捨てるといとんでもないパフォーマンスでした。

しかし芝に戻るとやはり勝ちきれず、年が明け1996年の初戦は川崎記念からの始動。
ライブリマウントやトーヨーリファール相手に勝ち、次走のフェブラリーSでも敵はなしという強さを見せつけます。さらに、帝王賞、連覇のかかったエンプレス杯など、交流重賞7連勝を達成。
その後エリザベス女王杯、有馬記念など芝のG1を挟みつつ、1997年の初戦も川崎記念からスタート。ここでも危なげなく勝利をおさめ、海外との対決へドバイへ向かました。

日本の競馬ファンがテレビ中継で見守る中、最終コーナーで悲劇が起こります。
ホクトベガが転倒し競走中止したのです。
そして予後不良という最悪の結果で、ホクベガの旅は終わりを迎えます。

異国の地で星になってしまいましたが、エンプレス杯から始まった「ダートレースの10連勝」は、まさに圧巻。
彼女の見せた圧巻のパフォーマンスは、砂の女傑として競馬ファンの記憶に留まりつでけるでしょう。

写真:s.taka

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