![[随想]寺山修司のエッセイ「片目のジャック」と、片目のサラブレッド「福ちゃん」](https://uma-furi.com/wp-content/uploads/2025/08/2025081801.jpg)
1.「人間の復権」の場としての競馬場
文筆家・寺山修司が執筆した競馬エッセイには、無宿人や病者・犯罪者など「社会から除け者にされた人々」がよく登場する。こうした人々と共に競馬を楽しむ様子が数多く描かれているのだ。
寺山は競馬場の持つ意義を次のように表現する。
競馬場では連帯の問題は馬と人間とのあいだにしか生まれない。だが、それだからこそ馬場は自立の根拠地になるともいえるのだ。画一化された時代にとって、競馬場はまさに反時代的だ。
──寺山修司「栄光何するものぞ」(『馬敗れて草原あり』角川書店、1979)より引用
競馬場において問題となるのは「どの馬を選ぶのか」ということだけ。選択においてその人間の属性や身分といった社会的要件は意味を持たず、馬との関係に集中することとなる。
寺山はこうも述べている。
実際、社会過程において破壊性が演ずるダイナミックな役割は、テレビのホームドラマ的な安定性と対立する、それはまさしく、道徳のゲリラであり、情念の遊撃であり、素朴な意味での人間の復権につながっていると思われる。(なぜならファンは、競馬場の群衆の中に「自分をかくしに」くるのではなくて、「自分を主張しに」来るのだからである。)
──寺山修司「栄光何するものぞ」より引用
競馬場という馬では誰もが「自分」を主張することが可能である。そこに寺山は「素朴な意味での人間の復権」を見出した。
寺山修司は、戦後復興から経済大国への道をひた走る日本にあって、社会から疎外されてしまった人々への眼差しを持っていた人物であった。
2.「片目のジャック」
そうした寺山の一連のエッセイの中に、「片目のジャック」という一篇がある。マレー沖海戦で負傷し片目を失った「将軍」と呼ばれる日雇い労働者・賀川が作った「片目のジャック」という競馬ファンの集いを取り上げたものだ。
“片目のジャック”の会は、この将軍を中心とした七、八人の集まりで、テキヤ、学生、ホステス、ミス・トルコなど、さまざまな人種によって構成されていた。
──寺山修司「片目のジャック」(『競馬への望郷』角川書店、1979年)より引用
彼らは、金曜の夜になると、競馬新聞を手に、どこからともなく集まってきて、レースの予想をはじめるのだが、特筆すべきことは全員、片目だということなのであった。
「俺たちは、片目の馬を応援するために集まったのさ」と、将軍は言った。
片目のファンが集まって、片目の馬の馬券を買う、と言えばいささか因果話めくが、それでも彼らは結構たのしくやっていたのである。
「片目のジャック」の夢は「片目の馬が天下を取る」こと。しかし桜花賞で1番人気になったものの出遅れたところを外から被されて惨敗したスタンダードや、左目を先天的に失明したため右回りでしか結果を残せなかったスズマサムネなど、応援した馬が「天下を取る」機会は訪れなかった。
そして昭和46(1971)年に中央競馬の規定が変わってしまう。「一眼または両眼の失明馬は、レースに出走できない」と決められたのだ。会のメンバーは「ユメも希望もなくなったよ」と失望する。
このエッセイに描かれているのは夢見る可能性を閉ざされ、「除け者」にされてしまった「片目のジャック」の悲しみである。「画一化された時代」の波は競馬界にも押し寄せていた。勿論競技の発展のためにはルールによって公正な運営を図る必要がある。しかし「画一化」の名のもとにスタートラインに立つ権利すら奪われた競走馬が生まれたこともまた事実である。こうした馬に夢や希望を託していた人々は、諦念を抱くことを強いられた。「除け者」にされた人々の存在を、寺山は世に問うたのである。
3.「価値の相対化」と現代競馬
21世紀になり、日本は「画一化」よりも「多様性」が叫ばれる時代になった。「多様性」は「絶対的な幻想が無い」ことを意味する。何に拠って立てば良いのか迷い続ける時代とも言い換えられるだろう。
実に50年前、寺山修司は非常に鋭い考察をしていた。「片目のジャック」の夢が失われた2年後、昭和48(1973)年の日本ダービーにおいて圧倒的1番人気のハイセイコーが敗れたことを受けて、寺山は次のように述べている。
このことは、ただの一頭の馬の敗北を意味するものではなかった。ハイセイコーという虚構の崩壊は、たちまちのうちに政治化され、ヒーローなき同時代の混迷に通じていった。価値の相対化だけが現実であり、〈絶対〉は夢の中にしか存在しなかった。
──寺山修司「人生は夢ではない」(『「優駿」観戦記で甦る 日本ダービー十番勝負』小学館、1998年)より引用
「無敗の最強馬・ハイセイコー」という「絶対的な幻想」は脆くも崩れ去った。この年の秋にオイルショックが起きて戦後日本の高度経済成長は終わりを迎える。寺山はその前に「価値の相対化」による「同時代の混迷」が生まれることを見抜いていたのである。それから半世紀。元号は2度変わり、日本社会の様相は寺山が予期した通りになっている。「頑張って働いて豊かになる」という絶対的な幻想は崩れ、それぞれが目標を探すことを強いられる。自由な時代と言えば聞こえは良いが、自分自身が拠って立つ「価値」を見つけなければならないという意味では、難解な時代という見方も可能だ。
こうした「絶対的な幻想が無い」時代は競馬界にも通じる。中央競馬・地方競馬共に売上は好調で、『ウマ娘』などのヒットもあって「競馬ブーム」と言われる昨今。しかし、ハイセイコーやオグリキャップ・ディープインパクトといった絶対的なスターホースが君臨しているわけではない。競馬ファンそれぞれが「推し馬」あるいは「推し騎手」を決め、個々人にあわせたスタイルで応援することが一般的となった。こうした在り方は正しく「価値の相対化」と言えるだろう。寺山が述べるように競馬場が「自分」を主張する場だとするならば、現代競馬は数々のブームを経て本質に立ち戻りつつあるのかも知れない。それぞれの「価値」に基づく「情念の遊撃」が渦巻く競馬場。その存在は「画一化」を求める時代にはそぐわなかっただろうが、「多様性」の時代においては社会の写し鏡となるのである。
4.「福ちゃん」が示す価値
「多様性」の時代を迎えた競馬界で、1頭のサラブレッドが注目を集めている。碧雲牧場で生産されたダートムーアの2024、名前は「福」という。障碍のある子供を「福子」と呼んだ伝承からその名がつけられたタイセイレジェンド産駒の牝馬は、「小眼球症」という病気で生まれつき左目が見えなかった。「片目のジャック」の活動終了を招いた1971年の規定はまだ変わっておらず、中央競馬で「福ちゃん」を走らせることは出来ない。
それでもオーナーの治郎丸敬之氏はYouTubeチャンネル「片目のサラブレッド福ちゃんのPERFECT DAYS」を開設し、成長の様子を発信。フォロワーの協力を得ながら南関東競馬と名古屋競馬では能力試験に合格すれば片目の馬でも登録が可能であると確認を取り、デビューを目指して準備している。
治郎丸オーナーは、
片目の馬は走るという噂が広まって、小眼球症の仔が産まれてきたら逆に牧場は喜ぶようになるといいね
──治郎丸敬之「[連載・片目のサラブレッド福ちゃんのPERFECT DAYS]重賞を勝つより新馬戦でデビューすることの方が嬉しい(シーズン1-56)」(『ウマフリ』、2025年7月22日、https://uma-furi.com/perfect-days-56/)より引用
と夢を語る。ホースマンたちの希望になるだけではない。「片目のジャック」たちのように、「福ちゃん」の挑戦に自分を重ねるファンも少なくないはずだ。何らかの障碍を抱えている人、生まれつきの特性によって生きづらさを感じている人、自由意志に反する生き方を強いられている人。「多様性」の時代においても「除け者」にされている人々が完全にいなくなることは無い。「福ちゃん」が目指す道にはこれからも困難が待ち受けるであろうが、そこに自らの「価値」を見出し、応援することも競馬の一つの楽しみ方だろう。「福ちゃん」の活躍は「素朴な意味での人間の復権」に大きく寄与するように思われる。

4.「世界」の見え方
ちょっとややこしいのだが、寺山修司は先ほど紹介したエッセイと全く同じ「片目のジャック」というタイトルのエッセイをもう一篇書いている。こちらの「片目のジャック」はトランプの絵柄のこと。ハートとスペードのジャックが片目であることから、寺山が競馬仲間の「萩さん」を思い出す…という建て付けである。
「萩さん」も「将軍」と同じく戦争で片目を失っていた。戦後職を転々とした「萩さん」はバーテンダーとなり、寺山と出会った。予想屋稼業もしていた「萩さん」は金曜日の夜になると寺山と競馬新聞を見ながら議論に花を咲かせた。彼は必ず「片目の馬」の馬券を買うことにしていたが、寺山にしてみれば「ばかげた投資」であった。例えば右目を失明している馬は左回りのコースは不得手となるが、そうした場合でも馬券を買って大抵損していたのである。
あいている目は現実しか見ないが、つぶれている目は幻までも見るんだ
──寺山修司「片目のジャック」(『馬敗れて草原あり』角川書店、1979年)より引用
が口癖の「萩さん」は、トラック事故で死んでしまった。寺山は問う。
片目のジャックは、かくしているもう一つの目で何を見ているのだろうか?それはまるで、人生上の重大な問題でもあるような気がした。
──寺山修司「片目のジャック」より引用
寺山は「萩さん」の馬券の買い方を「投資」としてはナンセンスと考えながら、彼が自分には見えていない何かを見ていることを感じ取っている。ここにあるのは「片目の者には健常者に見えない世界が見えている」という価値観だ。
治郎丸オーナーは次のように語っている。
福ちゃんは片目が見えないから、世界の半分しか見えてなくて可哀そうではなく、福ちゃんは片目で僕たちとは異なった見かたで世界を見ていて、また違った世界が見えているということです。
──治郎丸敬之「[連載・片目のサラブレッド福ちゃんのPERFECT DAYS]福ちゃんは世界をどう見ているのか(シーズン1-11)」(『ウマフリ』2024年6月18日、https://uma-furi.com/perfect-days-11/)より引用
「福ちゃん」が見ている「違った世界」が「萩さん」の言う「幻」なのかは分からない。少なくとも治郎丸オーナーが、
福ちゃんは片目が見えていないことを当たり前として生きていて、そのことで困ったり、ハンデに思ったり、他の馬と違うことにコンプレックスを抱いたりしている素振りすらありません。馬なんだから当たり前だろうと思われるかもしれませんが、福ちゃんはあるがままを受け入れて生きています。僕たちが勝手に心配して、障害があると思っているだけで、福ちゃんにとって今のところ障害はないのです。
──治郎丸敬之「[連載・片目のサラブレッド福ちゃんのPERFECT DAYS]小眼球症の馬たちにとっての障害(シーズン1-60)」(『ウマフリ』2025年8月19日、https://uma-furi.com/perfect-days-60/)より引用
と言うように、片目が「当たり前」として生きている「福ちゃん」に「ハンデがある」と断ずるのは一面的な見方だろう。
寺山が「人生上の重大な問題」と捉えた「片目のジャックは、かくしているもう一つの目で何を見ているのだろうか?」という問い。半世紀以上経った現在、「福ちゃん」を通してこの問いについて考える機会が与えられたことを有り難く思っている。
