僕たちが競走馬を買うには、いくつかの方法があります。
- セリ市またはトレーニングセールで購入する
- オークションサイトで購入する
- 庭先で購入する
- 他の馬主から譲り受ける
セレクトセールやセレクションセールに代表されるセリ市では、当歳馬から1歳馬のサラブレッドを購買することができます。また、JRAブリーズアップセールや千葉サラブレッドセールに代表されるトレーニングセールでは、すでに育成が進んでいる2歳馬を購買することが可能です。現在開催されている競走馬のセリ市とトレーニングセールを時期別に並べてみると以下のようになります。
- 4月 JRAブリーズアップセール
- 5月 千葉トレーニングセール HBAトレーニングセール
- 6月 九州市場
- 7月 セレクトセール、セレクションセール、八戸市場
- 8月 サマーセール
- 9月 セプテンバーセール
- 10月 オータムセール
4月を皮切りに2歳のトレーニングセールが始まり、7月からは当歳、1歳のセリが本格的にスタートし、10月のオータムセールまで開催されることになります。即戦力を求める馬主はトレーニングセールで実際の馬の走りを観て購入することもでき、また未知の魅力と可能性を求めて青田買いをしたい馬主は当歳、1歳のセリで購買するということです。毎年7月にノーザンホースパークで行われるセレクトセールは、1億円を優に超えるような高額で取引される馬も数多く出るように、あらゆる意味において、日本最大規模のセリ市ですね。
僕は過去に馬を買いもしないのに(馬主登録証すら持っていないのに)、何度かトレーニングセールやセリ市に足を運んだことがあります。初めてのセリは、今から7年前の2015年10月、北海道市場(静内)にて開催されるオータムセールでした。オータムセールは年内最後のセリ市として位置づけられています。過去に取引された馬では、テイエムオペラオーやキストゥヘブン、最近ですとバビットらが活躍馬として挙げられます。
朝6時台の飛行機に飛び乗り、9時前には新千歳空港に到着しました。碧雲牧場の創業者である長谷川敏さんの車に乗せていただき、静内へと向かいました。実は長谷川敏さんとは初対面であり、噂で聞いていたとおり、精悍な顔立ちとインテリジェントな雰囲気をまとっていました。長谷川敏さんは、学生時代に映画を撮るために牧場に泊まり込んで働いたことがきっかけで、生産の仕事をすることになったそう。柏台牧場時代にはあのスーパークリークを生産し、碧雲牧場から誕生したグラスポジションは重賞こそ勝てなかったが僕の記憶には深く残っています。ちなみに、彼がつくった「青春のたてがみ」という映画は、吉永小百合さんがナレーションを手掛け、今観ても秀逸な作品です。
オータムセールは2日目。初日は売れ行きが好調だったそうで、碧雲牧場から上場させた3頭のサラブレッドたちも完売したそう。この年あたりから、アベノミクスによる金融緩和の影響を受け、サラブレッド市場に活気が戻ってきました。手塩にかけて育ててきた馬たちであり、もちろん経済的な意味も含めて、生産者は自らの生産馬に値段が付くことほど嬉しいことはないはず。買い手がつかなかったときの悲しさと、売れたときの喜びは表裏一体の感情として密接に結びついています。長谷川さんからは抑えきれない喜びがポロポロと溢れ出ているように見え、生産者冥利に尽きる瞬間ということなのでしょう。僕はすぐにこの人が好きになりました。そして、長谷川敏さんの長男であり、碧雲牧場の後を継ぐ長谷川慈明さんの顔が早く見たくなりました。
思っていたよりもこの時期の北海道は暖かく、セーターとダウンを着こんで臨んだ僕をあざ笑うように、力強い日差しが車のフロントガラスを通して射し込んできます。この数日、ほとんど寝ていなかった僕は、長谷川さんの運転の隣でついウトウトしてしまいました。広大な海を右手に見ながら、直線だけで構成されたような道を飛ばして行くと、2時間ほどでオータムセールが行われている静内の会場に到着しました。
いよいよこれからセリが始まろうとしていました。最後の最後まで馬を見ている馬主や調教師もいて、馬を買おうという気持ちと売ろうという気持ちがぶつかり合って、静かな緊張感の中にも競馬関係者たちの熱気がひしひしと伝わってきます。僕はオータムセールが初めてなので分かりませんが、何度も来ている方の話を聞くと、この年はこれまでにないほどの活気だそう。そう言われてみれば、行き交う人々の間に笑顔が絶えません。向こうから馬を引いてやってきた長谷川慈明さんも笑顔です。彼とは1年ぶりの再会となります。今日はいつもお世話になっている他牧場の馬の出場を手伝いに来ているそうです。
碧雲牧場から上場していた馬について言及すると、「売れました。良かったです」と長谷川慈明さんは破顔一笑。今回のオータムセールに臨むにあたって、この馬だけではなく他の上場馬についても、コンサイナーに依頼し、馬の歩き方から僅かな動作に至るまで調教してもらい、準備をしてきたといいます。長谷川慈明さんいわく「全然違う」。馬がしっかり歩けるようになるし、正しく振る舞えるようになるそうです。
だからといって、実戦で走るかどうかはまた別物ですが、とにかく馬を買いたいと思ってもらえるような動きができるように躾をするのがコンサイナーの仕事です。そこには特別な技術やノウハウが存在します。驚くべきは、〇〇〇〇のバイヤーの△△さんが見たら買いたくなるような動きができるようにさえ調教できるといいます。セリ市は売る側と買う側の公平な場における真剣勝負でもあるのです。
ひと昔前のセリ市では、そんなことをしてまで準備をするという考えすらなく、牧場で走っている馬をそのまま連れて来ていたそうです。毛は伸び放題でも、馬体が汚れていようが、馬が多少暴れてもお構いなし。それでも馬が売れた時代が確かにありました。大げさに言うと、馬であれば売れた時代があったのです。
たとえば、脚(球節から繋の部分)にソックスを履いているように白い毛が生えている馬がいます。左後一白(さこういっぱく)といって、左後ろ肢だけ白い馬は名馬の証なんて言われたこともありました。しかし、この白い部分が汚れやすい。糞や土を踏んだ蹄が擦れて、汚れてしまうというという具合に。どれだけ馬体の手入れをしていても、見る人が見たときに、汚れていると見た目が悪く、印象が下がってしまう。
そんなとき、すぐに汚れを落とすスプレーのようなものがあります。海外からの輸入品であり、高価なものなのでこういうセリのときぐらいしか使わないそうですが、それでもそこまでするのです。「そこまでするの?」ではなく、「そうするのが当然でしょ」と関係者の誰もが認識している時代です。これまでの不況が競馬関係者を鍛えたのでしょうね。
(次回へ続く)