
■1994年、菊花賞。あっさりと、三冠達成。
1990年代前半の名馬たち──オグリキャップ、スーパークリーク、メジロマックイーン、トウカイテイオーなどの名前は、知っていた。しかし、彼らの物語については、無知だった。
彼らのレースを、競馬場で実際に見たことはなく、テレビ中継で見たこともなかった。
ではなぜ彼らを知っていたのかと言うと、彼らの馬名をもじったサラブレッドたち──アグリキャップやスーパークリック、メジロマッコイーンやコウカイテイオーなど──が登場するテレビゲームに興じていたからである。
ゲームに興じながら、好奇心が湧いてきて、各馬について調べた。そして、彼らの本当の名前と共に、彼らがかつての競馬ファンを魅了した「すごい馬」だという事も学んだ。
テレビゲームで、自分の馬が彼ら「すごい馬」に突き放されるのを、おそらく数百回見た。しかし、「本物の競馬」には、まだ触れていなかった。

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そんな私にとって初めての競馬観戦が、1994年のナリタブライアンが勝った菊花賞だった。
──と言っても、京都競馬場ではなく、後楽園のWINSだったが。
競馬好きの友人に誘われ、WINSに付き合ったのだった。友人がこんこんと語るナリタブライアンの凄まじい(らしい)強さに耳を傾けていた。確かに、競馬新聞には「◎」印がずらっと並んでいた。
当時のWINSは今よりもずっと混雑していた。便利になった現在と違い、ほとんどのファンは競馬場・WINSに足を運ぶしかなかった時代だ。
私たちは人混みのうしろに立ち、遠目でモニターを見つめていた。
正直、ゲートが開いてからの道中のレース展開や、その時の感情を細かく思い出すことはできないのだが、小さいモニターの中に目撃した、ナリタブライアンの圧巻の走りだけは、はっきりと覚えている。
──最後の直線、明らかに他の馬とは異なる脚勢。
小さいモニターの中、黒い影がぐんぐんと後続の馬たちを引き離し、どこまで伸びるんだ、という勢いでゴールラインを割った。
ナリタブライアンは、あっさりと「三冠馬」となった。
私はブライアンのあまりの強さになかば呆れてしまった。
友人は得意げに、「やっぱりソブリンダブリンか〜」と、2着・3着の馬名(ヤシマソブリンとエアダブリン)で韻を踏んだ。「やっぱりブライアンか〜」という感想ではなかったのは、つまり、「ナリタブライアンが勝つに決まっていた」からであろう。
それは友人も分かっていたし、競馬ファンはみな信じて疑わなかった。
単勝オッズは1.7倍だった。それでも、今思うと、随分ついたもんだと感じる。
■競馬と私。つかず、離れず。
菊花賞をぶっち切りで勝利し三冠馬となったナリタブライアンは、年末には有馬記念のタイトルも手にし、文句なしで1994年の年度代表馬に輝いた。
しかし、私は実は、その有馬記念をリアルタイムで見ていない。
関東在住だったので、中山競馬場は行こうと思えば行けたし、せめてWINSや、テレビ中継を見ても良さそうなものだが、何しろ、まだ、まったく競馬ファンではなかったのである。
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競馬とどのように関係性を紡いでいくのかは、競馬ファンそれぞれだと思う。
小説家の古井由吉氏が、競馬エッセイ『折々の馬たち』の中で、競馬に手を染めたのがいつ頃だったかを回想してこう書いている。
東京競馬場に私が初めて足を運んだのはずいぶん遅くて、昭和四十七年の秋の天皇賞の時である。競馬そのものに手を染めたのはそれより五年前、夏の福島だった。カブトシローと、セルバンテスという馬を買ったところが、直線でカブトシローが老セルバンテスをかわせそうでかわせなくて、連勝単式だったので、初の憂き目を見た。そのカブトシローが十一月の或る日、天皇賞とやらを取った旨、朝の通勤電車の中で人のスポーツ新聞に見て、あの莫迦が、と目を剥いた。またひと月もして、やはり朝の電車の中で人の新聞に、有馬記念とやらまでさらったことを知らされ、かさねがさね裏切られた気がした。これで競馬には乗りぞこねたと思った。
──『折々の馬たち』より引用
カブトシローは、“新聞の読める馬”とも称された。人気すると凡走、人気が落ちると好走、というパターンで競馬ファンを悩ませた馬で、古井氏もカブトシローに翻弄されたということだろう。
このあと、古井氏は競馬とつかず離れずのような関係性を持つようになり、大レースなどをテレビで見るようになったという。しかし、なかなか競馬場には足が向かなかった、と書いている。
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私の場合、ナリタブライアンの菊花賞のあと、「本物の競馬」との距離は縮まらず、しかし一方で、テレビゲームの方にはのめり込んでいった。
1995年1月に、スーパーファミコンの『ダービースタリオンⅢ』が発売され、爆発的なヒットとなった。Ⅱからこのシリーズをプレイしていた私も当然買った。そして、バーチャルの競馬にどっぷり浸かり、配合・生産・調教、そしてレース出走を繰り返していくのだが、同時に、「本物の競馬」への興味も少しずつ強くなっていた。
まだ競馬場には足が向かないながらも、競馬雑誌を時々買うようにはなっていた。
■1995年、阪神大賞典。「制圧」を見る者に予感させる圧勝。
たしか、「春のクラシックを占う」というような特集が組まれた競馬雑誌を買ったのだと思う。
1995年の春のクラシックというと、サンデーサイレンスの初年度産駒が旋風を巻き起こし、二年連続で三冠馬誕生かと騒がれたフジキセキこそ故障のため引退に追い込まれたものの、他のサンデー産駒のジェニュインやタヤスツヨシ、ダンスパートナーが実際にクラシックのタイトルを手に入れた。
一方で、古馬戦線の主役であるナリタブライアンは、この年の緒戦となった阪神大賞典に出走していた。
そして、購入した雑誌の重賞回顧のページに、確か白黒のページだったように記憶しているのだが、阪神大賞典のレース結果が掲載されていた。
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2着以下に大差をつけたゴール前の写真。あまりに大差なので、写真は引いた構図で、ナリタブライアンは小さな黒い影のように写っていた。
その写真を見て、菊花賞の記憶がフラッシュバックした。
着順表を見ると、2着のハギノリアルキングにつけた差は、1.1秒、7馬身差。
この差は菊花賞とまったく同じで、どうりで、記憶がフラッシュバックするはずだった。
単勝は、1.0倍の元返し。これも、ナリタブライアンの絶対的な強さを物語っていた。
当時、まだ「本物の競馬」よりも、テレビゲームのレースを見た回数の方がはるかに多かった私にとって、ナリタブライアンの強さは、ゲームの中のアグリキャップや、メジロマッコイーンを彷彿とさせるものだった。
この通り、本物とゲームをごっちゃにした感想を持つような競馬ファンとして半端者な私だったが、ナリタブライアンの「本物の強さ」をこの目で見られるのなら、いつか競馬場に行ってみようかな、という漠然とした思いが芽生えてきた。
ナリタブライアンの戦績は、この阪神大賞典を勝ち、15戦11勝(GⅠは5勝/朝日杯、皐月賞、ダービー、菊花賞、有馬記念)。
この阪神大賞典は、ナリタブライアンの「制圧」の第二章の始まりに過ぎないだろう。この先、GⅠタイトルをいくつ重ねるのだろう?

私は、ゴール前の写真、「1.1秒・7馬身」、「1.0倍」などの記録に見入りながら、ナリタブライアンの強さに想像をめぐらした。この強さを肉眼で見る感覚とは、どういうものなのだろう。当時は、家ですぐにレース動画を再生できるようなツールや環境はなかったので、断片的な情報から想像の羽を伸ばすほかはなかった。
■故障により「制圧」は幻に。
それ以降のナリタブライアンの物語は、ここでは多くは語らないことにしよう。
右股関節炎の発症により、休養に入ったナリタブライアンは、別馬のようになってしまった。
秋に復帰を果たしたが、天皇賞(秋)12着、ジャパンカップ6着、有馬記念4着と、完敗続き。
ナリタブライアンの1995年は、「制圧」の第二章とはならなかった──。
年が明け、1996年の阪神大賞典。マヤノトップガンとの一騎打ちを制し、故障後で最初にして最後となった勝利は、ブライアンのせめてもの意地だっただろう。

競馬と私の距離は、この時期、縮まりそうで、あまり縮まらなかった。
ナリタブライアンが故障から復帰した後の天皇賞(秋)、ジャパンカップ、有馬記念と、競馬場に行けばナリタブライアンを現地で見られたのに、私は結局行かなかった。
今思うと、勝てるかどうかわからないナリタブライアンを、無意識のうちに「見たくない」と思っていたのかもしれない。30年以上も前の心理を掘り下げるのは無茶かもしれないが、強い者は強くあって欲しい、という誰しもが持つミーハー気質が働いていたのかな、と思う。
それにしても、1994年菊花賞、WINSのモニター越しに「圧巻」の走りを見せてくれたナリタブライアン、1995年阪神大賞典、雑誌の白黒ページを見ただけで、「制圧」の予感に満ちた躍動を感じさせてくれたナリタブライアンは、私が競馬に手を染めるか曖昧だった時期に見た「一番すごい馬」だった。それはもう、間違いない。
写真:かず
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