[AJCC]ユーバーレーベン、ダンスパートナー、ホクトベガ、メジロモントレー…。伝統ある一戦で牡馬を相手に上位に食い込んだ名牝達 

競馬界の1年の流れとして、2歳時の6月の新馬戦からスタートしてそこから1年かけて5月末の日本ダービーがゴール…といった見方があるようですが、私を含めた多くの競馬ファンにとっては、1年のスタートはやはり1月1日の元日、もしくは「金杯」の日になるでしょう。

中央競馬のレースの開始日は大体の年で三が日を除いた1月の初めの週の土日のどちらか、そして新年初重賞レースと言えばいわゆる東西の「金杯」と呼ばれる一戦となります。

ですが、両金杯のうち、中距離戦の中山金杯はハンデ戦。そのあとに行われる京成杯は3歳限定戦、愛知杯(2025年より小倉牝馬Sに改称)、日経新春杯はハンデ戦…といったように、AJCCが年明け最初の中距離・別定戦重賞ということになります。 

そもそもこのAJCCは1960年に創設されたレースですが、第1回目は新年を飾る競走として1月5日に行われ、条件も中山芝2000mのハンデ戦として開催されました。 その後1961年に、当時1月中旬に行われていた金杯と施行時期を入れ替え、別定戦の芝2600mの条件に変更。そこから幾度か施行場と距離が変更されながら1984年以降に中山芝2200mに定着しました(1984年は降雪のためダート1800mで施行) 。

非常に長い歴史を持つAJCCですが、年明け初の別定戦の中距離重賞(グレード制開始後はG2)でコースも中山ということで、近年ではG1まであと一歩という馬の出走が多い印象はあります。しかし過去のレースを見るとG1馬も多く出走しており、有力牡馬によるタフなレースが多い印象があります。 

このようなレースなのでそもそも牝馬が出走することはあまりありませんが、そんな中で並みいる牡馬達に交じり馬券内に入った牝馬は2024年現在、7頭のみ。この7頭はどの馬も後に名牝と呼ばれるくらいの活躍をした馬ばかりですが、今回はその中の4頭について振り返ってみようと思います。 

ユーバーレーベン

血統背景

ユーバーレーベンの父は、芦毛のアイドルホース・ゴールドシップ。
ゴールドシップといえば、向こう正面から早めにまくっていくロングスパートを武器に、3歳時には皐月賞・菊花賞の二冠と有馬記念を制覇した活躍馬です。最終的にはG1を計6勝しただけでなく、レース外でも数々の面白エピソードを作ってきたことで、種牡馬となった今もなお、競馬ファンを魅了し続けています。

母は、デビューから三戦で引退して繁殖入りしたマイネテレジア。
マイネテレジアの弟には、暮れに行われる障害レースのチャンピオン決定戦である中山大障害を勝ったマイネルグロンがいます。マイネテレジアは母として、ユーバーレーベンの他にも、6歳時に新潟記念を制してAJCCでも2着に入るなど9歳まで現役を続けた名馬マイネルファンロンを送り出しています。

父は種牡馬としての繋養先、母の生産元ということで両親や近親ともどもビッグレッドファームに縁がある血統と言えます。

デビューから初G1制覇まで

そんなユーバーレーベンは不良馬場の東京・芝1800m戦でデビュー勝ちを収めると、そこから札幌2歳Sで2着、G1阪神JFでも3着に入るなど、2歳時からその素質を示していました。 

明けて3歳になってからもフラワーC・フローラSと立て続けに3着となり、良い流れで迎えた、3歳牝馬の晴れ舞台・オークス。その年のオークスには史上初の白毛のG1馬ソダシ、三冠牝馬アパパネの娘であるアカイトリノムスメと、有力馬が揃っていました。ユーバーレーベンはその2頭に次ぐ単勝3番人気。人気は譲りながらも、父譲りの長く良い脚を使い、見事に勝利したのでした。 

これは父ゴールドシップにとっても、うれしいG1初勝利。
ゴールドシップの代表産駒の1頭と呼ばれるにふさわしい結果を残したレースとなりました。 

惨敗からの復活の狼煙となったAJCC

ただ、オークス後の休み明けから直行で迎えた秋華賞では13着と惨敗し、そこからしばらく、掲示板内はあれど馬券内に入ることはできませんでした。 

そして時は流れ、5歳になった最初のレースが2023年1月22日の第64回AJCCでした。 

1つ年下で3歳時に同コースのセントライト記念を勝ち単勝1倍台に支持されたガイアフォース、未勝利戦から4連勝でOP入りしたエピファニーに次ぐ3番人気で、ユーバーレーベンはこの一戦を迎えます。 

レースは全馬ほぼそろったスタートを決め、ユーバーレーベン自身は向こう正面辺りまでは後方寄りの位置で進めました。 向こう正面を過ぎ、前半1000mのタイムが61秒3と若干スローペースな展開となっていたところで、それを感じ取ったのか鞍上のM・デムーロ騎手が仕掛けていきます。 

残り800mを切った辺りから父を彷彿とさせるような捲りをみせて徐々に位置を上げていったユーバーレーベン。最終コーナーでは前から4番手の位置まで押し上げ、坂に入ってからもその脚色は衰えずにのびていました。最後は内目の前目でうまくレースをしたノースブリッジが1着に入り、後方から鋭い差し脚をのばしてきたエヒトに交わされての3着という結果でした。 

結果こそ3着でしたが、3歳の秋華賞から遠ざかっていた馬券内に1年半ぶりに入ることができたことで、古馬の牡馬相手ともまだ戦えるということを示したレースとなりました。 

その後のユーバーレーベン

──残念なことに、ユーバーレーベンはこのレース終了後に左前屈腱炎が判明。そのまま繁殖入りが決まり、結果的にこのAJCCが最後のレースとなりました。 

繁殖入り後は初年度の2023年度にはベンバトルを受胎しましたが残念なことに流産となり、翌年2024年はイクイノックスが種付けされました。 これからも父親譲りのパワフルな末脚をその産駒に受け継いで行ってほしいと思います。 

ダンスパートナー 

血統背景

競馬界には様々な牝系がありますが、その中でも数多くの重賞馬を輩出している名牝の血筋と呼ばれる一族がいくつかあり、その中の一つが名牝ダンシングキイから連なる「ダンス一族」でしょう。その最初期の活躍馬が、このダンスパートナーです。 

この馬の父は、近代日本競馬を作り上げた血と言っても過言ではない大種牡馬、サンデーサイレンス。
母は上述の通り、ダンス一族の祖である米国生産馬ダンシングキイ。ダンシングキイは競走馬としては出走経験の無いまま繁殖入りし、1990年に社台ファームによって購入されました。 

大種牡馬サンデーサイレンスの初年度産駒であるダンスパートナーは、このダンシングキイから生まれたダンス一族で初めてG1を取った馬でもあります。ダンスパートナーの兄には青葉賞からの日本ダービー2着、さらに菊花賞でも3着に入りその後ステイヤーズS・ダイヤモンドSの長距離重賞を連勝したエアダブリンがいます。さらに、弟には、わずか8戦での引退となりましたが、その生涯で1度も馬券内を外すことなく弥生賞・京都新聞杯・菊花賞を勝ったダンスインザダーク、妹には無敗で桜花賞を制し古馬となってからもヴィクトリアマイル勝利など数多くのG1や重賞で活躍をしたダンスインザムードがいます。 

「ダンス一族」の血は受け継がれており、今もなお、この一族の血を引いた多くの馬たちが活躍しています。 

デビューからクラシック戦線での戦い

そんなダンスパートナーの新馬戦は、小倉芝1200m戦。そのデビュー戦を勝利し、さらにエルフィンステークス・チューリップ賞・桜花賞と3連続で2着に入ってから、デビュー5戦目で迎えたのがオークスでした。 

ここでは、笠松でデビューしデビューから11連勝をあげたライデンリーダー、フラワーC勝ちからの前哨戦スイートピーSを勝ったイブキニュースターに次ぐ3番人気。ただ、レースではペースも早かったこともあってか先行していたライデンリーダーやイブキニュースターといった人気馬が沈み、道中後方で足を溜めていた差し馬達が上位を占める結果に。その中でも大外から一気に突き抜けたダンスパートナーが2着馬に1 3/4馬身差をつけて勝利しました。

この後は3か月半の休養を挟み、休養明けからはフランス遠征を挟みつつ、秋初戦は牡馬に交じって菊花賞に参戦。ここでは、後に有馬記念・宝塚記念・天皇賞春を勝ったマヤノトップガン、その年のダービー馬タヤスツヨシなどの一流牡馬を押しのけて1番人気に支持されました。 結果としては5着でしたが、同世代の一線級の牡馬に交じっても戦える力があることを示しました。 

勢いそのままに牡馬と肉薄したAJCC

そして、続く阪神牝馬特別(現在の阪神牝馬S)でも2着に入り、年明け初戦が1996年の第37回AJCCでした。 

この年のAJCCは距離は2200mだったもののコースは中山ではなく、東京での開催。 

メンバー構成は全部で9頭立てと少頭数でしたが、実力派が集結。1番人気には5歳で重賞初挑戦をしそのまま勝利、前走も重賞を勝って参戦してきたカネツクロス。2番人気は前々走できさらぎ賞を単勝オッズ1.0倍の圧倒的な支持を受けながら快勝したスキーキャプテン、3番人気はデビュー当初から数多くのレースで馬券内に入り安定した成績を残していたロイスアンドロイスで、ダンスパートナーはそれらの馬に次ぐ4番人気でした。 

レースはスキーキャプテンが少し出遅れたものの、各々がそれなりのスタートを決めて、まずは6番人気の8枠8番のウインドフィールズがハナを取っていきます。 ただ、第一コーナーを回ったところで2番手にいたカネツクロスがウインドフィールズを交わして先頭に立ち、そこから2馬身ほど前に立ちレースを引っ張っていく展開になりました。 

ここから向こう正面を入る辺りで3番手と4番手との間隔が6馬身ほど開いており、このときダンスパートナーは後方から4番手の位置。3コーナー付近で徐々に隊列が詰まっていき、最終コーナーではほぼ一団となって直線に入りました。 

ダンスパートナーは最内に進路を取って直線に入り、この時点で先頭は変わらずカネツクロス。その外のすぐ後ろにウインドフィールズ、内にダンスパートナーという形で直線の攻防になりましたが、先頭のカネツクロスは勢いが衰えることなくさらに後続を突き放していきました。ダンスパートナーもよく走り切りましたが、カネツクロスと2馬身差の2着という結果でした。 

結果的には少頭数の中の2着でしたが、年上の牡馬達を相手にここまで食い下がってレースをすることができ、同世代以外の牡馬相手でも十分戦えるということを示したレースとなりました。 

その後のダンスパートナー

その後は主に中距離の重賞戦線を渡り歩いたダンスパートナー。京阪杯(当時は京都2200m)を勝ち、宝塚記念では二年連続で3着、エリザベス女王杯も2年連続で連対し(96年が1着、97年が2着)、97年の有馬記念で現役を引退し繁殖入りを果たしました 

後に名牝の血族と呼ばれることとなったダンス一族の長女であったダンスパートナーは2016年にこの世を去りましたが、その血は今も確実に受け継がれており、これからもその血が末永く受け継がれていくことでしょう。

ホクトベガ

血統背景

この馬は父はカナダの生産馬のナグルスキーという馬で、現役時代は主にダートのマイルから2000m付近を走っていました。その父は、競馬ファンなら一度は聞いたことがあるに違いない名種牡馬ニジンスキーです。

母はタケノファルコンという、こちらはダートの短距離を走っていた牝馬。わずか6戦というキャリアで引退し繁殖入りしていました。

そんなダート色が強めの血を受け継いだのが、このホクトベガという馬でした。

下剋上、そして始まりとなったエリザベス女王杯

この馬のイメージとしてダートの印象が強いファンは多いかと思いますが、4歳時(今の3歳)にはフラワーCを勝っているほか、クイーンSで2着、ローズステークスでも3着に入っている通り、芝でもかなりの実績をあげていました。

そして、この馬の能力の高さを大きく示したレースが、4歳時のエリザベス女王杯です。

このレースではローズステークス勝ち馬のスターバレリーナや、桜花賞・オークスで2着に入ったユキノビジン、のちに安田記念・マイルCSを勝利するマイラーのノースフライト、そして同年の桜花賞・オークスを制した牝馬二冠馬ベガが出走。ホクトベガは9番人気と、あくまで伏兵評価でした。

ですが、そんな中でホクトベガは1枠1番という枠の利を生かし、道中は内目で足を溜める競馬に徹します。直線に入ると進路をさらに内にとり、最内から先に抜け出た同枠の馬と競り合いながら進んでいくと、最後は外から追い込んできたノースフライトと並びかけながらもさらに加速。最終的には1.5馬身差をつけて勝利しました。

この時の勝ちタイムが当時のレコードタイム。牝馬二冠馬のベガは2着と2馬身差の3着に敗れました。この時「ベガはベガでもホクトベガ!(中略)三冠ならずベガ!」という実況は、今もなお名実況として知られています。

衰え知らずを体現したAJCC

以降、一戦ダート戦を挟みつつ、しばらくは芝の2000m前後のレースを使っていたホクトベガ。明け6歳となった初戦が、1995年の第35回AJCCでした。

この時も、出走頭数は10頭と少頭数で行われたAJCC。1番人気は4歳馬で前走で重賞三勝目を決め勢いがついた状態で参戦してきたスターマン、2番人気はのちに天皇賞秋を勝ったサクラチトセオー、前年3着馬ウインドフィールズや稀代の逃げ馬ツインターボなど、少ないながらも骨のあるメンバーが揃い、ホクトベガは6番人気でした。

レースは「やはり」といったところで、内枠からツインターボが積極的にハナを取りにいき、後続を引き離す逃げを打ちます。後続達はそれを見つつ、各々のレースを進めることになりました。

第一コーナーを回る辺りでは先頭のツインターボと二番手のウインドフィールズとの差が差がすでに6馬身ほどあり、その後ろも5馬身ほど差があるという、かなり縦長の展開に。そこからツインターボがさらに後続との差を広げ、3コーナーを過ぎた辺りでは2番手と既に20馬身ほどの差がありました。しかし最終コーナー付近では後続との差がほとんどなくなり、直線に入るところでは最後方に沈んでしまいます。

直線に入った時点では2番手にいたウインドフィールズが先頭に立ちましたが、残り200m付近で道中3番手にいたステージチャンプが外から並びかけていき、内からはホクトベガも脚をのばしてそれを追う形となります。100mを切った辺りでさらに大外からサクラチトセオーがものすごい脚で追い込みをかけ、ウインドフィールズとステージチャンプ、ホクトベガをまとめて交わして1着でゴール。ホクトベガはサクラチトセオーには抜かれたものの、ステージチャンプを交わして2着でゴールしました。

結果的には2着でしたが、勝ち馬とはクビ差だったのでまだまだ牡馬相手でも十分戦えるということを示したレースとなりました。

その後のホクトベガ

その後は次戦の中山牝馬でも2着に入り、ダートも挟みながらまた2000m付近の重賞を使いつつ年を重ねていきったホクトベガ。7歳になった年明け初戦に地方競馬の川崎記念を勝つと、そこから「砂の女王」と呼ぶに相応しい、ダート上位クラスのレースを6連勝する快進撃を見せることとなります。

そして8歳になった初戦の川崎記念を勝ち連覇を達成すると、その次戦に世界へ羽ばたきますが、その後は日本の地を踏むことができないままその生涯を終えることとなります。8歳まで現役を続けたホクトベガは、芝ダートともに数多くのレースに出走し人々の記憶に残る走りを見せてくれました。

そんな彼女の記憶はきっとこれから先も、輝く1等星のように色あせることなく語り継がれていくことでしょう。

メジロモントレー

血統背景

この馬の父は、フランス生産馬のモガミ。モガミの主な産駒には、1982年のダービー馬シリウスシンボリや、史上初の牝馬三冠を達成したメジロラモーヌなどがいます。

また、メジロモントレーの母はメジロクインシーという馬で、この馬は未出走のまま繁殖入りをしましたが、その母メジロボサツは朝日杯3歳Sなどを勝っている名牝。また伯父には重賞を2勝したメジロゲッコウという馬もいる、メジロ牧場の誇る血統と言えます。

デビューから4歳まで

このような血統背景があるメジロモントレーは3歳時(現在の2歳相当)に新馬戦を勝ちましたが、4歳時の春はフラワーCで3着、オークスでも5着と、栄冠まではあと一歩という成績でした。

そこから夏に入り自己条件で1勝した後、G3クイーンSで初重賞勝利を果たし、同世代の牝馬の中では上位の力があることを示します。しかし次戦のエリザベス女王杯では7着と敗れ、その次のOP戦でも5着と敗れて4歳シーズンを終えました。

人馬一体でつかみ取ったAJCC

そこから年が明け5歳になると、一年を通じて1600mから2500mの重賞に参戦し5戦2勝という戦績を残します。そしてさらに6歳になって初めてのレースが、1991年の第32回AJCCでした。

この時の出走頭数も、10頭の少頭数。1番人気には500万下から3連勝でOP入りしアルゼンチン共和国杯でも3着に入って勢いがあったパソドラード、2番人気には一昨年のこのレースの覇者で昨年も2着に入っている9歳の実力馬ランニングフリー、3番人気は前走で重賞2勝目をあげた6歳馬のカリブソングとなっていて、メジロモントレーはそれらに次ぐ4番人気でした。

レースはスタートで他馬より若干出遅れる形となったメジロモントレー。
向こう正面辺りまでは最後方でレースを進めました。
2枠2番のハワイアンコーラルがハナを取ってレースを引っ張る展開となりましたが、後続とはあまり差がなく、ペースも1000m通過が62秒くらいのスローペースでした。

その流れを見てか、メジロモントレーはそこから残り800mを通過した辺りで徐々に位置を上げていき、後方から3番手の位置で直線に入ります。直線に入ってからは内目に進路を取ったためしばらくは前の馬についていき、進路があくタイミングをうかがっていましたが、残り200mを過ぎた辺りで前があきます。そこからは上がり最速の脚を繰り出して一気に前の馬達を飲み込み、最終的には早めに先行して抜け出していたカリブソングに1 1/4馬身差をつけて見事勝利しました。

結果的には初めから先行していたパソドラードは4着に沈み、同じく追い込んできたランニングフリーが3着という結果でした。ペースが遅いと見るや早めに前に進出していき、直線でも内に進路をとり馬群の間を割ってしっかりと伸びる競馬は、馬の力もですが、鞍上の横山典弘騎手の好判断・好騎乗も大いに後押ししたことでしょう。

前走のG2アルゼンチン共和国杯で9番人気ながら勝利したことに加えて今回も並みいる牡馬を相手に勝利を収めたことで、改めてこの馬の強さを示すレースとなりました。また、最初に紹介しましたがこのAJCCというレースでは今までで7頭の牝馬が馬券内に入っていますがその中でも1着になった馬はこのメジロモントレーただ1頭だけなので、それも含めてこの馬の強さを再確認できるレースだったと言えるとも思います。

その後のメジロモントレー

そしてこのレース後は8か月半の休養に入り、休養明け一戦目は毎日王冠に出走しましたが、ここでは12着と敗れ、現役生活を終えることとなりました。

現役を引退し繁殖入りをしたのちには全部で9頭の仔を生み、その八番目の娘がメジロフランシスという馬。そのメジロフランシスの子供、つまりメジロモントレーの孫にあたる馬には、現役時代は日本と香港を股にかけ、G1を計6勝した名馬、モーリスがいます。

メジロモントレーはG1こそ勝てませんでしたが、並みいる牡馬達を相手に善戦以上の競馬を披露。さらには繁殖牝馬としても多大な功績を遺したこの馬の記憶は、今後も、名門の名前とともに語り継がれていくことと思います。

写真:かず

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