アスリートにとって、怪我は宿命的に付きまとうものである。
連続2215試合出場を果たし「鉄人」と称えられた広島東洋カープの衣笠祥雄選手も、その活躍の陰で大きな怪我を経験している。
将来の飛躍を期待されながら、致命的な故障に見舞われてその前途を奪われた者の、なんと多いことか。
ましてや、長く現役を続ければ続けるほど、その後半はいかに満身創痍の体と付き合っていくかが大きな課題となると言ってよい。
それは、競走馬にとっても同じことである。
イクノディクタスという馬がいた。
父にディクタス、母にダイナランディング(その父ノーザンテースト)を持つ栗毛の牝馬は、1987年に浦河で生まれ、1989年夏の小倉開催でデビュー後2連勝を飾る。
ところが、単枠指定の1番人気に推された小倉3歳ステークスで惨敗すると、それ以降勝ちから見放されてしまった。
1990年の牝馬三冠路線には皆勤したが、エリザベス女王杯で4着に粘るのが精いっぱい。
トンネルに入ったまま迎えた1991年春、ここまで実に14連敗を喫していた。
普通の馬ならば関係者もここらで諦め始めるところなのかもしれないが、その後も彼女は走り続けた。
彼女の場合、重賞での2・3着が計4回。さらには母父ノーザンテーストが成長力に富む良駒を出すと評価されていた。
陣営は、そうした彼女の『今後』に期待して現役続行を決めたのではなかろうか、と私は思っている。
さて、負け続けながらも現役を続けるイクノディクタスは、2月のマイラーズカップで3着に健闘。そしてついに、3月のコーラルステークスで久しぶりに勝利の美酒に酔う。
4月の京王杯スプリングカップは同期のダイイチルビーが鮮やかに勝利する中、中団やや後方から伸びを欠き惨敗したものの、その次走、5月の京阪杯(当時芝2000m)では7番人気ながら鋭い脚を繰り出してセンターショウカツらを交わし、1着。
念願の重賞初勝利を決めた。
実は、これがこの年の6戦目であった。
この後も、彼女は勝てないまでも休みなく、1か月に1~2回のペースで走り続ける。
9月の朝日チャレンジカップを終えて一旦休養に入るが、既にその年だけで12戦を消化していた。
そんな過密日程でも、それまで440㎏台が多かった馬体重が、前年の秋ごろから450㎏台に増加。これもまた、彼女が着実に成長していた証ではないだろうか。
そして1992年。
6歳(旧表記)になったイクノディクタスは、まるで何かに駆られるかのように前年以上のペースでレースへ出走し続けた。
2月の小倉・関門橋ステークスから毎月休むことなく走り、7月の高松宮杯までに9戦をこなす。
特に5月はひと月の間に中1週の間隔で3走。そんな条件下で月末のエメラルドステークスでは京阪杯以来1年ぶりの勝ち星を挙げたうえに、次走6月の金鯱賞では1番人気に応えて重賞2勝目を飾った。
高松宮杯12着を挟んでこの年10戦目となる8月小倉記念では、先行策から早め先頭に立ち、外から襲い掛かるレッツゴーターキンの追撃をハナ差しのぎ切り重賞3勝目。
さらに9月のオールカマーでは、地方代表として参戦した大井の名馬、ハシルショウグンとジョージモナークが前で激しく競り合う中、この2頭の間を割って抜け出すという恐るべき根性を見せ、レコードタイムで更なる重賞タイトルを獲得した。
この間にいつしか馬体重も460㎏台まで増えていたように、まさに充実一途だったのは間違いないが、それにしても繊細と言われる牝馬が毎月休みなく使われながら音を上げることもなく走り続け、これだけの好成績を残すことなど、競走体系の整備された現代の中央競馬においてはほぼ考えられないことである。
故障知らずのタフネスぶり、牡馬相手に一歩も引かずに闘いつづける姿は、もはや「健気」とか「可憐」という形容詞はふさわしくないように感じられた。
個人的なことを言えば、私が彼女に注目し、応援するようになったのも、この頃である。
ゆえに、人々は彼女を、1980年代のイギリスで苛烈な改革を断行した女性宰相になぞらえて、こう呼んだ。
「鉄の女」。
この後もイクノディクタスは、ほとんど休まず走り続ける。
毎日王冠から古馬の王道路線に参加し、トウカイテイオーやライスシャワー、ナイスネイチャ、メジロパーマーら一線級の牡馬たちに戦いを挑んだ。
9着に終わった秋の天皇賞の後はマイルチャンピオンシップに進み、さらには連闘でジャパンカップにまで参戦。
最後は有馬記念7着で、この年を終える。
1年間で16戦4勝。
何ら怯むことなくタフに走り続けた彼女に、ファンもG1馬に対すると同じくらいの熱い声援を送り続けた。
1993年、明け7歳(旧表記)となったイクノディクタスは、3月の日経賞から始動してライスシャワーの横綱相撲の前に6着に終わり、続く産経大阪杯では休養明けのメジロマックイーンのレコード勝ちの前に直線で伸びきれずまたも6着。
春の天皇賞では明らかに距離が長く9着と、結果を残すことはできなかったものの、戦った相手を考えれば決して悲観するようなものではなかったのではないだろうか。
だがこうした成績もあり、続く安田記念では16頭中14番人気に甘んじることとなった。
ところが、ここで彼女は思いもよらぬ激走を見せることとなる。
マイネルヨースが馬群を先導し、1番人気のニシノフラワーがかかり気味に先行。ヤマニンゼファーやシンコウラブリイら上位人気馬もこぞって前に付ける中、イクノディクタスは後方のインコースでじっくりと脚を溜める。
直線でヤマニンゼファーが抜け出しを図る中、インからシンコウラブリイが──そしてその外から外国馬のキットウッドとロータスプールが、激しく競り合う。
ゴール前ではヤマニンゼファーの後ろでこれらがせめぎ合い、さらに外からはシスタートウショウがすごい脚で追い込んでくるが、そこに外国馬2頭の間を割ってきた赤い帽子の栗毛馬がいた。
最後はヤマニンゼファーが安田記念連覇を決める中、2番手は4頭が横一線に並んで、写真判定に持ち込まれた。
結果は、2着イクノディクタス。
馬連68970円の高配当。
同時にイクノディクタスの獲得賞金は、当時の牝馬として史上最高額となった。
この後の宝塚記念でも、彼女は荒れたインコースを避けて外々を廻ったメジロマックイーンのさらに外側から強襲して2着に入り、史上初の5億円獲得牝馬となったが、もはやそんな数字では語ることができないほど、ファンにとって──そしてなにより私にとって、かけがえのない存在となっていた。
脇役ではなく、まぎれもない「主役」として。
宝塚記念から中1週で臨んだテレビ愛知オープンを1番人気に応え勝利した彼女は、さすがに疲れもあったか、秋以降は掲示板にも載れず、富士ステークス(当時オープン)8着を最後に、足掛け5年にわたる『故障とは無縁の現役生活』に別れを告げた。
生涯成績51戦9勝。
獲得賞金5億3112万4000円は、中央・地方交流のG1を未勝利の馬としては今でもトップクラスだ。
一方で彼女の引退後、私の心にはぽっかりと穴が空いた。
もう彼女のひたむきな走りを見られないかと思うと、無性に悲しく、自分が彼女を「愛していた」ことを知った。
「鉄の女」と呼ばれ、51戦も走りながら故障とは無縁の競走生活を送ったイクノディクタス。しかし「故障と無縁」というのはあくまで我々ファンの知る限りのことである。
疲れが溜まって、レースに使えぬほど体調が優れなかったり、脚もとがモヤモヤしたりするようなことも、もしかしたらあったのかもしれない。
多くのレースを、間隔を詰めて使うことができたのは、彼女自身の生まれ持った頑健な体と決してめげない強い精神力の賜物だろうが、同時に、彼女のために日々万全なケアを怠らず、大切に育ててきた厩舎関係者の努力もあったからこそではないだろうか。
彼女が所属した栗東の福島信晴厩舎と言えば、15歳(旧表記)まで99戦を走り抜いたあのミスタートウジンの所属していた厩舎である。
馬を愛し、彼らのために粉骨砕身してきたスタッフたちが、彼女をあれだけの名馬にまで引き上げてくれたのだと、私は思うのだ。
こぼれ話として、メジロマックイーンが彼女に恋していたようだという逸話は有名だが、実はイクノディクタス自身はトウカイテイオーに思いを寄せていた──という噂を、私は聞いたことがある。もちろんあくまで噂だが、それでも面白く耳を傾けた。
メジロマックイーンとの縁組は実現したが、トウカイテイオーとの交配が実現しなかったことは私にとって大いに残念なことで、今でもテイオーと彼女の仔を夢想してしまう。
2019年2月7日、イクノディクタスはこの世を去った。
32歳の大往生であった。
それを知って、私がしばらく落ち込んだのは言うまでもない。
新冠町の五丸農場へ生前の彼女に会いに行ったことがある。
2013年の秋だった。
現役時代の激しい闘志を燃やしていた姿は影を潜め、顔を私の方に近寄せてくる、愛らしい馬であった。