神戸新聞杯は、関西で行われる菊花賞の前哨戦である。2000年に菊花賞の施行時期が2週間繰り上がってからは、同じく菊花賞トライアルだった京都新聞杯がダービーの前哨戦として5月に施行時期を移行。そのため神戸新聞杯は関西で行われる唯一の菊花賞トライアルとなり、阪神競馬場の改修工事以降は距離も従来の2000mから外回りの2400mに延長され、より本番に直結しやすいレースとなった。
京都新聞杯が10月に施行されていた時代は、中山で行われるセントライト記念を含む3つのトライアルレースに、春のクラシック戦線で活躍していたような主力メンバーが分散する傾向にあった。しかし京都新聞杯が時期を移してからは、特に神戸新聞杯に有力馬が集結するようになり、本番レベルといってもいいような豪華メンバーとなる年も少なくない。中でも、今回振り返る2003年の神戸新聞杯は、今思えば歴代全ての菊花賞トライアルと比べても、屈指の好メンバーが揃った年だったと言えるのではないだろうか。
この年、春の牡馬クラシック戦線の中心にいたのは、間違いなくネオユニヴァースだった。
1勝クラスの特別戦から一気の5連勝で皐月賞、日本ダービーの二冠制覇を達成。その後、3歳馬として果敢に挑んだ宝塚記念で連勝こそ止まったものの、0秒3差の4着は大健闘といってよい内容だった。その二冠制覇は、いずれも当時短期免許で来日していたミルコ・デムーロ騎手とのコンビだったが、この神戸新聞杯では、デビューから4戦したうちの3戦でコンビを組み、全て勝利していた福永騎手とのコンビだった。
一方、他の陣営の秋の目標は、当然のことながらネオユニヴァースの三冠阻止、ストップ・ネオユニヴァースであったが、その筆頭格に挙げられたのは、皐月賞と日本ダービーのそれぞれの2着馬、サクラプレジデントとゼンノロブロイだった。
サクラプレジデントは、2歳時からその高い素質を見せていた。
新馬、札幌2歳ステークスと連勝すると、年末の朝日杯フューチュリティステークスでは惜しくもクビ差の2着。年が明けてからは、スプリングステークスと皐月賞のいずれもネオユニヴァースの2着と惜敗していたため、いっそう、ネオユニヴァースの三冠を阻止して菊の大輪はなんとしても、の気持ちが強かったに違いない。ダービーで9着に敗れた後は、新たに武豊騎手とのコンビで札幌記念に参戦し古馬を一蹴。再び勢いをつけてここに臨んできていた。
サクラプレジデントとは対照的に、ゼンノロブロイのデビューは年明けの2月と遅かった。
そのデビュー戦を勝利し、2勝目を挙げたのも皐月賞の1週前だったが、続くダービートライアルの青葉賞では鞭を使われることなく快勝し、本番のダービーでも2着に惜敗。デビューからわずか4ヶ月弱で一気に世代トップクラスの仲間入りを果たし、今回は世界の名手ケント・デザーモ騎手とのコンビで挑んできたのだった。
この他にも、出世レースとして名高いラジオたんぱ杯2歳ステークスを勝ち、ダービーで3着と健闘したザッツザプレンティに、勝ち馬が後に菊花賞で好勝負することが多いすみれステークスで、ゼンノロブロイを抑え勝利したリンカーン、さらには京都新聞杯勝ちのマーブルチーフなど、さほど多頭数ではない13頭立てではあったものの、とにかく、前哨戦としてはよくもここまで、といえるような豪華なメンバーが揃った。そして、多くのファンは戦前、上位5~6頭がゴール前で大接戦となるような胸躍る展開を予想し、一刻も早くそんな好勝負を見てみたいと願っていたに違いない。
スタートが切られると、内からハードクリスタル、中からザッツザプレンティが先行する構えを見せたが、園田から参戦してきたシンドバットが、大外からそれらを制して先頭に立ち1コーナーを回った。2コーナーから向正面に出ると、2番手にザッツザプレンティ、以後マーブルチーフ、リンカーンがそれぞれ1馬身差で続き、ネオユニヴァースとゼンノロブロイがちょうど真ん中を並走。サクラプレジデントは、他の有力馬を前に見て後方4番手を進む。前半の1000m通過タイムは60秒5と少し遅めのペースだったが、大きく折り合いを欠く馬は見当たらず、いっそう終盤に好レースが展開されることを見る者に期待させた。
残り800mを過ぎ、勝負どころに入っても仕掛ける馬はおらず、嵐の前の静けさのような展開だったが、馬群は段々と固まり始めていた。そして、残り600mのハロン棒を通過した時、一気にレースが動く。
札幌記念と同様、サクラプレジデントが大外から捲りを開始し勝負に出たのだ。ここで、場内からはGⅠ並みの大歓声が上がる。出し抜けを食らわされ、一瞬反応が遅れたネオユニヴァースがこれを追う。対して、ゼンノロブロイはそれでもまだ大きく仕掛けることなく、サクラプレジデントの内を回りながらコーナリングを上手く使って大きな差をつけられないようにしていた。
大歓声に迎えられた最後の直線。先頭に立ったサクラプレジデントが馬場の中央から内側に進路を取り、一気に後続との差を離そうとする。2番手からザッツザプレンティとゼンノロブロイがこれを追い、その後ろからネオユニヴァースとリンカーンが迫ってきた。思っていたとおり、これはいいレースになりそうだ。見ている誰もがそう思った。しかし、次の瞬間。残り200mを切って坂に差し掛かるあたりで、レースは思いもよらない展開となる。
今度は、ゼンノロブロイがサクラプレジデントを外から交わすと、その差を一完歩毎に開き始めたのである。
サクラプレジデントは、捲ったところで体力を使い果たしたのか抵抗できず、仕掛けが遅れたぶん体力がまだ温存されているはずのネオユニヴァースも、これに全くついて行くことができない。坂を上り切って残り100mを過ぎても、ゼンノロブロイの脚色は衰えるどころかさらに勢いを増し、歓声がどよめきに変わりはじめる。
──夏を越えて一気にここまで変わってしまうのか。
歓声とどよめきとため息が入り交じる中、3馬身半という決定的な差をつけて、ケント・デザーモ騎手の大きなガッツポーズと共にゼンノロブロイが先頭でゴールに飛び込んだ。以下、サクラプレジデント、ネオユニヴァース、リンカーン、ザッツザプレンティと続き、順番は違えど結果的には上位人気での決着となった。ゼンノロブロイの単勝人気は僅差の3番人気だったため、その勝利を予想した人々は相当数いただろうが、とはいえ、ここまでの圧勝を予想できた人々がその中にどれほどいただろうか。こうして、豪華メンバーで行われた神戸新聞杯は、意外にもあっけないほどに、一頭だけが圧倒的なレースを見せる結果に終わった。
しかし、本番はこのまま順当な結果にならなかった。だからこそ競馬は面白いのである。1ヶ月後に行われた最後の一冠・菊花賞を制したのは、神戸新聞杯でゼンノロブロイから実に0秒9離され5着に敗れたザッツザプレンティだった。同4着のリンカーンが2着に入り、残念ながらネオユニヴァースは三冠達成ならず3着。神戸新聞杯で圧倒的な強さを見せたゼンノロブロイも4着に終わり、サクラプレジデントは9着で、前哨戦とは真逆の結果となったのである。
以後、これら5頭全てが揃うことはなかったものの、ジャパンカップ、有馬記念、翌年の天皇賞・春、宝塚記念までの古馬混合の中・長距離GⅠで、この中の3頭ないし4頭が度々しのぎを削った。しかし、惜敗する馬こそいたものの、勝ち馬はこの中から一頭も出てこなかった。
谷間の世代だったのか──。
天下を取れない世代なのか──。
2000年生まれ世代の牡馬にそんな評価が下されかかったとき、一頭がそれを覆した。
それがゼンノロブロイだった。
3歳時のジャパンカップには出走しなかったものの、それ以外の4レースでは全て4着以内に入る安定感、言い換えれば、神戸新聞杯を圧勝したとは思えないほどの詰めの甘さを見せていた。しかし、あの圧勝が布石となっていたのか、はたまた予兆だったのか。
迎えた4歳秋シーズン。京都大賞典2着を叩いて臨んだ天皇賞・秋から大変身を見せる。ペリエ騎手とのコンビでGⅠ初制覇を成し遂げると、続くジャパンカップでGⅠ2連勝。年末の大一番・有馬記念も当時のJRAレコードで快勝と、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いで、テイエムオペラオー以来、そして2021年現在でもこれら二頭しか達成していない秋の古馬三冠という偉業を成し遂げ、年度代表馬の座を獲得。世代一強を証明したと思われたあの神戸新聞杯から一年以上を経て、ついに世代を超えた一強であることを証明したのである。
その後、あの神戸新聞杯で上位に入線した5頭は共に種牡馬入りを果たしたが、種牡馬としての成績は決してゼンノロブロイの一強ではなく、他の馬たちも大健闘を見せている。特に、ネオユニヴァースは初年度からいきなりロジユニヴァースというダービー馬を輩出し、アンライバルドが皐月賞を制覇。二世代目からも、ヴィクトワールピサが皐月賞、有馬記念、ドバイワールドカップと大レースを次々に勝利した。ゼンノロブロイも、負けじとオークス馬サンテミリオンを輩出し、GⅠこそ勝てなかったがペルーサも大レースを賑わせた。サクラプレジデントとて、これまでGⅠ馬を輩出していないものの、サクラゴスペルが重賞3勝に加えスプリンターズステークスでも2着と健闘し、さらにはサクラシャイニーとサクラレグナムという高知競馬のスターホースを相次いで輩出した。
ミレニアムに誕生したこの世代は、現役時同様に種牡馬となっても互いに切磋琢磨して光り輝きあう世代だったのである。
写真:Horse Memorys