芦毛のマル外馬クロフネが切り開いた蹄跡。 - クロフネのニッポン競馬開国史

私が子供の頃に見たマル外馬、マルゼンスキー。8戦8勝で引退したその姿は、強烈な印象が残っている。

「外国の馬は強すぎるから、ダービーに出してもらえないんだ……」

何故マルゼンスキーがダービーに出られないのかへの疑問に対する、競馬を教えてくれた叔父の回答だ。この頓珍漢な回答を真に受けて、妙に納得していたのを思い出す。

当時、テレビで見ていたマルゼンスキーは本当に強かった。私は彼の「朝日杯3歳ステークスの大差勝ち」や「きさらぎ賞での馬なり楽勝」を見て、テンポイントやトウショウボーイより絶対に強いと思い込んでいた。

阪神タイガースだってブリーデンやラインバックが日本人選手と一緒にプレーしているのに、何で競馬はマルゼンスキーを一緒に走らせないのだろう。強い馬同士がダービーで走ってチャンピオンを決めるのが一番面白いのに──。

1977年の日本ダービー優勝馬、ラッキールーラが決して弱いとは思わない。でもマルゼンスキーと戦わずして4歳(現3歳)最強馬だとは、子供心には認めたくなかった。

「外国産馬は、日本ダービーには出られない」

3歳馬(現2歳馬)のデビューシーズンになると、新馬戦に数は少ないものの登場する外国産馬に注目し、先々不憫な彼らを応援するようになった子供の頃が懐かしい。

クロフネのニッポン競馬開国史 - 序章

日本ダービーの外国産馬への開放がニュースとして報じられたのは、私が大人になってからの事。

2001年の日本ダービーより、制限付き(2頭まで)ではあるものの、外国産馬のダービー出走が可能になった。もし、マルゼンスキーをタイムマシーンで2001年に連れて来ることができるなら、2頭枠の1頭は問答無用でマルゼンスキーに与えてやりたい…。そんな夢物語を胸に、ダービー開放元年を待ち望んでいた。

そのダービー開放元年に向けて登場したのが、クロフネだった。

クロフネは金子真人オーナーが、米国の調教済み2歳馬市場で購入し、開放初年度のダービーを輸入馬で勝つという願いから「黒船」にしたという話を耳にして、興味を持った。芦毛のクロフネは2歳シーズンが始まるとメディアでも度々話題になり、日本ダービー外国産馬開放のシンボル的な存在として、デビューが待ち望まれるようになった。

クロフネの登場は10月の京都競馬場。

3日目の新馬戦でデビューし、クビ差の2着となる。折り返しの7日目新馬戦に再登場し、マイネルエスケープ(後の京成杯2着馬)を上がり34秒台の末脚で2馬身突き放しての楽勝、初勝利をマークした。

3戦目のエリカ賞を余裕で勝利した後、迎えた4戦目が伝説の「ラジオたんぱ杯3歳ステークス」。

このレースの注目は、クロフネを含む3頭。後に社台スタリオンで生活する3頭が集結する、最初で最後の豪華対戦となった。

1番人気は話題性と勝ち方からクロフネ(単勝1.4倍)、2番人気は新馬戦圧勝のアグネスタキオン(4.5倍)、3番人気に札幌3歳ステークスの優勝馬ジャングルポケット(4.8倍)が続いた。

レースは、終始3頭のマッチレースともいえる展開となる。中団の前目にクロフネとジャングルポケット、これらを見るようにアグネスタキオンが追走。直線に入りクロフネが先頭に立ったところで、アグネスタキオンが並ぶ間もなく抜き去り、差を広げる。更にジャングルポケットが末脚を繰り出し、クロフネを抜き去ったとことがゴール板だった。

1着アグネスタキオン、2着ジャングルポケット、3着クロフネ。アグネスタキオンの瞬発力と凄みが光り、来年のダービーに3頭が出走しても順位は変動しないような気がする──そんな、ダービー開放前年の暮れとなった。

年が明けて2001年、ダービーを目指す3頭が順調にスタートを切り、2月にジャングルポケットが共同通信杯を、3月に入りアグネスタキオンは弥生賞をそれぞれ順当勝ち。

クロフネはアグネスタキオンから半月遅れで毎日杯に出走、外国産馬初の日本ダービー出走2枠に向けて始動した。

「クロフネ、持ったままで先頭、誰も追いつけない。クロフネ! クロフネ!」

実況アナの「クロフネ」連呼に乗って、終わってみれば5馬身差の大楽勝で初重賞制覇。クロフネも順調に2001年のスタートを切ることになる。

クロフネ不在の皐月賞はラジオたんぱ杯の順列通りアグネスタキオンの優勝。ジャングルポケットは3着でフィニッシュし、ダービーでのクロフネも加えた3強の再戦が待ち望まれた。

しかし……ダービー制覇も間違いなしと思われていたアグネスタキオンは、5月に入って屈腱炎を発症。日本ダービー出走断念とともに現役引退が発表された。

アグネスタキオンとのダービーでの再戦、ラジオたんぱ杯での雪辱を果たすべくトレーニングを重ねてきたクロフネにとって大きな目標を失ったと言える。それでもダービー前の一戦として、クロフネはNHKマイルCに駒を進める。

当時のNHKマイルCはダービーに出走できない外国産馬のG1レース的なポジション。クロフネが出走する前年の5回までの優勝馬は全て外国産馬、シーキングザパール、エルコンドルパサーなどの世界に名を馳せた名馬が勝利している。

第6回NHKマイルCもマル外馬クロフネが主役だった。ダービーを意識しているのか、鞍上は武豊騎手にスイッチ。レースは今までとは全く異なり後ろからの追走、後方馬群の中で武豊騎手は手綱を抑えたままじっとしている。4コーナーを回り直線、いつの間にかクロフネは中段馬群に付けると、そのまま馬群を突き放して3番手に上がる。逃げ込みを図るグラスエイコーオー、サマーキャンドルを一完歩ずつ追い詰め、楽々とゴール前で捉えた。1分33秒0、単勝1.2倍の支持を得たクロフネはG1馬の称号と共に、外国産馬開放元年の日本ダービーへの出走権を得たのだった。

クロフネのニッポン競馬開国史 - 第1章 第68回日本ダービー

2001年5月27日の日本ダービー当日。私はほとんど眠れずに朝を迎え、始発の京王線を目指してタクシーで新宿駅に向かった。その時の高揚感・わくわく感は、以降、現在に至るまで体験することなく来ているように思う。記念すべきレースを最高の場所で観戦しようと試みたものの、寝不足の体では開門ダッシュもままならず、脚の上がった逃げ馬のような足取りになりどんどん追い抜かれていく。それでも何とか席を確保することができ、記念すべきダービーのスタートを迫りくる睡魔と戦いながら待っていた。

私にとって「日本ダービーの外国産馬への開放」は、マルゼンスキーを筆頭とする、子供の頃から応援してきた強い外国産馬たちの悲願達成の一日。ジャパンカップを勝って凱旋門賞2着のエルコンドルパサーですら出走馬として名前を刻むことができなかった「日本ダービー」である。

その開放元年のダービーにチャレンジするクロフネという名の外国産馬。もはやドラマ仕立てのストーリーで、あっさりとクロフネが優勝するような気さえしていた。

曇天で重馬場のダービーデー。そわそわしている間に午後になり、記念すべき日本ダービーのスタート時刻が刻々と迫って来る。


大外の8枠18番に入ったジャングルポケットが最後にゲートインして、いよいよスタート。


ジャングルポケットと同じく8枠に入ったクロフネは、ゆっくりと外目のポジションをキープ。ジャングルポケットと並んで後方から馬群を見るように取り付き、ゴール板前を通過して行く。

先頭のテイエムサウスポーが飛ばして集団を引っ張り、ダービーペースを創り出す。離れた2番手をキタサンチャンネルと外国産馬ルゼルが並走し、向正面に入っていく。人気馬は互いを牽制するように、藤田騎手のダンツフレームのすぐ後方にジャングルポケットとクロフネが中段からやや後方で待機。
直線に入ると、ペースメーカー的なテイエムサウスポーが後退。代わって内からルゼルが先頭に立つ所をダンシングプリンス、真ん中でボーンキングも先頭を伺う。クロフネはそれらを見るように脚を伸ばし、先頭集団を捉える位置につける。「やっぱりクロフネが抜けてきた!」と色めき立つも、クロフネの外から弾丸のような勢いで2頭が突っ込んでくる。ジャングルポケットとダンツフレーム。あっという間に開国のシンボルを飲み込み、先頭のダンシングプリンスも交わし去る。

日本ダービー開放元年は国産サラブレッドが牙城を死守、外国産馬による開国はならなかった。
ジャングルポケットが優勝、クロフネはゴール前で末脚がやや鈍り、結局5着で終わった。

クロフネのニッポン競馬開国史 - 第2章 運命を変えたもう1頭の外国産馬

休養を経たクロフネの、秋競馬スタートは神戸新聞杯からとなった。
レースは1番人気エアエミネムがサンライズペガサスをクビ差抑えて優勝。クロフネは3着でまとめて、次走秋の天皇賞へ狙いを定める。
天皇賞への外国産馬の出走は前年の2000年より2頭までの出走が可能になっていた。
春に続いてメイショウドトウが出走宣言し、残りの1枠はクロフネの枠と誰もが思っていた。

この時の天皇賞はテイエムオペラオーの4連覇がかかり、過去3回の天皇賞の2着は全てメイショウドトウという膠着状態。絶対王者テイエムオペラオーに対する新しい刺客として、若い3歳クロフネの登場は新鮮な話題となっていた。

盛り上がっていく秋の天皇賞、ところが直近になってまさかの出来事が勃発した。
ダートと芝のオールマイティ馬・外国産馬のアグネスデジタルが、盛岡の南部杯優勝。連覇のかかっているマイルチャンピオンシップに向かうと思われていた予定を変更し、天皇賞出走を宣言したのである。

クロフネ陣営にとっては寝耳に水。新旧対決に期待していたファンの中からは非難の声も上がった。
しかし結果的には、アグネスデジタルがクロフネの名をさらに高め、ファンがダート界へも目を向ける起点となる「もうひとつのニッポン競馬の開国」を演出した。更にテイエムオペラオーの天皇賞4連覇を、クロフネに替わって出走したアグネスデジタルが阻止して優勝し、「代役」も見事に果たした。

「クロフネの走り方はダートでこそ活きる」

日本ダービーの出走後、スポーツ新聞や競馬雑誌で度々目にするようになり、翌年のフェブラリーステークスでダートチャレンジするという陣営の意向も出始めていた。

クロフネは急遽、天皇賞前日のダート重賞、武蔵野ステークスに出走。

この一戦がクロフネの大きな転機になると同時に、ダート競馬を軽く見ていた層へ衝撃を与える。

レースはサウスディグラスの逃げを楽々と追走、直線に入り馬なりのまま後続を引き離すと、2着イーグルカフェに9馬身差の圧勝。走破タイムは当時の日本レコードを1秒2更新する1分33秒1、芝コースの走破タイムと変わらない驚異の日本レコードをマークした。

しかし衝撃的なクロフネのダートデビューも一部ではまだまだ半信半疑。メンバーレベルが一気にUPするジャパンカップダートこそが試金石、レースへの注目は一気に高まっていったのである。

クロフネのニッポン競馬開国史 - 第3章 世界レベルのダート王誕生

2001年11月27日、国際招待競走第2回ジャパンカップダート。

アメリカのG1馬リドパレス他招待馬5頭、日本馬も第1回優勝のウイングアロー、フェブラリーステークス優勝馬ノボトゥルー、交流重賞連勝中のミラクルオペラ、地方競馬代表のミツアキサイレンス等、ハイレベルなメンバーが揃った。人気はリドパレスを抑えてクロフネが1.7倍の1番人気。以下リドパレス、ウイングアロー、ミラクルオペラと続く。

土曜日なのにメインレース前から満員のパドック、早くから陣取っている人の多さは今でも強烈に覚えている。私も同じくカメラを抱えて最前列でジャパンカップ出走馬の登場を待つ。

クロフネ登場で一瞬パドックがざわめくも、当のクロフネは入れ込むことなく堂々と周回を始めた。

招待馬が5頭もいると外国人厩務員さんの服装や仕草で国際色豊かなパドックになる。500キロを超す迫力ある馬体のリドパレスが、いかにもアメリカ仕込み的で不気味に見えてくる。

返し馬を終え、スタンド前のスタート地点に出走馬が戻ってきた頃には、晩秋の日差しが傾きはじめ、黄ばんだ陽が各馬に注いでいる。

一斉にゲートが開き、注目のクロフネはやや立ち遅れたように見えた。1コーナーを目指して、目の前を各馬が通り過ぎる。クロフネは中段の後方を進み、ゴール板を過ぎてハナに立ったのはアメリカのディグフォーイット。イギリスのジェネラスロッシと日本のノボトゥルーが追いかける展開。

クロフネは中段後方の外をキープしたまま各馬が向正面に入る。先頭からの隊列は変わらずレギュラーメンバーが先頭3頭に並びかけ、淡々としたペースに落ちつく。

膠着した隊列は残り1400mの標識を過ぎると急に慌ただしくなった。

中段の外を進んでいたクロフネが、まるでベルトコンベアの上を走っているかのように他馬を抜いていく。武豊騎手の手は全く動かずクロフネは馬なりで先頭との差を詰める。6馬身、4馬……先頭との差はどんどん縮まり、大外を上がっていくクロフネと他馬の集団のスピードの違いがターフビジョンを通してはっきりとわかる。

数々のドラマを生むケヤキの向こう側を通過した馬群の先頭にはクロフネが立っていた。どんどん差を広げながら3コーナーから4コーナーへ向かう。

ここから始まる40秒足らずの、クロフネのワンマンショー。

結果的には花道になってしまうオレンジ色のチャンピオンロードを白い馬体が疾走、直線に入ってその差は更に広がっていった。

「これは強い、強い!」

「クロフネ、断然リード!」

実況アナの絶叫が場内に響き、歓声が最高潮に達する。

堂々と美しいスライドでクロフネが夕陽に向かって駆けていく。遥か後方で、2番手のノボトゥルーをミラクルオペラが交わし、更に大外からウイングアローが差し切って2着でフィニッシュ。

着差7馬身、勝ちタイム2分5秒9は従来レコードを1秒3更新する2戦連続の日本レコードとなった。

クロフネの与えた衝撃は場内だけでなく夕方のニュースでも放映された。ダートG1チャンピオン「クロフネ」の名は、競馬に興味のない私の母の耳にもしっかり届いていた。

翌日のスポーツ紙に掲載された騎手のコメントは、今でもよく覚えている。

武豊騎手「いままで乗ってきた馬の中でも、こんなに強い馬はいませんでした」

ベイリー騎手(リドパレス騎乗)「言い訳できないほど、勝った馬が強すぎた」

第2回ジャパンカップダート。

クロフネがニッポンの競馬を世界へ向けて開放する瞬間だったのかもしれない。

2002年は、クロフネが世界の壁をぶち破る、歴史的な瞬間が見られるのではないだろうか──。

そんな新時代の到来を予感させる歳末。有馬記念のファン投票は出走回避を明言していたにも関わらずテイエムオペラオーに次ぐ2位の票数を集め、来年はフェブラリーステークスをステップに、ドバイワールドカップからアメリカのブリーダーズカップクラシックへの挑戦という夢のプランも見え隠れし始めた。

しかし……好事魔多し。

テイエムオペラオーのラストラン・有馬記念から2日後、12月25日のスポーツ紙に衝撃の見出しが刻まれる。

「クロフネ右前脚に屈腱炎発症! 現役引退か?」

報道翌日の12月26日、クロフネの競走登録抹消と種牡馬入りが発表された。

クロフネのニッポン競馬開国史 - 第4章 白毛馬初のG1制覇

社台スタリオンステーションで種牡馬となったクロフネは、この世界でもその名を残す偉業を達成する。

初年度産駒のフサイチリシャールが朝日杯フューチュリティステークスを制するなど順調なスタートを切り、サイアーランキングでも2007年以降10位以内に定着。中央・地方を問わず勝ち馬を量産していった。

クロフネ産駒は牝馬の活躍馬が多く、スリープレスナイト、カレンチャン、ホエールキャプチャ、アエロリットといったG1馬を次々と送り出した。

そして、登場したのが2018年生まれのソダシ。

2020年7月にデビュー後、阪神ジュベナイルフィリーズ、桜花賞、ビクトリアマイルと3つのG1を制覇(2022年12月現在)、白毛馬として初のG1馬となった。

クロフネは種牡馬としてもその能力をソダシに伝え、「ニッポン競馬初の白毛G1馬の父」として、新しい歴史を刻んだのである。

クロフネは2021年1月17日、老衰のため惜しまれつつこの世を去った。

それでもクロフネの血を引く産駒たちは、まだまだ活躍を続けている。

2022年も中央から南関東に移籍したセン馬2頭が活躍中。中央でリステッド競走にも勝利したエルデュクラージュが川崎記念を2着、5歳のコバルトウイングは5連勝で名古屋の東海菊花賞を制覇した。

G1牝馬たちの仔、クロフネの孫たちも競馬場に顔を見せ始め、そのうちG1戦線に登場する馬が出てくる予感もしている。


ジャパンカップダートで見せたクロフネの大きなスライドで駆けていくフォーム。己の能力に任せて別次元の競馬をする彼のパフォーマンスは、私が競馬を見続けている以上忘れることのない「最大の衝撃」だと思っている。

晩秋の府中で夕陽を浴びながらクロフネをカメラで追えた事、ゴール直後のどよめきの中のひとりであれた事こそ、私にとって最高の宝物だ。

Photo by I.natsume

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