血統に関する競馬用語の一つに『三大始祖』という言葉がある。
各馬の血統表の一番上の父馬を「父の父の、そのまた父の父の……」とずっと遡っていくと、現代の世界中のサラブレッドはダーレーアラビアン、ゴドルフィンアラビアン、バイアリータークの三頭に遡るというものだ。
しかし実際のところ、現代のサラブレッドのほとんどの父系はダーレーアラビアンにいきつく。
とりわけJRAの現役馬で見てみると、ゴドルフィンアラビアンを父系にもつ馬はたったの2020年8月現在では5頭しかおらず、バイアリータークに至ってはなんと0頭という、なんとも厳しい状況である。
しかし、2019年の11月に行われた東京スポーツ杯2歳ステークスにおいて、母系にではあるが、遡るとゴドルフィンアラビアンにいきつく馬が1、2着となった。
1800mの2歳JRAレコードでこのレースを制したのは、今年無敗のダービー馬となり二冠馬となったコントレイルで、この馬の母の母の父Tiznowを遡っていくとゴドルフィンアラビアンにいきつく。一方、2着のアルジャンナも母の父の父がやはりTiznowであり、これら2頭の父は共にディープインパクトである。
なんとも奇妙な偶然であった。
父系を遡るとゴドルフィンアラビアンにいきつく中央競馬で活躍した馬の代表格に、ウォーニング産駒のサニングデールとカルストンライトオがいる。
それぞれ高松宮記念とスプリンターズステークスを制している通り、この系統は、産駒の絶対数が少なくなった近年でもなお、豊かなスピードを武器に激走を繰り返している。芝1200m以下の短距離戦を主戦がメインではあるが、そのスピード感からも、JRAレコードでの決着となった前述の東京スポーツ杯2歳ステークスで、コントレイルとアルジャンナが1、2着したことも納得のいくところである。
日本のみならず、世界的に見ても産駒がすっかり少なくなってしまったゴドルフィンアラビアンとバイアリータークの系統だが、今回はとりわけゴドルフィンアラビアンの血を父系に持つ1頭の牝馬が、その血の後押しを武器に躍動した2014年の北九州記念を振り返りたい。
史上最強スプリンターの呼び声高かったロードカナロアが、香港スプリントを圧勝して有終の美を飾り引退した翌年・2014年──日本のスプリント路線は、混迷を極めていた。
というのも、2011年のスプリンターズステークス以降、国内の芝スプリントGⅠを制したのは、一足早く2012年に引退していたカレンチャンとロードカナロアの2頭だけだったのである。
迎えた春のスプリント王決定戦・高松宮記念を圧勝で制したのはコパノリチャード。
しかし、次走の京王杯スプリングカップでは7着に敗れてしまい、夏に開幕するサマースプリントシリーズは、秋のスプリンターズステークスに向けてさらなる新星が現れるかどうかに注目が集まっていた。
そのシリーズ第4戦目の北九州記念はフルゲートの18頭によって争われ、やはりこのレースも例に漏れず確たる軸馬がいない大混戦となっていた。
1番人気は5歳牝馬のエピセアローム。
2歳時に同コースで行われた小倉2歳ステークスを快勝して早くから素質の高さを証明。翌年のGⅡセントウルステークスでも、次走でスプリンターズステークスを制することとなるロードカナロアを破る実績を残していて、前走CBC賞2着からここに臨んできていた。
2番人気は3歳牝馬のベルカント。
こちらも、小倉2歳ステークス2着後のファンタジーステークスで重賞初制覇と、2歳から能力の高さを示しており、年が明けたこの年の春シーズンは、桜花賞トライアルのGⅡフィリーズレビューを制覇。
その後、桜花賞10着、CBC賞5着からここに臨んできていた。
以下、ニンジャ、ルナフォンターナが人気順で続いた。
そしてそんな18頭の中で、たった1頭、外国産馬が出走していた。
5歳の牝馬リトルゲルダである。
リトルゲルダはオープン昇級後ここまで連対がなく、このレースでも8番人気に留まっていたが、前年のアイビスサマーダッシュで4着、年が明けて2走前のシルクロードステークス3着、休み明けの前走アイビスサマーダッシュでも4着と、安定した成績を残していた。
父は、米国のClosing Argumentというあまり聞き慣れない種牡馬。現役時の戦績も、重賞勝ちはGⅢ1勝のみという地味なものであったが、米国最大のレース、ケンタッキーダービーで大穴ながら2着に入った実績があった。そして、この馬こそ父系を遡ればゴドルフィンアラビアンに辿り着く数少ない異系の血を持つ馬であった。
また、リトルゲルダは母系にUnbridled's SongやStorm Catを併せ持っていたが、これらの血を持っている馬は、アメリカのダート競馬特有のスタイル……すなわち強い馬がガンガン先行して実力で劣る馬から脱落していくようなスタイルにめっぽう強い。日本の競馬に置き換えると、特にローカルの短距離戦をスタートから先行してゴールまでそのままなだれ込むレースが得意な血ということになる。
つまり、リトルゲルダの父系と母系に共に流れる血は、豊かなスピードを互いに増幅させ極上のスピードを生み出すといってもよい配合であった。
18頭ほぼ揃ったスタートから、7枠14番アンバルブライベンのダッシュが早く、あっという間に1馬身ほどのリードをつける。2番手にはアイラブリリとメイショウイザヨイが併走し、アルマリンピア、バーバラ、最内からリトルゲルダの3頭がこれらを追う展開に。
ベルカントは、前走逃げて敗れたのを踏まえてか、無理にはいかず7番手の外目。
そして、ここまで多くのレースで先行してきたエピセアロームも、中団より後ろの12番手を追走する。
上位人気馬が先行集団に絡んでいかなかったこともあり、前半3ハロン通過33秒1は、スタート後4コーナーまで緩やかな下りが続く小倉競馬場の1200m、特に重賞のペースとしては少し遅めだった。4コーナーで、ベルカントやエピセアロームをはじめとする中団から後方につけていた馬たちも徐々に進出を開始するが、先行集団は依然として楽な流れのまま直線を迎える。
まず、2番手のメイショウイザヨイが先頭に立ち、そこに前目の最内でじっくり脚を溜めていたリトルゲルダが外から襲いかかる。しかし逃げたアンバルブライベンもしぶとく粘る。
人気馬2頭は伸びてきているものの、楽をしていた先行3頭との差がなかなか詰まらない。かわりに3頭に迫ってきたのは、道中は最内ぴったりをロスなく回って、後方を追走していた馬の中ではどの馬よりも早くポジションを上げてきていたカイシュウコロンボだ。
残り100mを切って上位争いはこの4頭に絞られ、どの馬が脱落するかの我慢比べとなる。
しかし、最後はリトルゲルダとメイショウイザヨイがわずかに抜け出し、白熱の叩き合いとなった末にゴールイン。写真判定の結果、わずかにハナ差だけリトルゲルダが制していて、これが嬉しい重賞初制覇となった。
2着のメイショウイザヨイは13番人気、3着カイシュウコロンボに至っては17番人気で、3連単は3,953,810円という大万馬券の決着となった。
この勝利によりサマースプリントシリーズで10ポイントを獲得したリトルゲルダは、前走のアイビスサマーダッシュ4着で獲得した3ポイントと合わせこの時点でシリーズトップに立ったが、翌週に行われたキーンランドカップを制したローブディサージュに一時は逆転されてしまう。しかし、北九州記念からわずか中2週で行われたシリーズ最終戦のセントウルステークスに参戦すると、GⅠ2着馬ハクサンムーンなどを相手に返す刀で連勝し、文句なしに2014年のサマースプリントチャンピオンに輝いたのだった。
その後は、香港スプリントに遠征するなど9戦するも勝ち星を挙げられなかったリトルゲルダ。
2016年のシルクロードステークスを最後に現役生活に別れを告げ繁殖にあがると、オルフェーヴルとの間に生まれた初仔のリヴェールが、2020年4月福島の3歳未勝利戦で記念すべき産駒初勝利を挙げた。
続くディープインパクトとの間に生まれた2番仔も、2018年のセレクトセール当歳市場で税込7,776万円の高値で取引され、昨年ダイワメジャーとの間に生まれた3番仔も、2020年のセレクトセール1歳市場で税込3,630万円で落札されている。
さて、冒頭で述べた三大始祖であるが、確かに現在はゴドルフィンアラビアンとバイアリータークを父系に持つ種牡馬の産駒は大変に少ない。しかし、コントレイルのように母系や、もしくは父系の母方(父の母の父など)にこれらの血を持つサラブレッドは今も数多く存在する。
例えば、ドリームジャーニーやその弟のオルフェーヴル、そしてゴールドシップの産駒はいずれも、父の母の父がメジロマックイーンであり、これを遡るとバイアリータークにいきつく。
コントレイルは、前述のように母ロードクロサイトの母の父Tiznowの血統を遡るとゴドルフィンアラビアンに辿り着くが、さらにその血統表を見ると、リトルゲルダと同じくUnbridled's SongやStorm Catの名前も見てとれ、同様にアルジャンナの血統表にもStorm Catの名を見つけることができる。
これら2つの異系の血は、数が少なくなってもなお、1頭のサラブレッドを「超一流の名馬」へと後押しする重要な役割を担っているのである。
「三大始祖」、恐るべしといったところだろうか。