837人の拍手で迎えたサリオス&ルメール騎手。コロナ禍で開催された2020年の毎日王冠を振り返る

2020年春の悪夢

 それは、2020年の春に訪れた惨事だった。

コロナ禍という未曽有の災難が全世界に降りかかり、全ての生活サイクルがストップした。渋谷も新宿も街から人の姿が消え、朝の山手線もガラガラで運行する事態。先の見えない不安が漂い、毎日夕方に発表される感染者数が時系列で増えていく事に、絶望感さえ感じる状況。そしてコロナ禍は、人類の全ての楽しみをはく奪した。祭り、イベント、スポーツなどの開催中止だけでなく、ささやかな社会行事や学校行事さえも奪い去った。人と接すれば感染が拡大する可能性が高まる。強制的に仕事も学校もリモート対応となり、人間にとって大切なコミュニケーションも寸断された。

 全ての流れが止まる中、中央競馬と地方競馬だけは開催を続けた。ただし、無観客開催という想像もつかない形態で、ウインズも閉鎖。馬券はネットで購入し、観戦はテレビ中継のみという制限付き開催だった。慣れない観戦スタイルに戸惑い、何の制限も無く自由に競馬を毎週楽しめたコロナ禍以前の時代が羨ましくてならなかった。

 今は、新型コロナ感染症も5類感染症に移行。政府が一律な感染対策を求めることも無くなり、元の自由な観戦スタイルが戻ってきた。特定のG1レース以外は制限なく入場できる今、コロナ禍で制限された中での「我慢の観戦」を忘れつつある。

 2020年春から秋まで続いた無観客開催と、それに従うしかなかった「我慢の観戦」。自由に競馬場に入れて心置きなく声援で応援できる、幸せな競馬観戦の今、不自由なあの時代のことを忘れないためにも、ここに記しておきたい。

先の見えないコロナ禍への不安

まさに「異様な風景」だった。

 ルメール騎乗のモズアスコットが優勝したフェブラリーステークスの翌週から、各競馬場から観客が消えた。テレビ中継で映し出される誰もいないスタンド。直線攻防で鞭の音が聞こえてきそうな静寂感のある画面を見ながら、その場所に行けない事への腹立たしさと悔しさを感じていた。

 今でも現地で見たかったレースと言えば、この年の皐月賞を真っ先に挙げたい。無敗の2歳G I馬同士の一騎打ち、共に無傷の3連勝で臨んだサリオスとコントレイルの戦いは、息を飲むような直線の攻防が展開された。体は自宅のテレビの前でも、心は完全に中山競馬場のゴール前。2頭の首の上げ下げにカメラのファインダーを向けているような気持ちで、テレビ画面にしがみついていた。

 このもどかしさは、開催が府中に替わっても継続されてしまう。結局、この2頭の春のクラッシックロードは、大歓声の中で開催される事無く、コントレイルの2連勝で決着する。静寂の中で無傷の二冠馬となったコントレイルと共に、牝馬のクラッシックロードでも無傷の二冠馬が誕生。デアリングタクトもまた、拍手と歓声の無いウイニングランを経験した。

 無観客開催は、春シーズンの開催が終了しても継続する。グリーンチャンネルの競馬中継が週末のリビングルームを独占するライフスタイルは、夏のローカルシリーズが始まっても続いた。暑くなるにつれ、一日の感染者数は天井知らずの伸び。7月29日には初めて1000人を突破、お盆を前に1500人ラインも超えてしまう。出口の見えないトンネルに苛立ちを感じながらも、自宅に留まることしか打つ手がない現状。お盆の帰省は自粛、「おうち縁日」「おうち居酒屋」など、家族が自宅で過ごす「普通じゃない生活スタイル」がどんどん日常化していく。

 夏の高校野球も、春のセンバツ大会に続いて地方大会から中止となり、東京オリンピックも延期が発表される。競馬開催だけが割りを食っているわけでは無いものの、納得いかない「おうち観戦」に甘んじるしか手は無かった。

 アブラゼミの鳴き声がツクツクボウシの声に変わり始めた頃、日々の感染者数に変化が見え始める。横這いで推移していた日毎の感染者数を示す棒グラフが、少しずつ減少に転じ、中山に開催が戻って来た9月になると、明らかに減少したと実感できるようになった。プロ野球の無観客開催は一足早く解除され、制限付きながら観客を入れた開催が戻っていた。

 中央競馬も、10月の開催から制限付きの観客動員が始まるとのニュースが流れた。もちろん、イベントの制限は5000人以下という政府の基準に基づく緩和のため、三冠のかかったコントレイル、デアリングタクトの現地観戦はプラチナチケットになると予想出来る。最大5000人としても、府中のG1時の入場人員からすれば1/10以下。いずれのレースも、もちろん土曜日であっても競馬場で観戦するのは至難の業になりそうだった。

 府中の入場再開週の日曜メインは毎日王冠。ここにはコントレイルに二度敗戦を喫したサリオスが出走を表明している。サリオス推しの私としては、何としても雪辱を晴らす秋の初戦を観戦したかった。

観客が戻ったスタンドと毎日王冠

2020年10月11日、私は約8カ月ぶりに京王線に乗った。当日に入場を許可されたのは1047名(指定席販売数・発表入場者数は837人)。8.3倍の抽選倍率を突破して、幸運にも2月のフェブラリーステークス以来の現地観戦が叶った。

 いつもなら特急に乗り、臨時停車する東府中で乗り換えて府中競馬正門前駅へ向かう。しかし通常開催でないこの日は当然東府中には止まらない。府中駅から競馬場に向かう人がほとんどいない歩道を歩いて、競馬場に向かった。

 8カ月ぶりの府中競馬場は、想像以上の静けさだった。スタンド内の通路にもフードコートにも人の姿は無く、売店も大半が閉まっている。スタンドに出ても立ち入り禁止区域ばかりが目立ち、当然ゴール前の柵にしがみついて写真を撮ることもできない。

「多分、今日は競馬場で言葉を発することは無いだろう」と思いながら、一列にひとりしか座れないスタンドの席に座る。それでも現地観戦できる幸せをかみしめ、妙に響きわたる鞭の音や騎手の怒号とも言うべき声を聞きながらレースを楽しんだ。

 毎日王冠の出走馬は11頭。日本ダービー以来のサリオスが1番人気となり、毎日杯を勝ち、日本ダービーで4着に健闘したサトノインプレッサが続く。以下、ダイワキャグニー、カデナ、コントラチェックなど重賞勝ち馬が顔を揃える。

 サリオスの単勝は1.3倍。G1朝日杯フューチュリティステークスを制し、皐月賞、日本ダービーでコントレイルに続いた栗毛の強さは、ここでは別格と評価されたのだろう。しかも鞍上にルメール騎手を迎えての一戦は、鬼に金棒の様相を呈している。

 パドックもルールに基づいたソーシャルディスタンスが徹底され、前後左右の距離を取った観戦となる。しかし、入場人員が1000人足らずの状況で、パドックを囲む人々はまばらな状態。制限ギリギリのところまで近づき、サリオスの登場を待つと、栗毛の体を揺らしながら私の前に近づいてくる。久しぶりに感じる馬たちの息遣い。静寂のパドックに響く馬たちの歩く音が心地よい。

 サリオスが近づいてくる毎に、私は空白の8か月分を埋めるくらいシャッターを押し続けた。

 まばらに点在する観客と静寂のスタンドに、ファンファーレが響く。どよめきも無く、実況アナウンサーの声が大きくはっきりと耳に入って来る。ゲートが開いても、いつものスタンドがドッと湧くことも無い。実況の声だけがスタンドに響き、スタンドで見ている観客はただ沈黙を守るという構図が続く。

 トーラスジェミニがまず飛び出し、コントラチェックとダイワキャグニーが追う。サリオスは余裕たっぷりにその後ろの4番手につける。ターフビジョンに映し出された、トーラスジェミニとコントラチェックが大きく引き離して逃げる画面にも、場内の反応は皆無・・・というか声を出せない。

 トーラスジェミニが3コーナーを回り、1000m57秒9で通過する中、サリオスは離れた4番手のまま。ルメール騎手の手綱には余裕さえ感じられる。4コーナーに近づくにつれ、先頭との距離は少しずつ詰まり始める。

 4コーナーを回り、直線に入ると、仕掛けたのはダイワキャグニー。逃げるトーラスジェミニとコントラチェックに並びかけると先頭に躍り出る勢い。サリオスはその外で馬なり追走しているが、先頭との距離はどんどん詰まって行く。

 サリオスは勢いが他の馬とは違った。先頭に並びかける間もなく、一気に突き抜ける。普通ならここで大歓声が上がりサリオスの背中を押すはずだ。しかし、サリオスに置き去りにされる馬たちの鞭の音が響き渡るだけで、「サリオスが出た」「サリオスが先頭」のアナウンス以外、人の声は聞こえない。

サリオスが先頭に立ち、追走するダイワキャグニーとサンレイポケットとの差がどんどん広がる。その時、スタンドの誰かが拍手をした。その拍手が連鎖してどんどん大きくなっていく。場内の1000人足らずの観客の拍手はリズムとなって、サリオスを讃える。ルメール騎手は拍手に気づいたのだろうか? 鞭を持つ右手をゴール前にもかかわらず、軽く上げて見せた。

サリオスは、ダイワキャグニーに3馬身の差をつけて、馬なりのままゴールインした。

 ゴール板を通過した各馬は、再びほとんど観客のいないスタンド前に戻って来る。最後に戻ってきたのは優勝したサリオスとルメール騎手。

 サリオスがゆっくりとスタンド前にやって来た時、申し合わせたわけでもなく、一斉に拍手が起こった。その拍手は大きく、アナウンスの声も無い静寂のスタンドに響きわたる。誰もが声を上げたいのを堪え、精一杯の拍手に声援を乗せて、サリオスとルメール騎手を讃える。

 拍手に気づいたルメール騎手は、地下道に入る前にサリオスを止め、スタンドに向かって大きく手を上げる。笑顔のルメールは何回も手を振って拍手に応えている。ルメール騎手の左手から、「応援ありがとう&おかえりなさい」のメッセージが届いたような気がした。

拍手は、サリオスの姿が完全に見えなくなってもスタンドに響き渡る。それは、競馬場で観戦できる幸せな気持ちと、少しずつ平常を取り戻し始めた安堵感も混じっているようにも思えた。

Photo by I.Natsume

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