雨の日の記憶は、どこか輪郭がぼやけている。
晴れの日とは、違う風景が見られるからだろうか。
晴れた日には見えるものが、雨に濡れて見えなくなったりするし、晴れた日には見えないものが、雨に流されて見えたりもする。
競馬観戦に限らず、誰しも出かけるときは晴れていてほしいと願う。
けれど、人の意思とは関係なく、時に雨は降る。
晴天を期待していた分だけ、雨が降った時の落胆は大きい。
それは、期待から失望へと感情が揺れたときの振れ幅と、同じなのかもしれない。
天候をコントロールすることができないように、日々浮かんでは消えゆく感情もまた、コントロールできないことは、似ている。
そして、一見するとネガティブな感情、あるいは降り出した雨が、あとから振り返ると「あれがあったからこそ」と思えることもまた、似ているのかもしれない。
怒りは生きる力を生み、孤独があればこそ人はつながり、失望からこそ人は立ち上がる。
同じように、雨の日には雨の日の美しさがあり、その日の記憶を彩る。
雨の日の競馬観戦もまた、趣き深い。
2021年現在は改修工事に入っているが、京都競馬場は、そんな雨が映える競馬場の一つであるように思う。
スタンドから眺める、名物の大きな池。
絶えずターフを見守ってくださる、馬頭観音。
淀に咲き、淀に散ったライスシャワー号の碑。
モチノキを囲む、特徴的な円形のパドック。
あるいは、歴代三冠馬の雄姿が装飾された階段……。
雨に濡れる、京都競馬場のそれらの風景は、どこかやさしく、どこか幻想的だ。
それは、京都という地名に抱く情感と、無関係ではないのかもしれない。
2009年11月22日。
その京都に、私はいた。
京都競馬場で行われる年内最後のGⅠレース、マイルチャンピオンシップを現地で観戦するためだった。
昼過ぎから分厚くなってきた雲は、メインレースの一つ前の10レースのあたりから、小雨を落としていた。
晩秋の京都、各地の観光名所で色づいた紅葉もまた、雨に濡れているのだろうかと思った。
GⅠレース特有の喧騒と興奮が渦巻くスタンドで、私もまたその小雨に濡れたままでいた。
細かい霧のような雨に、視界はどこかやさしく、輪郭がぼやけていた。
ファンファーレが鳴り、秋のマイル王者決定戦のゲートが開く。
長い向こう正面を使っての先行争い。
和田竜二騎手のマイネルファルケが先手を主張し、前年の皐月賞馬・キャプテントゥーレと川田将雅騎手、短期免許のクリストフ・スミヨン騎手が鞍上のヒカルオオゾラも前につける。
さらには人気上位のザレマ、さらにはフランスから参戦のサプレザとオリビエ・ペリエ騎手、あるいはイギリスのエヴァズリクエストも前へ。
そのすぐ後ろのインコースで、1番人気のカンパニーと横山典弘騎手は悠然と追走していた。
GⅠ出走14戦目にして初めて背負う、堂々の1番人気。
この2009年秋のカンパニーの充実ぶりは、8歳にして恐るべきほどだった。
3歳から頭角を現し、毎年重賞を勝つなど、大きな故障もなく走り続けてきた、歴戦の古豪。消耗の激しいマイル・中距離戦線で、長く一線級の力を維持し続けるタフさは、特筆すべきものだ。
しかしGⅠレースとなると、いい脚を使うものの、差して届かず掲示板が精一杯という展開が多く、メイショウサムソンが勝った2007年の天皇賞・秋の3着が最高着順だった。
それが、どうだろう。
この2009年、8歳を迎えた秋に、カンパニーは覚醒したかのごとく快進撃を始める。
この秋初戦のGⅡ毎日王冠で、逃げたウオッカを差し切り勝利をあげる。
さらに本番のGⅠ天皇賞・秋でも、前を行くスクリーンヒーローを中団から差し切り、ウオッカの猛追も凌いで、悲願のGⅠタイトルを掌中におさめた。
通算34戦目、そしてGⅠ挑戦13度目の戴冠。
8歳での平地GⅠ勝利は、中央競馬史上初の快挙だった。
この天皇賞・秋の勝利により、翌年も現役を続行する予定が変更となり、次走のマイルチャンピオンシップでの現役引退、種牡馬入りすることになっていた。
8歳にして最盛期を迎えた、カンパニー。
レースの直前から降り出した雨は、カンパニーの引退を惜しむ涙雨か、それとも種牡馬としての旅立ちに向けた祝い雨か、どちらだったのだろう。
いずれにしても、淡い霧のようにも見えたその雨は、どこか、やさしかった。
馬群の好位に構えたカンパニー、その鹿毛の馬体は鞍上の横山典弘騎手としっかり折り合い、前を見据えていた。
馬群の後方からは、アブソリュート、スマイルジャック、あるいは3歳馬のサンカルロといった関東勢が追走し、末脚に賭ける。
半マイル通過は47秒2と、GⅠのマイル戦にしてはスローペースで3コーナーの坂を通過していく。
直線を迎えて、マイネルファルケが先頭のまま、馬群が広がる。
外からキャプテントゥーレ、そしてサプレザも追い込んでくる。
しかし、内からカンパニー。
中団のインからロスなく進路を取った横山典弘騎手、その左鞭に応えて、カンパニーは伸びた。
一歩ずつ、しかし確実に、逃げ粘るマイネルファルケを追い詰める。
刻んできたキャリアの重みと、報われなかった挑戦の痛みが、その末脚に力強さを宿しているようだった。
カンパニーが差し切り、ラストランをGⅠ・2勝目で見事に飾った。
粘ったマイネルファルケが2着に粘り、外から脚を伸ばしたサプレザが3着に入線した。
まさに8歳のいまが充実期、あるいは最盛期を迎えたような、カンパニー。
長い
入線後の横山典弘騎手に、派手なガッツポーズはなかった。
小雨とはいえ、雨の中でのレース。鞍上での淡々としたその姿は、無事にレースを終えた愛馬への気遣いと、最後の大仕事を終えた安堵のように思えた。
初めてGⅠで1番人気を背負った、現役最後のレース。
そのレースを、堂々と制したカンパニー。
雨に濡れるスタンドからは、惜しみない賛辞が送られていた。
その記憶は、雨とともにどこかぼやけて、どこかやさしい。
止まない小雨は、去りゆく勇者を惜しむ涙雨だったのか、それとも種牡馬としての旅立ちへの祝い雨だったのか。
その、両方だったようにも思う。
2009年、マイルチャンピオンシップ。
長い旅路を歩んできた8歳馬、カンパニー。
改修前の、京都競馬場。
雨とともに思い出すラストラン、最後の豪脚。
写真:Horse Memorys