「あぁ、もうじき春なのか」
競馬を趣味にしていると番組表のレース名で季節の変わり目を感じる人も多い事だろう。
どのレースで感じるかは居住地などによっても違うだろうし、人それぞれだと思うのだが、私の場合はこうだ。
「金杯。新年なんだなぁ」
「中山記念。もうじき春なんだぁ」
「桜花賞。桜も満開、もうじき緑の季節か」
「日本ダービー。ホースマンの世界では明日から新たな1年か」
「関屋記念。夏真っ盛りだな」
「京王杯AH。いよいよ秋なんだよなぁ」
「ジャパンカップ。秋も終わってもう冬か」
「有馬記念。さぁ、年末だ」
……といった感じだ。
今回は、中山開催の到来を告げ、春の雰囲気を感じさせる中山記念を振り返ってみたい。
1957年以降、1988年を除き「中山競馬場 芝1,800m」で行われ続けてきた伝統の一戦。
なかでもこのレースで重賞初勝利をあげた3頭にスポットライトをあててみたい。
サイレンススズカ(1998年)
後世に残る伝説の逃げ馬「サイレンススズカ」
本馬の初重賞制覇は1998年の中山記念だった。
サイレンススズカは、このレースがはじまるまで──少なくとも私の評価は「未完の大器」だった。
もちろん、才能は大いに感じていた。1年前の弥生賞では信じられないような体勢でゲートの下をくぐり、レースでは10馬身以上の大出遅れ……本来ならばここでレースは終わっているのだが、彼は3コーナーの手前でグングン先頭集団にとりついた。ランニングゲイルがまくり切った後ろに、姿が見え始める。
「まさか……勝つのか?」
一瞬だが夢を見た。さすがに口向きも悪く直線で力尽きたが、レースがはじまった瞬間を考えれば末恐ろしさすら感じたものだ。
しかし彼は、GⅠの舞台で伸び悩んだ。
日本ダービーでは4番人気に支持されながら、距離を気にしてかサニーブライアンの後姿を追うだけの9着。
天皇賞(秋)では正攻法で挑むもエアグルーヴ以下に離される歯がゆい6着。
マイルチャンピオンシップではスピード力を評価され6番人気に推されるも、タイキシャトルから2.9秒も離された15着。
この段階では「GⅠの舞台では、まだまだ足りないかな」と感じざるを得なかった。
しかし、サイレンススズカは武豊騎手と出会った香港国際Cで圧巻の速さの逃げをみせ5着に粘る。
この時からシンデレラストーリー、そして誰も知る由もないエンディングへの時計が進み始めるのだ──。
1998年3月15日。前走のバレンタインSを圧勝したサイレンススズカが、単勝1.4倍で中山記念に登場してきた。
京都記念で復調の兆しを見せた皐月賞馬イシノサンデーや中山巧者ローゼンカバリーなど、少頭数ながら粒が揃ったメンバー構成。決して楽な相手ではない。
サイレンススズカは、そのレースでたしかに重賞初制覇を成し遂げた。しかし決して楽勝ではなく、道中で武豊騎手を背に、気持ち良く後続を引き離す逃げの競馬を披露しつつも直線ではモタれ、手前をかえる事にも苦労する辛勝だったように感じる。
「あぁ、この馬はやはり右回りはまだ苦しいんだな。天皇賞(秋)までにどれだけ力をつけるかな」
これが私の、偽らざる当時の本音だった。
しかし次走の小倉大賞典を機に、サイレンススズカは真のスターとして開花するのである。
左回りの中距離戦でこの馬ほど強い馬を私は知らない。令和になった今でも、そう思っている。
そんな名馬がなんとか手にした重賞初制覇が、中山記念なのである。
サクラチトセオー(1994年)
1996年の天皇賞(秋)を表現するときに、どちらの表現を使った方が良いだろうか。
- 小島太とサクラチトセオーの豪脚が唸り悲願のGⅠ初制覇を成し遂げた1996年の天皇賞(秋)
- 現役最強馬ナリタブライアンが12着に沈んだ1996年の天皇賞(秋)
どちらのファンの方にお話しするかで、表現が全く変わってくる。
サクラチトセオーと言えば「豪脚」のイメージが強い。
これはおそらく、95年に最後方からとんでもない追い込みを披露しハートレイクの2着に迫った安田記念のインパクトが影響しているのだろう。
そんなサクラチトセオーの初重賞制覇は、1994年の中山記念だった。
ひいらぎ賞で繰り上がり優勝を果たし、2戦2勝としたチトセオーはNHK杯3着、そしてウイニングチケットが制覇した日本ダービーで11着となったあと、故障もあり長い休養に入る。
年が明けると節分賞でプラス26kgの成長した姿を見せ、テレビ埼玉杯で上がり1位の末脚を披露し、格上挑戦で中山記念に挑んできた。
1994年3月13日、レース本番。3連勝の後に東京新聞杯2着のケントニーオー、岡部幸雄騎手を背に前走AJCC2着のフジヤマケンザンに続く3番人気に支持されたのだから、いかに前走のパフォーマンスが認められていたかが分かる。
ゲートが開く。サクラチトセオーは、道中でじっくりと脚を溜め、直線でラスト1ハロンからグッと伸びる切れ味を披露。そして待望の重賞制覇を達成した。そして、サクラチトセオーの才能はここで更なる開花を遂げる。それまで7戦して2回しか上がり3ハロン1番時計を記録した事が無い馬が、このレースを境に15戦して上がり時計1位を9回、2位を1回、3位を2回記録する事になったのだ。
サクラチトセオーはこの後1度も連勝をする事無く引退するのだが、それもまた印象に強く残るきっかけになったのかもしれない。
「ハマれば」圧倒的な豪脚を披露する荒武者。
そのスタート地点が、94年の中山記念だと思えてならない。
ローエングリン(2003年)
「縦縞の貴公子」。私は勝手に、ローエングリンのことをそう呼んでいた。
母がヴェルメイユ賞などGⅠを2勝しラムタラの勝った凱旋門賞でも走っていた名牝カーリング。
父は世界中を走り96年のジャパンカップなどGⅠを4勝したシングスピール。
その両親から産まれたのが、美しい栗毛のローエングリンだった。
ローエングリンは、デビュー戦を2着に敗れるも、中1週ですぐに勝ち上がりを果たす。東スポ杯2歳Sでは単騎で逃げる事が出来たが、直線で力尽き13着敗退。気を取り直して年が明けると1勝クラス(500万下)を快勝するも、スプリングSではタニノギムレットらを相手に6着に敗れた。
この段階では「良血のお坊ちゃん」で終わってしまうかと思っていたのも束の間、若草Sと駒草賞を制し、重賞未勝利ながら果敢にも挑んだ宝塚記念で3番人気に支持され3着に入線した。
飛躍が期待された秋だったが、神戸新聞杯14着、菊花賞16着と惨敗。しかしオープンクラスになると力が違うのか、暮れに挑んだキャピタルSとディセンバーSでは連勝を収めた。
距離なのか相手なのか、この段階では測りかねる存在だった。
しかし、東京新聞杯で2着になると潮目が変わり始める。
2003年3月2日。やはりファンの支持はローエングリンに集まり1.8倍の1番人気となる。
ゲートが開く。後藤浩輝騎手を背に涼しい顔で先頭にたつ。
しかし、問題はそこではない。直線に向いた時にかかっている。
いつものように後ろから怖い顔や圧力をかけられると、スッとひいてしまうのか。
それとも、闘争心を前面にだし突き放すのか。
──結果は後者だった。
2着には弥生賞、セントライト記念の勝馬バランスオブゲーム。
他にも道中で残念ながら故障を発生してしまったが前年のマイルCSの勝馬トウカイポイント。NHKマイルカップを制している同級生テレグノシス。そのマイルカップで2番人気のニュージーランドトロフィー覇者タイキリオン。同期の皐月賞2着馬タイガーカフェ。古豪ラスカルスズカ。そして、覚醒前とはいえ末脚の鋭さは当時すでに評判だったデュランダル。
それらのプレッシャーを跳ねのけ逃げ切り勝ちを果たしたのだ。
私の目には、このレースを機に「お坊ちゃん」から脱却したように映った。
そしてそれは間違いではなかった。結果的に国内外を走り続け48戦10勝。うち重賞4勝。
彼は決して坊ちゃん等ではなく、自身の努力が実を結んだ「貴公子」だったのである。
写真:かず、Horse Memorys