ウイニングチケット〜すべては、この熱き日のために〜

日本の、とある名騎手が言った。
「ダービーを勝てたら、騎手を辞めてもいいというくらいの気持ちで臨む」

その騎手は後年、ダービーを勝った。
さすがにすぐに騎手をやめることはしなかったが、リーディングジョッキーにも輝いたことのあるその騎手にそこまで言わせるダービーというレースは一体何なのだろうか──。


1780年、イギリスで創設されたダービーは、その創設者の1人であるダービー伯爵の名前からつけられた。日本ではこのダービーを模範として1932年に「東京優駿大競走」の名称で初めて施行される。

記念すべき第1回にワカタカという馬が優勝して以来、第二次世界大戦の影響で1945年と1946年の2度の中止はあったものの、これまでで89回を数え、多くのダービージョッキーが誕生してきた(2022年現在)。

普段は激しい感情をあまり表に出さない武豊が派手なガッツポーズを見せ、岩田康誠、川田雅将、福永祐一といった騎手たちが勝利した後に涙を流す光景は「ダービージョッキー」というものに対する彼らの想いの強さを感じることができる。
また、1985年には肝臓癌に侵され余命3ヶ月と宣告されていた中島啓之騎手が主治医に対し「このレースだけは、騎手の名誉だから」と嘆願してダービーへの騎乗を強行し、そのわずか16日後に逝去したというエピソードが残っている。このことからも騎手にとって──いや、ホースマンにとってこの“ダービー”というレースがどれだけ誇り高き大きな存在であるかということは想像に難くない。
ダービーというレースは、馬に携わるすべての人間の夢と言っても過言ではない。

1993年の日本ダービーは混戦模様だった。
弥生賞を制したウイニングチケット、前年の2歳戦を席巻し皐月賞で2着だったビワハヤヒデのクラシック大本命2頭に、その2頭を皐月賞で豪快に差し切ったナリタタイシンが加わっていわゆる三強の構図を呈していた。
ウイニングチケット、ビワハヤヒデ、ナリタタイシンが1・2・3番人気にそれぞれ並ぶ様子は皐月賞と同じだったが、皐月賞がそれぞれ2.0倍、3.5倍、9.2倍だったのに対し、ダービーに際しては3.6倍、3.9倍、4.0倍と非常に拮抗する値になっていたことからもその混戦ぶりがわかるだろう。

譲れない想いがあった。
ビワハヤヒデの岡部幸雄騎手はシンボリルドルフにダービーを“勝たせてもらって”以降、ダービーは未勝利。しかもビワハヤヒデに関して言えば、オーナーの意向とはいえ皐月賞を目前に若手の岸滋彦騎手から乗り替わりで手綱を任されていた身であり、皐月賞・日本ダービーの連敗は許されなかった。
ナリタタイシンを駆る武豊騎手もまた同じ。すでに天才と呼ばれていた彼自身も、この時はダービー未勝利。まして、後輩が主戦を降ろされたビワハヤヒデを相手に絶対に負けられないという強い気持ちが燃えていたはずだ。
ウイニングチケットに跨る柴田政人騎手もまた、強い思いを抱いていたに違いない。それまで騎手生活27年間で数々のレースを制してきた彼だったが、日本ダービーにおいてはこれまで18度の挑戦で3着が最高成績だった。
当時45歳という年齢を考えても、これだけの有力馬でダービーに臨むことができるのはおそらく“最後のチャンス”ではないかと、多くのファンは考えていた。

「岡部騎手は一度勝ったことがあるし、武騎手はまだ若いから今後もチャンスはあるだろう。ともすれば、今日は、このダービーは柴田騎手に勝って欲しい」

皐月賞を4着に敗れていたウイニングチケットが皐月賞馬とその接戦の2着馬を抑えて1番人気に支持されたのは、そんなファンの思いが表れていたのかもしれない。

15時30分、運命のスタートが切られた。
直後に一頭が落馬する波乱の幕開けだ。
皐月賞でも逃げて5着に粘ったアンバーライオンが先手を取って1コーナーから2コーナーをカーブする。
ビワハヤヒデが先行勢を前に見据えて中団の前目に付け、それを目標にするような格好でウイニングチケットがちょうど中団のインコース、皐月賞と同様に追い込みにかけるナリタタイシンは最後方を選択し、馬群の1番後ろにどっしりと構えた。

前半1000m通過は1分ちょうど。
アンバーライオンが淀みないペースで馬群を引っ張って行く。
ビワハヤヒデもウイニングチケットも、そしてナリタタイシンもまだ動こうとはしない。
3コーナーにかかったところで先行馬群が凝縮し、それに伴ってビワハヤヒデとウイニングチケットの位置が押し上がる。ナリタタイシンは2頭交わしたが、以前として先行勢からは離れた後方3番手を進む。
4コーナーに差し掛かる。
各馬が荒れた内目を避けて進む中、柴田騎手の手が動いた。ウイニングチケットが内埒沿いを通って先行集団に迫っていく。

4コーナーを回り切る。
最内に位置取っていたウイニングチケットがバラけた馬群を捌いて馬場の三分どころに持ち出されると柴田騎手の鞭が飛んだ。
直線の入り口、残りあと400mの標識を通過しようかというところから強気の早仕掛けで先頭に並びかけた。

堂々と先頭に立とうとするウイニングチケットの内から、道中は前にいたビワハヤヒデが一呼吸置かれてから岡部騎手と急追する。
その2頭の叩き合いを左手に見ながら、後方に構えていた皐月賞馬ナリタタイシンが馬群の間を綺麗に縫い、満を持して追い込んだ。

先頭を行くウイニングチケット、内を掬うビワハヤヒデ、外から追い込むナリタタイシン。
「人気の3頭の競馬!」
実況が叫ぶ。

柴田騎手が、懸命に鞭を入れて追う。
騎手生活27年目のベテランが、初勝利を目指す新人騎手のようにがむしゃらに馬を駆る。
何度鞭が入ったか、見当もつかない。
「我慢してくれ、頑張ってくれ」
そう叫びながら必死に追ったという。
『この想いは譲れない』
ウイニングチケット柴田政人騎手、ビワハヤヒデ岡部幸雄騎手、ナリタタイシン武豊騎手──。3つのプライドが真正面からぶつかった。

大歓声の中に実況の声が轟いた。
「ウイニングチケット! ウイニングチケット! 柴田、これが念願のダービー制覇!」
間髪入れずに実況が続ける。
「柴田政人勝ちました! 悲願のダービー制覇、ウイニングチケットで獲れました!」
熱狂の2:25.5、3頭の熱き戦いが世界を欲しいままにした。

勝ったのはウイニングチケットと柴田騎手。
半馬身差の2着にビワハヤヒデと岡部騎手、そこから1.1/4馬身差の3着にナリタタイシンと武騎手が入る、人気通りの決着だった。
そこからは「勝者の世界」だ。
他の馬たちが大歓声に沸くスタンドを横目にして帰る中、ただ一頭、芝コースを逆行し、噛み締めるようにして勝ち帰るウイニングチケットと柴田政人騎手。
全ての視線が彼らに注がれ、東京競馬場に詰めかけた約17万人の大観衆から「マサトコール」が沸き起こった。

レース後、勝利ジョッキーインタビューに招かれた柴田は「この喜びをまずは誰に伝えたいか?」との問いに対してこう答えた。
「世界のホースマンに、60回のダービーを獲った柴田ですと、報告したい」
19回目の挑戦でようやくダービージョッキーの栄光を掴み取ったその顔は、少し照れくさそうで、それでいて喜びと誇りに満ち溢れていた。

ウイニングチケットはその後、秋初戦の京都新聞杯こそ勝利したものの以降は6戦して未勝利に終わり、1994年の天皇賞(秋)を最後に屈腱炎を発症して現役を退いた。

実は、冒頭の「ダービーを勝てたら〜……」というセリフは1988年に柴田騎手の発言である。
柴田騎手はダービー制覇の翌年に落馬に見舞われ、その時の怪我がもとで1995年をもって騎手生活にピリオドを打つことになった。
結果としてウイニングチケットはダービーが唯一のGⅠ勝利となり、柴田騎手もダービー制覇から2年と経たずして引退となったことでウイニングチケットはファンの間で「柴田政人にダービーを勝たせるために生まれてきた馬」と呼ばれることもある。

ビワハヤヒデを「永遠のヒーロー」と慕う私にとって、それを2着に負かしてダービーを制したウイニングチケットは、ヒールとまでは言わずとも「宿敵」と言っても過言ではない馬だ。
初めて会いに行った時の北海道旅行も、あくまでビワハヤヒデに会いに行くことの方がメインで、ウイニングチケットはその“ついで”に過ぎなかった。
しかし、どうしてだろう。今では毎年必ずウイニングチケットに会いに行く自分がいる。

2020年、ナリタタイシンとビワハヤヒデが続けてこの世を去った。1990年のオークス馬エイシンサニーも亡くなった今、ウイニングチケットは存命の最年長クラシックホースとなった。
彼自身も2022年で32歳と非常に高齢ではあるが、その瞳の奥底には1993年の日本ダービーのあの直線での闘志が宿る。

年老いた今もなお、独特の風格を帯びているのはダービー馬のダービー馬たる所以に違いない。その元気な姿を見る度に、私はあたかも1993年にタイムスリップしたかのような気持ちになるのだ。ウイニングチケットは永遠に“第60代東京優駿日本ダービー馬”であり、1993年クラシック世代の誇りだ。
そしてその誇りは今も、浦河の大地に気高く燃え続けている。

あれから29年が経った。
今日、晴天のもとで行われた第89回東京優駿日本ダービー。
2019年生まれのサラブレッド7522頭の頂点に立ち、「ダービー馬」の称号を手にしたのはドウデュース。
あの日、ウイニングチケットの後ろで涙を飲んだ武豊騎手は、2歳王者にも輝いた相棒を見事なエスコートで勝利に導き、前人未到の日本ダービー6勝目を成し遂げた。
2年ぶりに大勢のファンに見守られたダービーは、素晴らしいレースになったと思う。

そして来年もまた、東京優駿日本ダービーはやってくる。
東京競馬場芝2400mを舞台にして繰り広げられる、時間にしてわずか2分半にも満たない物語。
その生涯でたった一度、3歳の若駒のうち、選ばれし18頭だけが立つことを許された夢舞台。
騎手、調教師、厩舎スタッフ、牧場スタッフ、生産者、オーナー、ファン、馬に関わる全ての人の夢を乗せて、たった一つの栄光を追い駆ける。
2020年生まれのサラブレッドの頂点は、2400m彼方、栄光はただ一つ。

この想いは、譲れない。
いつの時代も“ダービー”は特別だ。
『すべては、この熱き日のために』

写真:ひでまさねちか

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