ステイゴールド。
今や押しも押されもせぬ大種牡馬として、競馬ファンでその名を知らない人はいないと思います。

その一方で最近では、彼の現役時代を知らないファンの方々も非常に多くなってきました。思えば彼のラストランは2001年12月。それから長い月日が経ちましたから、それも無理からぬ事でしょう。

ここでは、ステイゴールドが現役時の様々なエピソードをふまえて、彼の輝かしい実績を振り返ってみたいと思います。

ステイゴールドは、1994年3月24日、白老ファームで生まれました。
父・サンデーサイレンス。
母・ゴールデンサッシュ。

サンデーサイレンスは、社台ファームが社運をかけて米国から高額で購入した種牡馬です。私が1993年に社台ファームを訪ねた際、サンデーを直接見せていただきましたが、その際「この馬の仔が走らなかったら、うちは潰れます」と冗談めかして言われていたのを鮮明に記憶しています。
また、母であるゴールデンサッシュも、マイルチャンピオンシップなど重賞を4勝したサッカーボーイの全妹と、いわゆる超良血です。

そうした『良家のおぼっちゃま』として生まれたステイゴールドですから、当然ながら大きな期待を背負っていたわけですが、牧場時代は他の馬達と比べても非常に小さく、全く目立たない仔でした。

ただ、めちゃくちゃ負けん気が強く、そしてヤンチャ。小さいのに牧場ではボス的存在。
これはその後、彼の産駒にまで脈々と受け継がれていく性格でもあります。

その性格は、池江泰郎厩舎に入厩後も変わる事はありませんでした。池江敏行調教助手のお話では、初対面でいきなり吠えながら立ち上がる──騎乗してみると、少し歩く毎に何度も何度も立ちあがる、といったように、とにかく半端ない暴れっぷりだったようです。
驚いたことに、立ち上がってバランスよく3歩、4歩と二足歩行まで披露したとか。これは、腰の強さがあるからこそできる芸当で、ステイの素質の高さを示すエピソードの一つでしょう。

また、初稽古で坂路へ入れた際にいきなり馬なりで53秒台を叩き出し、厩舎スタッフ全員を驚かせたそうです。
いい意味でも悪い意味でも、人を驚かせるのが好きだったようですね。

こうして厩舎スタッフを手こずらせ、トレセン内で他陣営からも怖れられるヤンチャぶりを見せながらもきっちりと調教をこなし、1996年12月1日、阪神競馬場5R(芝2000m)で、ついにデビュー戦を迎えます。

鞍上はオリビエ・ペリエ。
1994年に始まった短期免許制度で来日していたフランスのトップジョッキーです。
ステイファンにとっては、2012年凱旋門賞で勝利寸前だったオルフェーヴルの夢を打ち砕いたジョッキーとして記憶に新しいですね。
ステイ産駒の凱旋門賞制覇を阻んだ騎手が、ステイのデビュー戦の騎手……なんだか不思議な因縁を感じます。
そんな名手を鞍上に選んだ事からも、陣営の期待度の高さがうかがえました。

当日、ステイは3番人気。同じサンデー産駒で、女傑ロジータを母に持つオースミサンデーに1番人気は譲ったものの、高い支持をうけます。
レースは中団7番手あたりにつけ、抜群の手応えで直線を迎えますが、馬群に前が壁になった分、一瞬抜け出しが遅れてしまいます。上がり最速の末脚で追い込んだものの、惜しくも0.1秒差の3着。
ただ、4着には3馬身差をつけており、次走は確勝と思える内容でした。

2戦目は中3週あけて12月21日、デビュー戦と同じく阪神芝2000mで、鞍上も同じくペリエ騎手。
前走で1番人気を譲ったオースミサンデーも出走してきましたが、今回はステイが1番人気。前走の内容をみても当然と思えました。

ところが、この日は道中行きっぷりが悪く、結果的に何と勝ち馬から6秒差、ブービーからも大差の最下位(16着)と大敗してしまいます。
原因はソエを痛がっていた事だったようなのですが、異変を感じたペリエ騎手が3角手前で止めようとしたにもかかわらず、ステイは全く指示に従わず、ゴールまで走りきったのだとか。凄い闘争本能ですね。

ペリエ騎手は、ステイの事を「He is Crazy!」と叫んだ事があると聞きましたが、このレースの話を聞けば、彼の気持ちも十分に理解できます(笑)

ソエが完治した2か月後。
年が明けた1997年2月15日京都、最初で最後となるダート戦1800mで3戦目を迎えますが、ここでもまた、とんでもない負け方をすることになります。
帰国したペリエに代わって、鞍上は熊沢騎手。このレース以降ステイの長い相棒となるジョッキーです。前走最下位かつ初ダートにもかかわらず、単勝1.9倍の断然1番人気に推されます。

レースが始まると、道中は何事もなく順調そのもの。そして4角、手応え十分だったため、熊沢騎手は外を回して勝負に出ます。しかしその瞬間、ステイは観客席方向へめがけて突進……逸走し、熊沢騎手は振り落とされ、落馬による競走中止となりました。2戦連続でド派手な負けっぷりを見せてくれました。ある意味、ステイゴールド伝説の幕開けとも言えるレースかもしれません。

この競走中止により、3週間の出走停止、調教再審査の処分を受けたステイゴールド。
熊沢騎手は毎日のようにステイの調教に乗り気性難の矯正に努め、陣営はハミをスライドピットに替える等、あらゆる工夫・努力をしたといいます。そしてその結果、調教再審査は一発でクリアしました。
特にスライドピットは劇的効果があったようで、これ以降、調教でもまっすぐ走るようになったステイの成績は、一気に安定するようになります。

3月、4月に出走した未勝利戦で、ともに差のない2着と好走して迎えた6戦目。1997年5月11日、初の東京競馬場、芝2400m。記念すべき初勝利を飾ります。
4角を馬なりで先頭に立つと、直線は後続を一気に引き離し、これは楽勝かと思った瞬間……左にササり出し、一気に後続に差を詰められます。それでも3/4馬身凌いで、念願の初勝利を手にします。前週同条件で施行された青葉賞(GⅢ)よりも0.8秒も上回る好時計で、素質馬がようやく軌道にのってきました。

そして1ヶ月後の6月7日、中京競馬場・芝2500mのすいれん賞に臨みます。
この日も当然のごとく1番人気に推されたステイゴールドですが、道中スローペースで折り合いに苦しみます。熊沢騎手が馬込みに入れてなんとかなだめますが、今度は3角過ぎでペースが上がるとついていけず、激しく手が動きムチまで入る始末。後方にいた馬にも抜き去られ、誰が見ても上位入線は難しいと思われました。
ところが熊沢騎手が一か八か4角を最内のラチ沿いを狙って進出すると、あれだけ手応えが悪かったにもかかわらず、最内を矢のような伸びで一気に突き抜け、結局2着馬に1馬身1/4差をつけて見事2連勝を飾りました。なんだか、一瞬やる気をなくして、直線だけやる気を出したような、ファンをハラハラさせる彼らしい勝利だったかなと思います。

次走のやまゆりSでは、3角で他馬に寄られバランスを崩す不利がありながらも、上がり最速で4着に食い込むまずまずの内容。

ここで初めて約2ヶ月間隔をとり、次走は9月6日・札幌・芝2000m。
ステイゴールドファンなら絶対に忘れられないレース「阿寒湖特別」を迎えます。
道中は中団につけ、4角手前から一気に2番手まで進出、直線はあっさりと逃げ馬をとらえるとそのまま抜け出し、着差以上の完勝。
初の古馬勢との対決をあっさりクリアし、上がりも3戦連続で最速をマーク。
末脚の素晴らしさも定着した感がありました。

さて、このレースが何故ファンの記憶に焼き付いているのか。

それはステイゴールドが、このレース以降、4勝目をあげるまで、約2年8ヶ月にも及ぶ長い長いトンネルに突入することになったからです。

ただ、このトンネルを抜けるまでに、彼が「愛さずにはいられない」存在となり、多くのファンを生む要因となった数々の名勝負が生まれます。
そういう意味ではファンにとって、何度も何度も悔しい思いをしながらも、ステイと一緒に楽しい想い出を重ね、彼を愛する想いがどんどん深くなっていった……そんな貴重な2年8ヶ月だったとも言えるでしょう。

阿寒湖特別の勝利により、当然ながら菊を意識した陣営は、次走を菊花賞トライアルの京都新聞杯(GⅡ)に決定。
記念すべきステイの重賞初挑戦となりました。
さすがに人気はこれまで通りとはいかずに7番人気でした。その低評価に反発するように、4角6番手から直線では「一瞬勝てるか?」という程の鋭い伸びを見せ、後の菊花賞馬マチカネフクキタルから0.4秒差の4着と大健闘します。惜しくも菊花賞の優先出走権は逃しましたが、この年の菊花賞は登録馬が少なく、賞金順で出走が叶います。

その菊花賞では、着順こそ8着だったものの直線はしっかりと内から脚を伸ばし、勝ち馬とは0.5秒差。初GI挑戦としては上々といえる結果でした。

菊花賞の4週後、ステイゴールドにとって運命的な出会いが待っていました。
次走に選ばれたのは、1600万下のゴールデンホイップトロフィー(阪神芝・2000m)。このレースは、ワールドスーパージョッキーズシリーズ(現・ワールドオールスタージョッキーズ)の最終戦でもありました。このシリーズは、ご存知の通り世界の名ジョッキーがその腕を競うレースで、騎乗馬は抽選で決定します。そしてステイゴールドを引き当てたのが……後に最強のパートナーとなる、天才・武豊騎手だったのです。

武豊騎手は調教には乗らず、レース当日がステイとの初対面。
パドックで騎乗してすぐに「気性が悪い馬だな」と感じたそうですが、それがレースでも出てしまいます。
レース中、外から馬体を併せてきた馬に、なんと噛みつこうとしたそうです。
まさにステイらしい闘争心ですね。
結果は、直線で一瞬外へ持ち出すロスがあった分、クビ差の惜敗となりました。武豊騎手は、「常に怒って走っていて、集中していない中でもこの結果。また乗せてほしい」と思っていたようですが、それが実現するのは、まだ遠い先の事になります。

この後、格上挑戦の万葉S、適鞍の松籟Sと出走しますが、ともに直線一旦完全に抜け出しながら、ゴール寸前でハナ差差し切られて2着という内容で、2着地獄の連鎖は続いて行きます。

レースの格に関係なく相手なりに走るステイを見て、陣営は再び格上、しかも重賞のダイヤモンドS(GⅢ)出走を決めます。ハンデは54キロと手頃であった事も出走決定の要因だったのでしょう。ただ、レース当日ステイの馬体重はマイナス12キロ。
デビュー以来最低の410キロでの出走となり、これはちょっと苦しいかも……と感じていたのが正直なところです。格上挑戦にもかかわらず3番人気に支持されたステイ。
レースでは4角を5番手辺りで回って直線でも手応え十分。馬場の真ん中から一気に抜け出し「やった!」と思った瞬間、またも万葉Sでハナ差屈したユーセイトップランの強襲にあっての2着。悔しいと思いながらも……相変わらずの結果を少し微笑ましく感じるようになったのは、この頃からかもしれません。

そして、重賞で2着となり賞金加算されてしまったことでオープン入りとなり、このレースから引退まで、全て重賞を走る事になります。

1ヶ月後の日経賞(GⅡ)では、4角で他馬と接触、直線は進路がなく外へ立て直す不利もあって4着。

そして再びGIの舞台、春の天皇賞へ駒を進めますが、この時はメジロブライト、シルクジャスティスの2強が抜けており、日経賞4着のステイは10番人気と低評価。
ファンも「さすがにここでは荷が重い」と考えていた人が多かったと思います。
しかし「どんなレースでも相手なりに走れる」ステイの力は天皇賞という大舞台でも発揮されます。道中1F13秒台が4度、14秒台が1度の超スローペースにも完璧に折り合い、直線を向くと素晴らしい脚でメジロブライト・シルクジャスティスの2強に必死に追いすがり、メジロブライトには及ばなかったものの、シルクジャスティスを交わし、ローゼンカバリーの追撃を凌ぎきっての2着。初のGI連対を果たしました。

このレースをきっかけに「シルバーコレクター」という愛称が定着し、「なんだか面白い馬だなぁ」とステイのファンになる人が一気に増えていくことになります。

天皇賞2着をうけて「初重賞制覇へ!」と臨んだ目黒記念(GⅡ)では、それまで重賞の連対経験がなかったゴーイングスズカの後塵を拝し、連対すら果たせず3着。
それでも陣営は次走にGI・宝塚記念を選択します。

目黒記念の結果で、天皇賞2着はフロックと判断されたのか、当日は9番人気でした。この年の宝塚記念は超がつくほどの豪華メンバー。重賞3連勝で既に「無敵」の域に入りつつあったサイレンススズカをはじめ、エアグルーヴ、メジロブライト、シルクジャスティス、メジロドーベル等々……きら星の如く輝くスターホースの中に入ると、ステイファンでさえ「さすがに今回は大敗かな……」と思わざるをえない状況でした。
そういう状況下で、ステイはファンすらも驚く激走を見せます。
1000mを58.6秒のハイペースで飛ばすサイレンススズカに対し、焦らずじっくり中団で追走。4角で一気に3番手まで進出し、直線は熊沢騎手のムチに応えます。サイレンススズカをあと一歩まで追い詰めますが、3/4馬身及ばず2着。またもメダルは「シルバー」にとどまりましたが、小さな馬体で並み居る強豪にも一歩も引かないレースぶりには、感動さえ覚えたものです。

夏場に栗東で入念に乗り込まれて迎えた秋初戦は、京都大賞典(GⅡ)。ここも強豪が揃いましたが、GIで既に先着している馬も多く、2番人気に推されたのも頷けました。ところが、期待を裏切る4着。またまたファンをがっかりさせてしまいます。そして何より陣営にとってショックが大きかったのは、この日の最終レースで熊沢騎手が騎乗停止となり、次走に予定していた天皇賞・秋に騎乗ができなくなった事でした。
ただ、ファンの間では名コンビが見られない残念さの他に「惜敗続きのステイに、違う騎手が乗ったらどうなんだろう?」という期待を持った人も多かったように感じます。

──果たして、誰が騎乗するのか。
そうしたファンの注目が集まる中、白羽の矢がたったのが、当時関東リーディング独走中の蛯名騎手でした。
これは彼の騎乗予定馬が故障してしまった事によるものでしたが、思わぬトップジョッキーの騎乗が叶い、ファンの期待度は高まります。

1998年11月1日、天皇賞・秋。後に「沈黙の日曜日」と呼ばれたこの日のレース。サイレンススズカが故障で競走中止という悲劇の中、直線抜け出したのは7歳馬オフサイドトラップでした。その外からステイが差し切る勢いで追い上げた瞬間、あのモタれ癖が顔を出し、内ラチに張りつくまで斜行、最後は全く追えない状態のまま2着入線となってしまいました。
勝てるレースだったのに、土壇場で悪癖が出ての銀メダル……心底悔しい一戦ではありましたが、府中に散ったサイレンススズカへの惜別の念が、その悔しさを上回っていました。

その後ジャパンカップでは1年ぶりに掲示板を外す10着と惨敗するも、11番人気まで評価を落とした有馬記念ではグラスワンダー、メジロブライトに続く3着。
相変わらずの善戦を続けながら、波瀾万丈だったステイゴールド・4歳の1998年が終わります。

ちなみに、4歳時のステイゴールドの成績は
GI   0-3-1-1
GⅡ以下 0-3-1-2
であり、GIでもGⅡ以下でも、同じように好走するも……なかなか勝ち切れない、という事が如実に表れた成績となりました。
そして、GI馬に匹敵する取得賞金を稼ぎながら、未だに「主な勝ち鞍:阿寒湖特別」は変わらない状況だったのです。

明けて1999年。
5歳のシーズンを迎えたステイゴールドですが、この年は彼にとってまさに「我慢の年」となります。10月の京都大賞典まで、一度も連対を果たせず、0-0-4-3の成績。その中にはGI・宝塚記念3着と彼らしさを見せたレースもあったものの、愛称は「シルバーコレクター」から「ブロンズコレクター」へと変わりつつありました。

迎えた秋の天皇賞。
昨年2着の舞台ではありますが、近走の不振と、GI馬5頭という強力なメンバー構成もあって、過去最低の12番人気。これがステイの反骨心に火をつけたのか、素晴らしい走りを見せます。1000m58秒のハイペースを中団7番手あたりにつけ、直線はエアジハードと並んで抜け出します。エアジハードを競り落とし「とうとうやった!」と思った瞬間、外から疾風のように飛んできたのが武豊騎手騎乗のスペシャルウィークでした。並ぶ間もなく、クビ差交わされての2着。このレースは間違いなく、ステイが国内GI制覇に最も近付いた瞬間だったでしょう。いつも冷静な熊沢騎手も「さすがにあの時はがっくりきた」と後に語っています。

その後、5番人気と評価を戻したジャパンカップでは6着。続く有馬記念では10着惨敗。
相変わらず好走・凡走を繰り返しながら、前年に続き1999年も未勝利に終わってしまいます。もちろん未だに「主な勝ち鞍・阿寒湖特別」のまま……。

明けて2000年、ステイは6歳となります。
種牡馬入りできるほどの実績もなく、当然のように現役続行となりましたが、前年末の連続惨敗を見て、私は「今年がラストイヤーかなぁ」という感覚を持っていました。
ただ、ファンの思い通りにいかないのがステイの真骨頂。年明け初戦のAJCCを2着、京都記念3着、日経賞2着と、平常運転のステイが戻ってきます。
ただし日経賞では、強敵・メイショウドトウに先着しているにもかかわらず、3戦連続2桁着順だったレオリュウホウに逃げ切られるという、相変わらずわけのわからない(?)惜敗は続きます。

次走の天皇賞・春で好走も4着に敗れた時点で、陣営はついに苦渋の決断を下します。
それは、次走に予定していた目黒記念での「熊沢騎手降板、武豊騎手起用」でした。
この瞬間、3年以上続いた熊沢騎手とステイのコンビは終わりを迎えたのでした。
この年からGIの優先出走条件が「1年以内の重賞勝利」となった事も、陣営を決断させた一因だったのかもしれません。

そして、ステイにとって最初の転機となった2000年5月20日、目黒記念(GⅡ)。
当日は雨で芝は重馬場。トップハンデ58キロを背負ったステイには辛い条件と思えましたが、メンバー的にはそれなりに恵まれていました。同年のAJCCで完敗している岡部騎手騎乗のマチカネキンノホシが目下の相手と考える人も多かったように感じます。
レースは後藤騎手が騎乗するホットシークレットが1000m58秒7で大逃げを打ち、マチカネキンノホシは離れた4番手、ステイは定位置の中団につけます。直線に向くとホットシークレットが失速、一気にマチカネキンノホシが抜け出しますが、いつの間にかそのすぐ後方に迫っていたステイが内に切れ込みながら豪快な末脚を見せて突き抜けます。最後はまたも左にモタれながらも、マチカネに1馬身1/4差をつけての快勝!
ついに2年8ヶ月の長い長いトンネルを抜け、26戦目のチャレンジでついに重賞ウイナーの仲間入りを果たしました。

ステイがゴールした瞬間──土曜日、しかも雨にもかかわらず──詰めかけた約5万人の観客から地鳴りのように沸き上がった拍手と大歓声はまさにGI級。ステイがどれだけファンに愛されていたかを証明する出来事だったと思います。

そしてこの勝利は、サンデーサイレンス産駒の重賞100勝目というメモリアルな勝利でもありました。唯一の重賞勝利が父の100勝目とは、「実はステイは『持ってる男』だったのか?」と、初めて感じました。

また、忘れてはならないのが、陣営の決断に一発回答を出した武豊騎手の功績です。
本格化したステイの能力をしっかり引き出した騎乗ぶりは「さすが天才!お見事!」と言うしかありません。

この時点でファンの想いとしては、「重賞初勝利をきっかけに、今度は惜敗続きのGI制覇だ!」というのが当然の気持ちだったでしょう。
ところが、この後ステイはデビューして以来初めて、5戦連続で4着以下に敗れてしまいます。
天皇賞、有馬記念ともに不利はあったものの、やはり年齢からくる力の衰えも感じざるをえず、個人的には「目黒記念を勝って、燃え尽きたんだろうなぁ……念願の重賞制覇もできたことだし、来年はもう7歳。いい潮時じゃないかな」と、引退推奨派になっていました。

ところが、陣営の考えは違いました。
負けたと言ってもオールカマー以外は全て勝ち馬と1秒以内の差。ステイはまだ衰えていない、という判断で現役続行が決定します。

ただ、7歳になったステイがこれ以上輝かしい結果を残すなど、想像が難しいような状況でしたし、とにかく無事に引退して余生は種牡馬になれずとものんびりと……と思っていたのも、事実です。
サンデー産駒のGIウイナーが数多くいる中で、飛び抜けて種牡馬になれるほどの実績がなかったというのは、ファンから見ても明らかでした。

しかし、この現役続行の決断が、ステイの運命を大きく切り開く事になります。

2001年になり7歳となったステイは、有馬記念から中3週というタイトな日程で、1月京都の名物レース・日経新春杯(GⅡ)で始動します。鞍上はテン乗りの藤田伸二騎手。彼は事前にビデオ等で研究し、左にもたれる癖を出させないよう、左側のアブミを短くし、絶対に右ムチは入れない等、万全の対策をして臨みます。

前年秋の不振と、58.5キロのトップハンデが嫌われたのか、実績は断然にもかかわらず、まさかの5番人気。ステイファンにとっても、「本当にまだ衰えていないんだろうか……」と半信半疑で迎えた一戦でした。

ところが、スタートしてから今までになく行きっぷりの良いステイに、ファンはまたしても驚きます。予想外の3番手からの競馬となり、1番枠を生かして4角までは内ピッタリを回ってきます。
直線に入るとすぐに前が開き、すかさず藤田騎手が左ムチを入れると鋭く反応。一気に逃げるサンエムエックスを交わし、終わってみれば1馬身1/4差をつける完勝で、目黒記念以来の重賞2勝目となりました。この復活は、陣営の努力はもちろんですが、事前の対策も含めた藤田騎手の完璧な騎乗が大きな要因の一つでした。
こうして、ファンの心配は全くの杞憂に終わり「ステイゴールド健在」を見せつけてくれた事で、またここからGI制覇の夢を追いかける事になるとともに、重賞2勝目という実績がステイの運命を大きく左右します。

池江泰郎調教師は、次走に春の天皇賞ではなく、ドバイへの遠征を考えていました。
その一因は、同厩舎のトゥザヴィクトリーが、ドバイワールドカップへの遠征を決めていたことで「帯同馬としてステイゴールドを」という案が持ち上がっていた事にあります。
ただ、ステイが登録していたドバイシーマクラシック(当時GⅡ・芝2400m)からの招待状はなかなか届きませんでした。
最終的には、準備等を考えてギリギリの時期になんとか招待状が届くのですが、おそらく日経新春杯を勝った事が招待が決まった決め手になった……のだと思います。


つまり、日経新春杯の勝利がなければ、ステイの運命は全く違うものになっていたとも言えるのです。
「あの」ドバイに行けなかったのですから……。

勇躍・ドバイの地へ向かったステイですが、当時はトランジットを含めて約30時間弱の長旅でステイの馬体重は約30キロも減ってしまいます。しかもレース前日から全くカイバを食べなくなり、武豊騎手曰く「見るからに細くなっていた」状態でした。
池江泰寿調教助手も、厩舎で暗い顔で武豊騎手に謝っていたそうです。
そんなお世辞にもいい出来とは言えない状態で迎えたレース当日2001年3月24日。
奇しくもその日はステイの誕生日。


「何か起こしてくれるのでは?」という予感を持ちながらテレビ観戦していた事を、今でも鮮明に覚えています。

とはいっても──当時GⅡだったドバイシーマクラシックですが──出走馬には、世界のGIを制してきた強豪がずらり。
前年度エミレーツ王者で、後にこの年も2年連続で同タイトルを獲得、さらには欧州年度代表馬にもなった、地元UAEのファンタスティックライト。前年のコロネーションCで同馬を破ってキングジョージで3着、加えて香港ヴァーズを制したダリアプール。同年クイーンエリザベスⅡ世Cやアーリントンミリオンを勝つことになるシルヴァノ等々。「とても太刀打ちできないような豪華な相手だよなぁ……掲示板にのれれば凄い事だけどなぁ……」というのも、正直な想いでした。

ゲートが開くと、ステイは好スタートからファンタスティックライトのすぐ後ろの内にポジションを確保、そのままの馬群で直線に向きます。

ファンタスティックライトが満を持して抜け出すと、ステイは一瞬前が壁になったもののスペースが開いた瞬間に外へ持ち出し、シルヴァノと併せ馬の形でファンタスティックライトに迫ります。シルヴァノを振り切って豪快に伸びたステイは、一完歩ずつ差を詰め、ファンタスティックライトと並んだところがゴール。
肉眼ではどちらが勝ったか全くわからない状況でしたが、数分後、アナウンサーがステイゴールドの勝利を伝えた瞬間、もう頭は真っ白な状態で、「本当に?本当にあのファンタスティックライトに勝ったのか?」と……もちろん嬉しかったのですが、それよりもなかなか状況が飲みこめない自分がいました。

この勝利は、日本馬のドバイ初勝利とともに、サンデーサイレンス産駒の日本調教馬として国外重賞初勝利。そして何より、自ら最高のハッピーバースデーを演出するという、ドラマでも書けないような信じられない結末となりました。

当時、誰もが認める世界最強クラスの馬だったファンタスティックライトに勝利した事で、一気に種牡馬への道も広がります。
個人的には、これが一番嬉しかった事でしょうか。もちろん当時はまだ公式に発表されていたわけではありませんが、ステイの子供がまた応援できるかもしれないと思うだけで、ワクワクした気持ちがとまりませんでした。

そしておそらく、当時海外で一番有名な現役日本馬は、ステイゴールドだったでしょう。
これもまたファンにとっては最高の喜びでした。

こうなれば残るは国内GI制覇だ!と3ヶ月後の宝塚記念に出走。武豊騎手は当時フランスを主戦場としていた為、前年の有馬記念以来の後藤騎手を鞍上に迎えてのレースとなりましたが、安定の4着と敗退。国内GIの壁は高いままでした。

当時「ステイはいつでもGIを勝てる力があるのに、本気で走っていない」説を信じていた僕ですが「国内で、唯一ステイが本気で走ったレース」と、今でも言い続けているのが、次走の京都大賞典です。

結果的にステイは直線で斜行し、ナリタトップロードの進路を妨害、その結果渡辺薫彦騎手が落馬・ステイは失格となりましたが、あのレースは間違いなく、当時の日本最強馬・テイエムオペラオーをステイがねじ伏せたレースです──少なくとも僕の記憶の中では、そのようにインプットされています。故に「ステイが国内で唯一本気で走ったレース」と、今でもSNSでは事あるごとに書いています。

その後、天皇賞・秋ではご本人の希望で武豊騎手が騎乗し、7着と負けてしまいます。しかし直線に向いた時、武豊騎手は「もらった!」と思ったそうです。実際、4角最内を馬なり4番手で直線へ向いた時点で、手応えも抜群に見えました。さあ、ここで内から突き抜けるか……というところで、またまた悪癖が顔を出します。左のラチにへばりついて全く追えなくなってしまい、ズルズル後退。ラチを頼って走らせれば、左へもたれる悪癖は解消されると判断しての作戦が裏目に出た結果となってしまったのです。

レース後、池江調教師を筆頭に、厩舎スタッフは懸命にステイの悪癖矯正へ手を尽くします。次走ジャパンカップをはさんで香港へ遠征、香港ヴァーズ(GI)をラストランにする事が決まってぃした。

何としてもステイにGIの勲章をとらせるべく、厩舎一丸となっていたのでしょう。左ラチが好きなステイに対して、右にラチを置いての調教・左だけの片側ブリンカーの装着・ハミの変更……ありとあらゆる方法で調教を施し、次戦のジャパンカップを迎えます。

結果は4着でしたが、過去3回チャレンジして10・6・8着と全く結果を出せなかったレースで、7歳にして最高着順。
これは大健闘と言えますし、何より素晴らしかったのは、最後の直線でステイは馬場の真ん中から抜け出してきたのですが、左側に全く馬がいない状態でも左にササる事なく、真っ直ぐにゴール板まで走れた事でした。
この結果、陣営と武豊騎手は、「香港では勝てる!」という自信を持って、ラストランに向かうことになります。

香港への遠征はステイにとって2度目の海外遠征となりましたが、ドバイよりも短時間の輸送だった事で、今回は現地到着後もカイバ食いは落ちず、調整は順調に進みました。

そして2001年12月16日。
香港・シャティン競馬場。

いよいよ、ステイのラストランを迎えます。
出走馬中、ステイのレーティングは断然の1位。最後にして初めて1番人気の主役として出走するGI。
厩舎スタッフはもちろん、ファン全員が祈るような想いで見つめる中、ゲートが開きます。

地元香港のリティガドがスローで逃げる展開。ステイは後方10番手辺りの少し外目につけます。レースが動いたのは3角、ゴドルフィンの勝負服を纏った世界の名手L・デットーリ騎乗のエクラーが一気に後続を引き離しにかかります。それを見てステイも外目を好位まで進出したものの、直線を向いた時にエクラーとは7馬身差近く開いており、絶望的な差に見えました。他馬を振り切って2番手に上がり必死にエクラーを追いますが、抜け出して1頭になった瞬間、武豊騎手が左ムチを入れると、信じられない事に右にササり出し、あっと言う間に右ラチに接触するぐらい寄っていってしまいます。

この時点で残り約200m、エクラーとの差は5馬身。

多くのファンが「もうダメだ……ラストランも2着か……」と、完全に諦めたと思います。少なくとも、僕はそうでした。
ところが、ここで「ユタカマジック」がさく裂!
瞬間的に右の手綱を緩め、左の手綱をしぼって立て直しをはかると、ステイが手前を替え、信じられない脚で一完歩ごとにエクラーとの差を縮めます。

「頼む!届いてくれ!」全てのファンの想いを乗せたステイは、武豊騎手が「羽がついたようだった」と表現するほどの凄まじい末脚で、ゴール寸前にエクラーを差し切ってみせたのです。

涙・涙の大団円。
引退レースの最後の直線という土壇場で、今迄一度もなかった右へササる悪癖を見せ、ファンを諦めさせた上で大どんでん返しを演じる。
最後の最後までファンを驚かせる事が好きなステイらしい結末でした。
「日本産馬初の海外GI制覇」という、競馬史に永遠に残る勲章を得て、50戦にわたる長い長い彼の競走生活は終わりました。

思い返せば「シルバー・ブロンズコレクター」と言われ続けたステイですが、目黒記念で初重賞制覇をして以降は、一度も2・3着がないのです。最後の一年半は「頭あってヒモなし」という馬に変わっていました。
これもまた、ある意味ステイらしいエピソードかと思います。

翌年1月20日、冬晴れの京都競馬場で、ステイの引退式が行われました。
全国から多くのファンが詰めかけ、僕自身も、もちろんその場にいました。

ステイがキャンターでファンの前を駆け抜けると、僕の周囲にいた人達のほとんどが涙して「ありがとう!」「いいパパになれよ!」等、あたたかな声をかけていました。

ステイの馬名の由来となっている、ステイ―ビー・ワンダーの「Stay Gold」が流れ、場内が暖かい雰囲気につつまれる、素晴らしい引退式でした。
香港ヴァーズで、現地表記名としてステイにつけられた名前は「黄金旅程」。まさに彼が歩んできた道にぴったりだなぁと思ったものです。

しかし、彼の「黄金旅程」は、種牡馬になってさらに想像を絶するほど輝きを増すことになるのですが、それはまた別のお話。

(注)馬齢表記は現在の基準で表記しております。

写真:たまにゃん、golden voyage

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