1997年2月16日、この年に中央競馬史上初のダートG1に昇格したフェブラリーS。
その日は典型的な不良の泥田馬場だった。

直線半ば、コースの最内を通ったシンコウウインディがバトルラインを交わし切り、外から伸びる1番人気ストーンステッパーに勢い良く競り掛ける。

前年暮れのスプリンターズSを僅か1cm差で逃した熊沢重文騎手が外の本命馬、そして“老獪な名手”岡部幸雄騎手が内の馬の鞍上だった。立春を越えた東京競馬場は、やがて2頭の叩き合いを見守る観客の興奮で埋め尽くされた。

その瞬間、競馬場に詰め掛けていた多くの競馬ファン──あるいは息を凝らしてテレビ中継を見守る視聴者たちの、脳裏に浮かんだ“期待”……いや、“危惧”とは何だったか。

栄光のゴールまで、5秒程度展開された叩き合いの間に、こんな思いが日本中多くのファンの心の中で巻き起こっただろう。

「内にいるシンコウウインディが、ストーンステッパーに噛み付くんじゃないか?」

話は1996年の8月末に遡る。

この日の中山競馬場の準メイン・館山特別(中山ダート1800m)に、単勝オッズ1.9倍の1番人気の身で名を連ねていたのがシンコウウインディだった。

デビュー6戦目の4歳牡馬。

しかしながら距離条件が同じ前走のあさがお賞を楽勝した彼は、古馬を向こうに回して本命視されていたのだった。所属の美浦・田中清隆厩舎も、それを後押しする勢いがあった。

ところが、レースは意外な形で幕切れを迎える。
ゴール前、勝ちを確信したであろう田中勝春騎手が一転しておののいた。
道中好位から抜け出しを図るシンコウウインディと、内ラチ沿いを通って粘り込まんとする対抗評価の5歳馬ダイワオーシャン。

脚色は前者が上回っていたのだが、ゴールまであと少しというところで、突如シンコウウインディが内のダイワオーシャンに噛み付いたのだ。
当時気鋭の田中騎手も荒ぶる彼を制御できない。                     
急に減速したシンコウウインディは、結局クビ差の2着に敗れ去った。

「余裕があるのか無いのか分からないが、ゴール直前勝った馬に噛み付きにいった……」※1

目の前の白星をふいにした田中騎手は、こう言って肩を落とした。
勝ったダイワオーシャンの首には、痛々しい歯形がクッキリ残されていたという。
この館山特別以降、シンコウウインディは「4歳ダート戦線の問題児」として、世間の耳目を集めるようになる。

1996年当時は秋の4歳ダート三冠初戦として位置付けられていたG3・ユニコーンS(中山ダート1800m)。

このレースをバトルラインの1位降着からの繰り上がりで優勝した彼は、2冠目の大井・スーパーダートダービー(ダート2000m)に挑むも、やはり土壇場で1着馬サンライフテイオーに噛み付こうとして減速。2着に屈してしまう。

手綱を取った岡部幸雄騎手は「気性難が治っていない。(併走したサンライフテイオーに)食らい付きにいくくらいだからね」※2 と、憮然とした表情を浮かべた。続く三冠最終戦の盛岡・ダービーグランプリ(ダート2000m)では皐月賞馬イシノサンデーの前に差のある3着に終わり、長距離遠征への不安を示してしまう形となる。

4歳当時の彼は何かと話題を振りまいたが、精神的な未熟さが生んだこの人気は、陣営にとっていささか不本意とも言えた。
何しろ勝てたはずのレースを複数落とすのだから、出走させる方も応援する方も、双方堪らない。
その「噛み付きウインディ」の気難しさは、牧場時代から変わりが無かったという。

浦河・酒井源市牧場にて1993年4月に誕生したシンコウウインディ。

翌年、彼が2歳を迎えるとセリ市に出されたが、会場で彼を引っ張った関係者のジャンパーを噛みちぎってしまうなど、問題児ぶりは当時から遺憾なく発揮されていた。

この市場において、「シンコウ」の冠名で知られた安田修氏によって、890万円で彼は購買された。
一見安値なようだが、取り立てて期待されていなかった種牡馬デュラブの初年度産駒としては高額の部類だろう。

これは馬体のバランスの良さと丈夫さを買われた金額であった。

話を1997年……明け5歳を迎えた頃の彼に戻そう。
正月のG3・平安Sを、四位洋文騎手を乗せたシンコウウインディはトーヨーシアトルとの1着同着で制覇した。

この時初めて装着したブリンカーが功を奏した形となった。
黒一色の勝負服とお揃いの黒いメンコ、それに付けたブリンカーによって視界の両脇を遮ることで、シンコウウインディは覚醒した。

この頃、日本のダート界を牛耳っていたのは、“砂の女王”ことホクトベガだった。
2年前の初夏、川崎・エンプレス杯を推定18馬身差で大楽勝して以来、同馬は日本各地の競馬場を席巻し続けた。

その結果、地方交流重賞を中心にダート重賞10連勝。
当然、G1に昇格したばかりのフェブラリーSへの出走が期待されたが、8歳春にしてドバイワールドCへの遠征が決定。

それに合わせたローテーションということで、
壮行レースには2月5日の川崎記念が選ばれた。

こうして中央競馬初のダートG1は、大本命と目されていた馬を欠くことになった。

そして舞台は2月16日の東京競馬場である。

あの平安Sの4日後に施行されたG3・ガーネットSにて、怒涛の4連勝を飾ったストーンステッパーが1番人気に支持されていた。

以下、米2冠馬サンダーガルチの半弟という世界的良血馬バトルライン、平安Sでシンコウウインディと勝ち星を分け合ったトーヨーシアトル、芝砂兼用の強さを発揮するクラシックホース・イシノサンデー、芝短距離G1で3度の2着があるビコーペガサスが続く。

いわくつきの重賞2勝馬「噛み付きウインディ」は、そのすぐ下の6番手評価だったが、鞍上の岡部騎手は「この馬は本当にタフ。大した間隔も空けずにレースを使い続けてきて、それでいて力をつけているんだから立派なものだよ」※3 と、レース前、相棒に賛辞を送っていた。

浦和のエフテーサッチ、大井のアカネタリヤ、高崎のマリンオーシャンと、地方馬3頭もメンバーに名を連ねた中央G1・フェブラリーS。

府中のダートは午前中降った雨が残り、不良馬場だった。                                         

生まれ変わったフェブラリーSの門出を祝うには生憎の馬場状態のなか、ともかくゲートが開いた……。

「熊沢君の馬が内に寄ってきた時は少し心配したけど(笑)、横を向かずに馬もよく辛抱してくれた。ブリンカーの効果もあったようでした」※4 叩き合いの末、クビ差だけ競り勝った岡部騎手は、そう語った。

同騎手はG1・22勝目、管理する田中清隆師はこれがG1初制覇だった。

こうしてシンコウウインディは堂々のG1馬となり、5歳にして“ポスト・ホクトベガ”の座を手中に収めたのだった。

同年4月初め、不幸にも引退レースを全うし損ねたホクトベガは、異国の土へと還った。

一方のシンコウウインディは束の間の栄光から一転して不振を極めるようになり、5月のアンタレスSで5着、6月の大井・帝王賞で7着に沈むと、「体重調整のため」を名目に休養に入ってしまう。

約2年に及んだ長い休養の途中で脚部不安を発症した彼は、1999年6月の安田記念(13着)において何とか復帰を果たしたものの結局復調せず、同年9月の船橋・日本テレビ盃4着後に脚部不安を再発。そのまま引退が決定した。

オーナーが所有する門別・シンコーファームにて種牡馬入りしたものの、ダートG1を1勝したというだけでは種馬としての魅力に欠けたためか、牝馬は多く集まらなかった。加えてオーナーの安田氏が本業の経営不振により馬主登録を抹消したため後ろ盾を失う憂き目に遭う。

やがて2005年限りで種牡馬を引退。

まもなく富浜のダーレージャパンスタリオンコンプレックスに居を移し、アテ馬兼功労馬として余生を過ごすこととなった。

そして、彼が残した合計21頭の産駒の中から、血を継ぐようなレベルの活躍馬はついに登場しなかった。
一時的ながら人気を博したシンコウウインディの現役生活は尻すぼみに終わった。
とは言え、世に言う「問題児」からG1ウイナーに見事転身した彼の遍歴は大したものだろう。

噛み付き癖は、旺盛な闘争心の裏返し。

血筋は後世に残らなかったが、あのやんちゃだった「噛み付きウインディ」は、“G1・フェブラリーS”の初代勝ち馬として今も名を残す存在である。
後年岡部騎手は、かつての相棒シンコウウインディについてこう振り返っている。

「G1になって初めてのレースに勝てた、というのはやっぱり嬉しいもの。ダートしか走らない馬だったけど、面白い馬でしたね」※5

(馬齢表記は旧表記で統一)

※1「週刊Gallop」1996年9月8日号
※2「ハロン」1996年12月号
※3「週刊Gallop」1997年2月16日号
※4「優駿」1997年4月号
※5「Gallop臨時増刊・週刊100名馬25シンコウラブリイ」

写真:かず

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