日本で4月1日をエイプリルフール(四月馬鹿)と呼ぶようになったのは大正時代のことだという。
ジョークが苦手な日本人に「4月1日は嘘を楽しむ日」は浸透しにくかったようで、SNSなどで企業がエイプリルフールを戦略的に利用するようになった現代とはまったく違う世界が広がっていたようだ。かつては「不義理の日」と言われ、常日頃の不義理を反省する日だった。これは中国から伝わった風習がもとにある。エイプリルフールとは真逆の位置づけだったのは興味深い。欧米文化の影響とは摩訶不思議であり、植民地支配の経験もないにもかかわらず、これだけ他国から多くの習慣や文化を取り入れた国は珍しい。良くも悪くもこの国の基盤は軟らかい。
欧米の影響といえば日本の近代競馬はまさにである。そして日本近代競馬の歴史に間違いなくその名を刻んだ馬にテイエムオペラオーがいる。2000年は8戦8勝、GⅠ5勝のパーフェクト。世紀末覇王の異名の通り、20世紀最後の年、競馬界はオペラオー一色に染まった。
とりわけ最後の有馬記念は当時のカメラワークではオペラオーが最後の直線でどこを通って抜け出して来たのか確認できないほどの神業ぶり。ナリタトップロードもラスカルスズカもメイショウドトウもただの一度もオペラオーより先にゴール板に飛び込むことを許されなかった。
2001年4月1日産経大阪杯。
世紀末を我がものとした覇王が21世紀最初に出走したレースだ。たとえ21世紀の幕が開けようと、アンゴルモアの大王が幻だったとしても、覇王の世に変わりはない。休み明けを無難に勝ち、連覇と天皇賞3連勝をかけ、天皇賞(春)へ進むものと、誰もが疑っていなかった。オペラオーの単勝オッズ1.3倍は00年以降でもっとも低く、確勝級で敗れた99年ステイヤーズSの1.1倍に次ぐ低倍率だった。
しかし、誰もが疑う目を持たなくなったときこそ、競馬の神様がいたずらするときでもある。外枠から中団待機、4コーナー手前で進出し、2番手まで押し上げる形はこれまでオペラオーがライバルを打ち砕いてきた必勝の形。しかしアドマイヤボスに外からプレッシャーをかけられたせいか、手応えがこれまでとは違う。和田竜二騎手が手綱をしごいてなんとかオペラオーは4コーナー出口で2番手にとりついていた。
オペラオーをマークしていたアドマイヤボスとさらに後ろで狙っていたエアシャカールが外から襲いかかる。しかし、覇王はここからが強い。併せられると馬体の奥底から信じられない根性を湧きあがらせ、なにがあっても前へ出ることを許さなかった。2000年8連勝の最大着差は阪神大賞典と天皇賞(秋)の2馬身半差。圧勝はなくとも負けるはしない。オペラオーの単勝オッズが1倍台後半だったのはその辺が関わっていた。いや、そろそろ負けるでしょう。そんな声を封じながら1年間全勝を達成した。オペラオーはそんな馬だ。勢いではアドマイヤボスやエアシャカールが上回るも、オペラオーは捕まりそうになりながらしぶとかった。
そんなオペラオーを巡る攻防をあたかも無視するかのように大外から矢のように飛んできたのが安藤勝己騎手(当時)が駆るトーホウドリームだ。当時のテレビ映像は完全にオペラオーとアドマイヤボス、エアシャカールの攻防に集中しており、トーホウドリームはゴール直前で突然、画面の外から割り込んできた。その脚色や完全に内の3頭を凌駕しており、瞬く間に先頭でゴール板に飛び込んだ。
なにが起きたのか分からない。競馬場やウインズ、テレビの前にいたファンみんなが呆然としていた。
「嘘だろ」
トーホウドリームには失礼だが、正直に当時の心境を振り返ると、こうなる。なぜなら、この日はエイプリルフール。たとえ嘘をついてもいい日であっても、嘘のような真実をにわかに受け入れることができなかった。トーホウドリームは単勝オッズ9番人気73.4倍の大穴。それがオペラオーやアドマイヤボス、エアシャカールが止まって見えるほどの末脚を繰り出すとは。いったい、こんな結末、予想できた人はいたのだろうか。いや、いたから単勝オッズはつけられたわけだ。
トーホウドリームはオペラオーの1歳年下。エアシャカールやアドマイヤボス、アグネスフライトと同世代。父メジロライアン、母の父ノーアテンション。ノーザンテーストからアンバーシャダイ、ニジンスキーからグリーンダンサーといった血とムーティエ、ガーネット、トサミドリという日本の伝統的な血が混じりあった少し重厚なタイプ、それがトーホウドリームだ。
デビューは世紀末の中央競馬がはじまった2000年1月5日父内国産限定の新馬ダ1800m。9番人気6着。その前週の有馬記念当日にエアシャカールはホープフルSを勝ち、オペラオーはグラスワンダーとスペシャルウィークの壮絶な攻防の前に3着だった。トーホウドリームの初勝利は2000年2月小倉の未勝利戦。芝1200mだった。エアシャカールが皐月賞を勝ち、アグネスフライトと日本ダービーで死闘を演じた春には500万下を勝ちあがれず、2勝目は12月2日の中京芝1800m。その前週にオペラオーはメイショウドトウとファンタスティックライトを退け、7連勝目をあげ、年内全勝に王手をかけていた。
この冬シーズン、トーホウドリームは晩成の血を目覚めさせた。昇級2戦目にあたる2001年正月開催で稲荷特別を勝ち、1月最終開催で準オープンを突破した。オペラオーもエアシャカールもアドマイヤボスも激闘を繰り広げた秋の疲れを癒す間、トーホウドリームはオープンに駆けあがった。オペラオーがいない京都記念ではナリタトップロード、アグネスフライトの後塵を拝し、ベガの全弟マックロウの瞬発力に屈し、5着。密かに掲示板に載り、オープンで戦える手ごたえを得ていた。そこに笠松の雄・安藤勝己。馬を動かす力に長けたアンカツはトーホウドリームにとって最後のピースだったにちがいない。ダイナミックなアンカツの追いっぷりはトーホウドリームが内包していた末脚を見事に引き出した。
そしてトーホウドリームの産経大阪杯は以後、オペラオーを負かすヒントになった。オペラオーは馬体を併せると、真価を発揮し、競り合ううちに相手の体力も消耗させる。つまり、オペラオーは負かしに行ってはいけないのだ。無視するように出し抜けを食らわせるぐらいでないといけない。先に仕掛けて完封した宝塚記念のメイショウドトウ。アグネスデジタルの天皇賞(秋)やオリビエ・ペリエ騎手のマジックが冴えたジャングルポケットのジャパンCもトーホウドリームのようにオペラオーに付き合わず、外から一気にカウンターを浴びせた形だった。オペラオー攻略のヒントは自身がいかに無欲でいられるかにあった。倒そうではなく、自身の末脚をどこまで引き出せ、そして信じられるか。これぞまさに競馬の根幹であり、真髄だ。
2001年4月1日エイプリルフールに起こったトーホウドリームの激走こそ、競馬の核心に迫った瞬間であり、決して嘘のような真実ではなかった。いまにして振り返ると、そう思わざるを得ない。
写真:かず