[連載・片目のサラブレッド福ちゃんのPERFECT DAYS]そして、バトンは渡された(シーズン1-54)

12月の日高は朝晩の気温がマイナスに突入します。「道民にとって温かい1日ですよ」と慈さんは言いますが、昨日の東京は日中平均気温が12℃でしたから、さすがに寒く感じます。僕の弱い鼻も敏感に反応し、詰まり気味に。人間の体というものは、寒暖差に弱いと最近感じるようになりました。じわじわと寒くなったり、ずっと暑いのであれば体が順応して慣れるのですが、いきなり寒くなったり暑くなったりすると、体がその変化に追いついて行かずに、具合が悪くなってしまうのです。

NO,9ホーストレーニングメソドで10時から取材をさせていただくことに決まったので、碧雲牧場を朝7時30分に出発することにしました。日高から静内を経て浦河まで、海岸線沿いを辿る、2時間半の旅です。北海道は一つひとつの地名の間の距離が長く、新宿→渋谷→品川みたいな時間感覚では全く行かないのです。それでも文句ひとつ言わず、ドライブに連れて行ってくれる理恵さんには頭が上がりません。そしてまた、往復4、5時間の道中もトークが全く尽きないのも驚き(笑)。もしかすると、話しながら運転することが彼女のストレス解消のひとつになっているのかもしれません。

ゆっくりと安全運転で来たせいか、ほとんど道に迷うこともなく、NO,9ホーストレーニングメソドに辿り着きました。今回はサラブレッドの馴致について教えてもらいながら、来年デビューを目指して競走馬としてのトレーニングを始めた福ちゃんのお姉さんの様子を見せてもらうことが目的です。碧雲牧場を出て、いわば社会人デビューをした福ちゃんのお姉さんは元気にやっているのでしょうか。期待と不安が入り混じった複雑な気持ちです。

理恵さんは車中で待ってもらい、僕と木村さんはひとまず事務所で話をしました。最近は駆り立てるようにして馬をつくり、2歳のできるだけ早い時期からデビューさせようとする傾向が強くなっているが、木村さんとしてはその馬の成長に合った形で育成をしてデビューさせたいとのこと。無理をしてデビューさせて、新馬戦を勝ったとしても、それで脚元を悪くしてしまったり、尻すぼみになってしまっては意味がない。サラブレッドは命ある生き物という気持ちが根底にあるので、長い目で見て活躍できるように下地を作っていきたいと話してくれました。

僕もまさに同じ気持ちです。特に地方競馬は2歳戦の賞金が高いため、早くデビューできる方が効率良く稼げることは確かですが、そこがピークになってしまうことは恐ろしいです。競走馬としての馬生は3歳、4歳、5歳と続くものであり、2歳戦で心身ともに疲れ切ってしまった馬は、その後、何年間も苦しい状態で走り続けなければならないのです。気性的に前向きで、勝手に仕上がってしまうような2歳戦向きのタイプであれば、わざわざデビューを遅らせる必要はありません。人間でもませている子どももいれば、奥手の子もいるでしょう。ませている子を他の子と同じペースで進める必要はありませんし、その逆も然りです。その子たちの人生がトータルで最大化されるようなペースで、教育は施されるべきだと思います。

かつてグランアレグリアやペルーサなどの名馬を担当した渡部貴文調教助手にインタビューをした際、藤沢和雄元調教師はよく「競走馬は10回が限度」と言っていたそうです。それ以上レースに使うと馬が嫌になってしまうから、その10回をどう使うのかが重要なのだと。実際に馬に乗り、世話をしている渡部調教助手にとっても、藤沢先生の唱える「競走馬は10回が限度」は理にかなっている気がするとおっしゃっていました。

「競走馬は10回が限度」という言葉を聞いたとき、僕の頭の中にはかつて「春3走、秋3走」と語っていた藤澤調教師の姿が思い浮かびました。僕が最初にファンになったシンコウラブリイという牝馬がいます。彼女も大切に使われ、本当に春シーズンは3レースしか走らず、秋も3レースで切り上げてしまうのでした。まだ余力があるように見えても、あっさりと休養に入ってしまうのから驚きでした。デビュー戦からラストランまで、きっちりと3走ずつを貫いているのです。そのせいもあってか、シンコウラブリイは5歳になったマイルチャンピオンシップで見事に有終の美を飾り、余力を残してハッピーなままターフを去って行ったのです。当時はもっとシンコウラブリイの走りを見たいと物足りなさを抱き、もう引退してしまうのか、まだ走れると残念に思っていましたが、あれで良かったのですね。

競走馬が走らなくなってしまう原因の多くは、精神面の燃え尽きです。究極の仕上げが施され、極限の精神状態で臨むレースを10回も繰り返すと、馬が耐えられなくなり、競馬が嫌になってしまうのです。一旦、競馬嫌いのスイッチが入った馬は、レースに行って最後まで全力で走らず、むしろ速く走らせようとする人間に反抗するようになります。もちろん、脚元の怪我や故障など肉体的な理由で走らなくなることもありますが、それ以上に精神面が先に持ちこたえられなくなってしまう馬の方が圧倒的に多いはずです。走る馬であればあるほど頑張るため、1回走ることの精神的ダメージが大きく、その傾向は強いのです。

10回というのは極端で理想的に聞こえるかもしれませんが、僕たちが目指すところは、その10回をどのように輝かせるかです。その馬が生物的に有する肉体的、精神的なピークを10回のうちの真ん中ぐらいに持ってきて、できるだけ高くてなだらかな山にしてあげたい。3歳夏ぐらいからグッと成長を遂げる馬を、2歳春から無理矢理デビューさせても、成長の芽を摘み、燃え尽きてしまい、下手をすると2歳秋をピークにあとは下るのみになってしまう可能性だってあるのです。

サラブレッドを単なる賞金を稼ぐための経済動物として考えるのであれば、たとえその馬本来の能力を全て発揮できなかったとしても、生涯獲得賞金を最大化するためには2歳戦をピークに持ってくる方が良い場合もあるかもしれません。しかし、サラブレッドは命ある生き物ですから、心を壊した挙句、人間の使い捨てにしてしまって良いわけでもありません。僕としては、サラブレッドが経済動物であることは大前提として、その中でできる限りサラブレッドの幸せを願いたいのです。そのバランスを欠いてしまうと、偏った行き先に辿り着いてしまうのではないでしょうか。

生涯獲得賞金を考えたとき、できる限り早くデビューさせたい馬主の気持ちも良く分かります。前述したように、2歳戦の賞金が高いことが最大の理由ですが、もうひとつの理由として育成費用がかかることが挙げられます。1歳の8月から育成場に入ってトレーニングを始めたとすると、2歳の5月にデビューしたとしても、そこまでに約10カ月分の育成費用がかかっているのです。安いところでも月30万円ぐらいですから、最低300万円の経費がかかります。この10か月の間は、レースで走っていないので、賞金つまり収入はゼロです。デビューするまでの期間が長ければ長いほど、言い方は悪いかもしれませんが、ひと月30万円を垂れ流しつづけることになります。もちろん、競走馬になって良い走りをするための訓練をしているのですが、少なくとも馬主にとっては身を削られるように感じるのです。自分ごととして想像してみるだけで、できるだけ早くデビューさせて、回収モードに入りたい馬主の気持ちも少しは分かるのではないでしょうか。

ほとんどの馬主は待てないのです。それは気持ちに余裕がないということではなく、経済的に待てないということです。たとえば、500万円で購入した競走馬がデビューするまでに300万円で行けるのか、それとも2歳秋になってしまい450万円かかるのかは大きな違いがあるのです。これが1億円で買った馬であれば、数百万の違いであれば、その馬の成長曲線に合わせたベストな育成を施してデビューさせたいと思うでしょうが、ほとんどの馬たちはそうではないのです。馬代金以上に、月々の育成費や預託費が馬主たちにとっては大きな負担として圧し掛かってくるのです。

通常のケースであれば、僕だって待てなかったはずです。理想はありつつも、経済的な負担に耐えられず、身も心も削られて、早期のデビューを望んだことでしょう。ただ今回の福ちゃんのお姉さんに限っては、NO,9ホーストレーニングメソドの木村さんと半持ちをすることになっていますので、デビューするまでの育成費は木村さん持ちです。持ちというか、木村さんは自前の人材と施設を使ってトレーニングをするので、BTCの使用料や餌代などはかかったとしても、ほとんど自分たちで育成することが可能です。だからこそ、僕も心の底から「じっくりと育ててあげてください」と言えますし、木村さんも「育成費を請求しなくてよいので、(デビューが遅れても)心苦しくないですから」とおっしゃってくれます。僕たちの理想と経済的な部分がある意味一致して、福ちゃんのお姉さんにとっては良い環境が整ったのではないでしょうか。

福ちゃんのお姉さんの出番が来たとのことで、お呼びがかかりました。今日はまだ馬場入りできる段階にないとのことで、丸馬場での調教になるそうです。手足を伸ばして思いっ切り走る姿を見てみたいと思っていましたので残念ですが、僕が来たからと言って無理を強いるわけにはいきません。木村さんの後について丸馬場に入っていくと、すでに福ちゃんのお姉さんともう1頭のリードホースがいました。リードホースといっても福ちゃんのお姉さんが出場したオータムセールで買われてきて、ほぼ同じ時期に育成をスタートさせた1歳馬だそうです。福ちゃんのお姉さんはその馬の後ろについて走りながら、人間を背に乗せて走ることに慣れていくことが本日の目的です。

「鞍や人間を背中に乗せることに抵抗はなかったのですか?」と尋ねたところ、「セリのときから腹帯を巻いたりして腹や胸を圧迫されることには慣らしているので、そこまでの抵抗感はなかったです」と木村さんは教えてくれました。馬は背中に鞍や人間を乗せることよりも、そのために帯で腹や胸を圧迫されることの方が嫌みたいです。福ちゃんのお姉さんはセレクションセールとオータムセールの2度、セリを経験していますので、そのあたりの苦労はなかったということです。

ところが、丸馬場を回りはじめた福ちゃんのお姉さんは、尻っぱねをしたり、立ち止まろうとしたり、騎乗者に対して反抗的な面を見せています。「何でこんなことさせるの!」という彼女の言葉がこちらにも伝わってくるようです。木村さんいわく、「騎乗者とのリズムが合っておらず、嫌がったり、戸惑ったりしています」リードホースに乗っているのは元ジョッキーのインド人らしいのですが、福ちゃんのお姉さんに跨っているのは乗り慣れない外国人であることが見ていて分かります。浦河は深刻な人材不足であることは百も承知ですから、木村さんが「僕ひとりでは何もできない」と言うように、彼らの力なしでは福ちゃんのお姉さんも競走馬になれませんので、目をつぶるべきところでは目をつぶるしかありません。福ちゃんのお姉さんと一緒に彼らも成長して行ってくれたら幸いです。

「悪い乗り役に扱われることも大切です」と言いつつ、さすがに見かねたのか、交代の指示を出して、次は木村さんが直々に乗ってくれることになりました。僕たちが初めて会ったときから20年近く経っていますから、木村さんもすでに60近いのではないでしょうか。それでも馬にこうして跨り、反抗しようとしている1歳牝馬を少しでもあやそうと頑張ってくれています。背筋がピンと伸びた美しい騎乗姿勢は、あの時のままだなと僕は感じました。木村さんに乗ってもらったことで、福ちゃんのお姉さんは少し落ち着きを取り戻し、これまでよりもスムーズに走ることができています。なすべきこととそうではないことの区別を教えてもらい、できたときには褒めてもらい、そうではないときには叱ってもらえています。

丸馬場には外から光が射し込んできており、その光の切れ目にいちいち福ちゃんのお姉さんが驚いて反応してしまうようです。走っている途中でバタつくと人馬共に危ないから、きちんと走らせるように叱咤激励します。その後、木村さんからインド人の元ジョッキーに乗り替わり、福ちゃんのお姉さんの調教はおよそ1時間続きました。僕も動画撮影のため、丸馬場の真ん中に立ち、くるくる回りながら福ちゃんのお姉さんを追っていましたので、さすがに目が回りそうです(笑)。調教が終わり、福ちゃんのお姉さんは馬房に帰っていきました。

その後、BTCの施設(600mトラックと1000mの坂路と直線コース)を案内してもらい、2時間の予定だった取材は3時間近くに及びました。理恵さんをずっと待たせていることが気がかりで、最後は福ちゃんのお姉さんにろくな挨拶もすることなく、僕は取材を切り上げました。あとは木村さんにお任せするしかないのです。「また春先にでも見にきてください。そのときにはあちらのBTCのコースを走っているはずですから」と言ってもらいましたが、東京から浦河まで足を運ぶことは簡単ではないので次はいつ来られるかどうかも分かりません。福ちゃんのお姉さんとは長いお別れになりそうです。

周りには親元を離れることにあこがれている人は多いけれど、私は一人で暮らしたいと思ったことはなかった。

実の親と暮らした日々は短くて、親を煩わしいと感じる前に、他人の梨花さんと暮らし始めた。その後私の親となったのは、泉ヶ原さんに森宮さん、血がつながっていないからか、父親とはそういうものなのか、うるさく言われることは今までなかった。それに、他人だからよけいに、みんないい親であろうと一生懸命私と接してくれた。実の家族にはないきれいな距離感がいつも私のそばにはある。一人になりたいという気持ちを抱いたことがないのは、幸せなことなのだろうか、それとも不幸なことなのだろうか。

(「そして、バトンは渡された」瀬尾まいこ著 文春文庫)

どれだけ手塩にかけた愛着のある馬でも、いつか僕たちの手元を離れていくのです。人間と違って馬は特に、人と人の手をわたっていきます。実の父親の顔は一度も見ることなく、母親とは生後半年間しか共に過ごすことはできず、その後は生産者からコンサイナー、そして育成場の人たち、さらには厩舎のスタッフの手に渡ります。まるで「そして、バトンは渡された」の主人公・優子のようです。ときには可哀そうだと思うこともありますが、それはサラブレッドの宿命です。血がつながった両親の元にずっといられるのが幸せ、と考えるのは人間の勝手な思いなのかもしれません。たとえ他人だとしても、いい親であろうと一生懸命に接してくれて、それゆえにきれいな距離感がそばにあれば良いのではないでしょうか。

バトンは渡されたのです。

(次回へ続く→)

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