アイネスフウジンが巻き起こした新しい風──1990年ダービーの『ナカノコール』。

伝統の一戦、東京優駿。

数々の名勝負のうち、ゴール後の大歓声とコールで有名な年がある。それは、1990年のこと。新進気鋭の若手騎手2名が人気を集めていた。メジロライアンと横山典弘、ハクタイセイと武豊騎手。彼らを追う3番人気に支持されたのは、1971年デビューのベテラン中野栄治騎手騎手とアイネスフウジンだった──。


競馬を愛する執筆者たちが、90年代前半の名馬&名レースを記した『競馬 伝説の名勝負1990-1994』(小川隆行+ウマフリ/星海社新書)。その執筆陣の一人、並木ポラオ氏が歴史的大歓声の巻き起こった日本ダービーを振り返る。

若さ溢れる天才・武豊騎手。
対するは、苦労人・中野栄治騎手。

1990年のダービー前夜、私は伯父の家に競馬新聞を片手に訪ねて、いつものように2人でレースの検討会を始めた。
「逃げるのはこの馬。それを追いかけるのは、この馬とこの馬……」
前夜にレースの展開を何パターンも考えることで高揚感が得られるのは、競馬好きな人なら分かってもらえるだろう。私に競馬を教えてくれた母親方の伯父は、馬券の種類や買い方といった実用的なことも教えてくれたが、過去の競馬の話もしてくれることもあった。
「ミスターシービーもシンボリルドルフも知らないんだろ? 俺はどっちも競馬場で観たぞ」
冷やかし半分自慢半分で、そんな話をしてくれる人だった。そして事あるごとに「この先、武豊の時代がやって来る。間違いない。何年も連続でリーディングを獲るよ」と、当時はデビューして1年そこそこの彼の才能を早くから見抜いていたのを覚えている。

この年の皐月賞を制したハクタイセイだった。

二冠を目指すダービーの鞍上は、皐月賞を勝ったときの南井克巳騎手ではなく武豊騎手。なので伯父はハクタイセイから買うのだとばかり思っていたけれど、違うと首を横に振った。
「明日のダービーを勝つのは彼ではない。まだ武豊が勝つには早すぎる」

ではどの馬と騎手がダービーを勝つのか。伯父から返ってきたのは
「アイネスフウジンと中野栄治」
というシンプルな一言だった。

伯父は、アイネスフウジンが勝つと考えた根拠を話してくれた。武豊騎手と同じように、人気を背負うメジロライアンに乗る横山典弘騎手の“若さ”も気になると言った。が、最後は理論ではなかった。
「乗り鞍が減ったり減量が大変だったりと、いろいろ苦労した中野栄治に勝って欲しいんだ」

──そう、感情が上位を占めていたのだ。競馬の予想に私情を挟むということをめったにしない伯父から、そんな言葉が出てくるとは思わなかった。

翌朝、東京競馬場に出向く伯父に私の馬券の買い目のメモを渡した。伯父だけが現地東京競馬場に出向き、私の馬券は伯父に買ってもらうことになっていた。
「伯父さんは、アイネスフウジンの6枠から買うの?」
「単勝だな」
一言だけ返した伯父の自信ありげな表情は、今でも覚えている。

府中に舞い降りた風神が巻き起こした「競馬の風」。
新時代の幕開けへ──。

ダービーが終わり、競馬場から戻ってきた伯父から私の自宅に電話が掛かってきた。こちらが頼んだ馬券は不的中だったが、宣言通りアイネスフウジンの単勝を買った伯父は相当に儲けての帰還だった。まずは伯父の馬券的中を祝った後、競馬場で沸き起こった『ナカノコール』について質問をした。
「どんな雰囲気だった?」「やっぱり伯父さんもコールに参加したの?」と、私は矢継ぎ早に質問をした。それに反して電話口からは伯父の苦笑いのような声が聞こえていた。
「馬券は獲ったよ。でもね……あのコールは参加できなかった。競馬場とは思えないような空間だったから、居心地が悪かった」

それこそ“鉄火場”などと言われていた頃の競馬場を知っている伯父からすると、あのような形で勝った人馬を称えるという方法に面食らったのかもしれない。たばこの煙がモクモクと立ちのぼり、殺伐としていた以前の競馬場にも何回か私は足を踏み入れたこともある。確かに怖さを感じたが、だからこそ『限られた大人の遊び場』だと思った。それまで競馬場の“主(ぬし)”のような存在感を示していた中年の男性たちが、我を忘れるようなスタイルで大声でリズム良くジョッキーの名前を叫ぶことに気恥ずかしさを感じたのは、年齢こそ違えど、理解できた。

一方で、もし私がそのダービー当日、東京競馬場に身を置いていたら馬券は外れていても「ナカノコール」には参加をしていたと思う。誰が言い出したわけでもなく自然発生的に沸き上がり、何十万人という人たちが作り出した一体感の空気というのは日常生活ではまず味わえないものだ。

伯父に怒られるかもしれないと思ったが、そんな私の素直な気持ち──つまり、私自身もコールに参加したかったということを話したら、こんな答えが返ってきた。

「それで良いんだよ。騒げば良いというわけじゃないけど、勝った人馬を祝福する……それは風神様がもたらした『新しい風』なのかもしれないな」

馬券が当たった伯父は、いつにも増して饒舌にそう語った。

(文・並木ポラオ 写真・かず)

『競馬 伝説の名勝負1990-1994』

(編集, 著),小川隆行+ウマフリ
(著)浅羽 晃,緒方 きしん,勝木 淳,久保木 正則,齊藤 翔人,榊 俊介,並木 ポラオ,秀間 翔哉,和田 章郎(星海社 2021年8月27日 発売)

星海社サイト「ジセダイ」
https://ji-sedai.jp/book/publication/2021-08_keibameishoubu1990-1994.html
こちらで試し読みPDFのダウンロードが可能です。

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