世界の扉を叩いた日 - スキーキャプテン

近年、日本競馬は目覚ましい躍進を遂げている。

ドバイやサウジアラビア、香港の各競走には、毎年、数多く精鋭が日本代表として海を渡る。日本競馬のカレンダーには海外の競走が自然に組み込まれ、海外遠征は決して特別なことではなくなった。

米国のダート競走も、もはや遠い存在ではない。

マルシュロレーヌの快挙はその皮切りとなった。ウシュバテソーロ、デルマソトガケ、マンダリンヒーローらの奮闘でその距離は大きく縮まり、2025年、フォーエバーヤングがついに世界の頂を極めた。

かつて夢に過ぎなかった光景が、今や私たちの日常の一部となった。それは数多のパイオニアが大志を抱いて海を渡り、幾度となく挑戦を重ねた末に切り拓かれた道だった。

30年前、極東の島国で輝きを放った芦毛馬がいた。

その馬は、まもなく開花期を迎えようとしていた日本競馬に異彩を放つ存在として現れ、溢れる才能で果敢に世界の扉を叩いた。

振り返れば、それは無謀な挑戦だったかもしれない。

その後のキャリアを賭した渡米が、果たしてその馬生にとって最良だったのかは、わからない。

もし遠征を敢行しなければ、彼は別の形でその名を歴史に刻んでいたかもしれない。

それでも彼と彼を取り巻く人々は、ただ前のみを見て海を渡り、日本競馬の新たな道を切り拓いた。その敗北は、ひとつの礎となった。

私の記憶の片隅に、一枚の写真が焼き付いている。

いつかの雑誌で見た彼の姿。泥だらけになったその姿は、彼が挑んだ戦いの過酷さを物語っていた。

スキーキャプテン。ケンタッキーダービーに挑んだ、最初の日本調教馬。

挑む者なくして、道は拓かれない。その挑戦は決して色褪せない。

その姿は日本競馬が描いた夢のひとつとして、今も刻まれている。


スキーキャプテンの物語は、米国のフォンテーヌブローファームから始まる。

母スキーゴーグルはG1エイコーンステークスを制した名牝。そして父ストームバードは英愛2歳チャンピオンに輝いた大種牡馬ノーザンダンサーの直仔。とびっきりの良血馬。

スキーキャプテンがデビューを果たす少し前に、欧州で競走生活を送った2つ上の姉・スキーパラダイスが大きな存在感を放った。春は日本に遠征してホクトベガらを一蹴。秋には武豊騎手の手綱でムーランドロンシャン賞を制覇。日本人騎手に初の海外G1タイトルをもたらした。

スキーパラダイスの記憶もまだ新しい10月。武豊騎手を背に仁川に姿を現したスキーキャプテンは、単勝1.6倍の断然人気に応えて危なげない走りで初陣を飾る。

続く京都3歳ステークスではデイリー杯3歳ステークス2着から駒を進めた評判馬ナリタキングオーが立ちはだかる。戦前の評価はナリタキングオーがわずかに優勢だったが、レースではスキーキャプテンが圧倒。先に抜け出したナリタキングオーをアッサリ捉えると、余裕たっぷりの走りで2連勝を果たした。

大物誕生。その評判はあっという間に広がった。

この頃から、スキーキャプテンの米国遠征プランが本格化する。まだ外国産馬にクラシックの門戸が開かれておらず、NHKマイルカップ創設前の1995年。外国産馬が目指すべき目標は限られていた。

スキーキャプテンにとってそれは、自身の価値を証明するための戦いの道だった。


3戦目は朝日杯3歳ステークス。東上したスキーキャプテンに立ちはだかったのは、同じ無敗馬のフジキセキだった。新種牡馬サンデーサイレンスから真っ黒な馬体と破格の身体能力を受け継いだフジキセキは、新馬戦を楽勝し、続くもみじステークスで後のダービー馬タヤスツヨシを馬なりで一蹴。レコードタイムでおまけ付きで世代の主役に名乗りを上げていた。

単勝オッズはフジキセキ1.5倍、スキーキャプテン4.3倍。2強の対決だった。

曇り空。靄のかかった向正面奥深くで決戦の火蓋が切られた。五分のスタートを切ったスキーキャプテンは再びの後方待機策。対するフジキセキは行きたがる素振りを見せながら逃げ馬を見る位置に構える。両馬の間隔はおよそ5~6馬身。スキーキャプテンは前を行くただ一頭のライバルに照準を合わせる。

直線。最内で進路を探るフジキセキに先んじて、大外に持ち出したスキーキャプテンが加速する。フジキセキは逃げ馬のさらにイン、内ラチ沿いの僅かな間隙をこじ開ける。

残り100m。完全に抜け出したフジキセキにスキーキャプテンが迫る。漆黒のフジキセキと純白のスキーキャプテン。ゴール寸前、内外離れて両馬の馬体が重なり、両雄はゴール板を駆け抜けた。

僅かに先んじたのはフジキセキ。その着差はクビ差。ほんの少しだけ、スキーキャプテンは及ばなかった。

この勝利でフジキセキは世代トップの地位を確たるものにした。同時にフジキセキをあと一歩まで追い詰めたスキーキャプテンの実力も誰もが認めるところとなった。

年が明けた。

米国遠征を決めたスキーキャプテンは、壮行会としてきさらぎ賞に駒を進めた。

冷え込む京都競馬場。それでも若きスター候補への期待に、ファンは高揚していた。そのオッズは単勝1.0倍。ギャンブルとして1円の利益を産まない数字は彼への信頼であり、未踏の地へ挑むエールにも思えた。

ゲートが開くと、スキーキャプテンはいつも通り後方に控える。競り合うテルノシンゲキとキャニオンウェイが2頭で大逃げの形となり、スキーキャプテンとの差は10馬身、15馬身とみるみる広がる。場内が俄かにどよめく。

4角。武豊騎手はスキーキャプテンに軽くGOサインを送る。瞬間、スキーキャプテンはハミを取り、重心を沈める。

直線入り口で早々と先頭を射程に捕えると、そこからはもう独壇場だった。他馬を一瞬で置き去りにし、必死の形相のライバルをぐんぐん突き放す。白い馬体は何の苦しみ感じさせぬまま、爽やかな風のように悠々と駆け抜けていった。

海外が遥か遠い夢に思えた時代。その壁の高さすら、誰も知らなかった。それでもその力は夢を見るには十分だった。

日本調教馬によるケンタッキーダービー挑戦。それは歴史への挑戦。

1995年2月。競馬ファンはスキーキャプテンに、大きな願いを託した。


1995年。5月6日。チャーチルダウンズ競馬場。第121回ケンタッキーダービー。

14万人を超える大観衆が詰めかけ、マイオールドケンタッキーホームが流れる中、前年BCジュヴェナイルの覇者ティンバーカントリー、G1・3勝を含む5連勝中の牝馬セレナズソング、フロリダのチャンピオン・サンダーガルチらが次々と本馬場に姿を現す。行き交う歓声を一身に浴びて、スキーキャプテンも赤茶けたダートコースに脚を踏み入れる。

下馬評は混戦模様。日本から単身海を渡った若きチャレンジャーは伏兵の一角だった。

外目17番ゲートから飛び出したスキーキャプテンは、周囲の激しい先行争いを見極め、最後方に控える。飛んでくる泥のつぶてを弾き飛ばし、馬群の後ろで機を伺う。

セレナズソングが米国らしい速い流れで引っ張り、迎えた3角。唸る手応えで進出するのはサンダーガルチ。

スキーキャプテンも内目に進路を取って追撃態勢に入る。だが反応は鈍い。厳しい米国競馬は、スキーキャプテンの余力を容赦なく奪い去っていた。

直線、赤茶色の泥にまみれたスキーキャプテンは必死に食らいつく。脚を失ったライバル達をなんとか交わし、ゴールをめざす。だが、先行各馬の背中はあまりにも遠かった。

14着。サンダーガルチから遅れること11馬身。それがケンタッキーダービーの歴史に刻まれた彼らの蹄跡だった。世界との距離はあまりにも遠かった。それでもこの挑戦が日本競馬の新たな歴史の扉を開けたことは、誰もが知っていた。これこそが第一歩だ、と。

スキーキャプテンはこの後長期休養に入り、翌年、戦列に復帰したものの、わずか1走で引退。彼の戦いは志半ばで終焉を迎えた。彼の冒険譚は、あの日のチャーチルダウンズの空に消えていったのかもしれない。


あの日から30年が経った。

長らく止まっていた日本調教馬によるケンタッキーダービーの挑戦は、21年の時を経て、2016年のラニが再びその扉を開いた。その背には武豊騎手。かつてスキーキャプテンと歩んだ第一人者の手綱で、再び時計の針が動き始めた。

ラニの挑戦は「JAPAN ROAD TO THE KENTUCKY DERBY」という形で後進への道しるべとなった。ケンタッキーダービーへの道は年々拓かれ、毎年のように3歳のトップホースが挑戦を続けている。

ダートを主戦場とする3歳馬は今、活躍の舞台を南関東、そして海外に求めている。砂の一流馬は、あるいは、芝を走る同級生より早い時点から世界を睨んでいる。

近い将来、日本馬が米国の伝統を打ち崩し、未踏の地を、また一つ踏破する日が来るかもしれない。

その時、私はその偉業を心から称えたたえるとともに、遥か昔に先陣を切った一頭の白い勇者のことを思い出したい。

スキーキャプテンがが灯した炎は、四半世紀以上の時を超え、やがて幾多の夢を運ぶ光となっている。

それは小さくて大きな一歩。遠い未来へ続く、遥かなる軌跡だった。

写真:かず

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