一度も会えなかったけれど、私の心には生き生きと - トウカイテイオー産駒チタニックオー

ウマフリ読者の皆様、こんにちは。
「チーム・テイオー」「トウカイテイオー産駒の会」会員のエドリンです。

私事ですが、4月1日は私の誕生日でした。「誕生日!」と浮かれる年齢でもないし、できれば素知らぬ顔でやり過ごしたいくらいです。
ところが、そうできない理由が、私にはありました。
以前、私と同じ誕生日の競走馬がいたのです。
──今はもう、空に還ってしまっていますが。

その馬とは、トウカイテイオー産駒で初めてクラシック戦線に出走した、チタニックオーです。
ルドルフが引退した時、テイオーが引退した時、私は心のなかで約束しました。「子供がデビューしたら、無条件で応援する」と。
……結果として、私の馬券は殆どが紙吹雪になって散っていきました。

1999/10/16 京都競馬場での初勝利
photo by kさん

2000年4月16日、クラシックレース第1冠・皐月賞。
1番人気はダイタクリーヴァー、ついで2番人気にエアシャカール。
このレースでは、残念なことに、3番人気ラガーレグルスがゲートが開いたと同時に立ち上がってしまい、騎手も振り落されてスタート出来ないというアクシデントがありました。

そんな波乱の幕開けとなったレースで、7枠14番のチタニックオーは、1コーナーを回るときには最後尾に。それでも最終直線に入ると大外を回りながら、エアシャカールと一緒に上がってきて3着を確保します。
13番人気という低評価を覆す好走でした。

2000/04/16 皐月賞3着
photo by kさん

この結果に、私は「直線の長い東京コースなら……」と、ダービーに夢を託します。
また、無事に皐月賞に出走してくれ、その上掲示板にまで載ってくれたことが嬉しくて、誇らしくて、涙がでそうだったのを覚えています。


ところが、ダービーの出走馬のなかに、チタニックオーの名前はありませんでした。それどころか、菊花賞にも未出走。
当時、私自身の生活にも変化があり、競馬からも離れたせいもあって、チタニックオーの名は心の奥深くへと埋もれていきました。

それから数年後、その頃話題になっていた高知競馬のハルウララの本を何気なく買って読んでいた時、とあるページに目が釘付けになりました。
”泣いた馬主たち”という章に、チタニックオーの名があったのです。

「チタニックが生きていた、生きていてくれた!」

ただそれだけが嬉しくて、涙があふれました。
今でも、その時を思い出すだけで鼻の奥がツーンと痛くなります。

私は、心のどこかで、彼を諦めていました。
"馬の行方は追ってはいけない"。そんな言葉で、考えることもしないようにしていました。
生活が落ち着き、少しずつ引退馬に関わるようになり、諦める事の必要性をわかり始めていました。

そのチタニックの元気な姿が、本に載っている──心の奥底で凍り氷山になっていた物が崩れ、とけ出して水滴と変わり、全て流れ去るまでこの涙は止まりませんでした。

土佐黒潮牧場にて
photo by 牧場さん

皐月賞のあと、チタニックは、屈腱炎を発症していました。
馬にとっては競走能力を失うこともあり、「不治の病」とも云われるほどの怖い病です。
ダービー・菊花賞と出走出来なかったのには、理由がありました。

ただ、彼の場合は養生すれば何とか走れるという状態で高知に移籍。
さすがにここでは力が一枚上だったようで、5戦して2勝という戦績を残します。
しかし初戦ともう一戦は競走中止であり、移籍後も脚元に不安は付いてまわっていたようです。
そして運命の2003年6月。前走1着から1ヶ月後のレースで勝利するも、ゴールした瞬間に嫌な音がして騎手さんは思わず"やったな!"と血が引いたそうです。

──屈腱炎の患部が断裂。

本来なら安楽死のケースだったそうですが、馬主さんが何とか命だけでも助けたいと必死に道を探し、やっと黒潮牧場さんが受け入れてくれました。
それから数カ月後、会いに牧場を訪ねた馬主さんが見たものは、ふっくらと太って毛艶もピカピカ、そして何よりも右前脚の腫れが引き、楽しそうに放牧地を走るチタニックオーの姿だったと言います。
それを見て馬主さんは男泣きに泣いたそうです。

土佐黒潮牧場にて
photo by 牧場さん

私の心にも、新しい光が灯りました。
「きっとチタニックに会いに高知へ行く!」と。

しかし、それが生き甲斐となって張りのある日々を送っていたのに、彼の無事を知った2年後、チタニックは幽門閉鎖という病気で旅立ってしまいました。
脚元に持病を持つ馬は、腸の病気になりやすいそうです。
まだ10歳という若さでした。

すぐに、牧場さんへお手紙とお花を送りました。
今ごろになって……本当に今ごろ、です。後悔がドーッと押し寄せました。
何故、生きているうちに人参でも何でも送ってあげなかったのか。
会いに行けなくてもいろんな方法があったはずなのに、ただ「いつかきっと会いに行こう」という、その気持ちだけで過ごしてしまった日々。
「命に、いつかそのうちは無い! 特にお馬の場合は会えるときに、できるときに行動しなければ間に合わない事が多い!」という大切なことを、チタニックが教えてくれました。
 

イラスト
by Michikaさん

2012年8月、チームテイオー(ルドルフとテイオー、その産駒を応援する会)主催の協賛レースを高知競馬で行いました。
レースが始まる前、返し馬に各々散っていく時、アナウンサーの方が高知競馬で活躍した歴代のテイオー産駒の名前を読み上げてくれました。その最後に「高知で3年半ぶりに奇跡の勝利をあげたチタニックオー」という一文がアナウンスされます。
それを聞いた時、またもや溢れてくるものを止められませんでした。

馬の命は関わる人で決まってしまうと言っても過言ではないでしょう。
チタニックの馬生は10年と短かったけれど、良い人たちに恵まれた素敵な馬生だったのじゃないかと思うのです。

「チタニックが最後に過ごした黒潮牧場での時間は、自然の中で無邪気に戯れていた仔馬時代を思い出したりしたのじゃないかな?」という気持ちにすらなります。

人々に愛され、涙で見送られたチタニックオーの一生。
彼は、幸せの中で旅立っていった……そう思うことで、何もしてあげられなかった私の心も救われます。

「明るくてなかなかやんちゃで、でも可愛い仔だった。今でもその辺にいるような気がします。亡くなった気がせんのです」
今は亡き黒潮牧場の場長さんが電話でそう教えてくださった言葉が、ずっと耳に残っています。

一度も会えなかったけれど、私の心には生き生きと今でもチタニックオーが生きています。これから先もずっと……。

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