あの日、友と見た“いい馬”の記憶 - ワールドエース

2014年の春、私は、自分が競馬好きになるきっかけを作ってくれた友人とともに、東京競馬場に足を運んでいた。
それは私にとって人生3回目の競馬場で、誰かと一緒に行くのは確か初めてのことだった。

間近に見るサラブレッドの美しさに目を輝かせ、パドックにかじりついたり、ゴール前で声援を送るなどして、競馬と、そしてサラブレッドのかっこよさに酔いしれていた。
友人と一緒に競馬場に立ち、携帯のカメラで写真を撮ったり「あの馬が〜、この馬が〜」と浅い知識を披露しあってレースを楽しんだあの空間が、とても嬉しかったのを、今でもよく覚えている。

この日、私の1番のお目当ては、東京競馬場のレースではなく京都競馬場のレースだった。
マイラーズC。
京都競馬場の外回り芝1600mで施行されるこのレースは、安田記念への最重要ステップレースと言って良いだろう。

友人は、武豊騎手が騎乗する1番人気馬フィエロを推していた。競馬を見始めて日の浅かった当時の私たちにとって競馬といえば「武豊」だったから、それはある意味当然のことだった。

実際、私も武豊騎手公式グッズの手帳を持ち歩き、毎週の騎乗馬をチェックして、日ごとの勝利数などを書き留めることを習慣にしていた、生粋の「武豊」ファンだった。
そんな私たちにとって、目下3連勝中で1番人気に支持されている有力馬に武豊騎手が騎乗するとなれば、応援しない理由はなかったはずである。

私も、それまでなら当然フィエロを応援していたことだろう。

──しかし、この日は違っていた。

気になる馬がいた。
デビュー前から注目していたとか、もともと血統が好きだったとか、そういった特別な理由があるわけではなかった。
その馬は2012年の日本ダービーを4着に好走して以来、屈腱炎による休養を余儀なくされ、実に1年8ヶ月という長い時間をかけて、前走の白富士Sでターフに戻ってきた。

その馬は、ワールドエース。
「世界のエースになるように」という馬名の由来からもわかる通り、生まれながらの期待馬だった。

復帰戦となった前走では久しぶりのレースということもあってか、道中終始リキんでしまい5着に敗れていた。しかし最後まで脚を伸ばし、2着からは0.1秒差という惜しい競馬で、復帰戦としては上々の内容だった。
前走手綱を取っていた武騎手が今回フィエロとバッティングしてしまい、騎乗することができないのが惜しいと思いつつ、ガス抜きができたこのレースは前走より良い走りができるはず──私は、そう確信していた。

ゲートが開いた。
少し遅れ気味にスタートを切ったワールドエースは、それまでの後方待機のレースと違い、積極的に位置を取りに行って先行集団の最内に取り付いた。
4番手につけたワールドエースの直後に、フィエロ2番人気のエキストラエンドら上位人気各馬が位置取り、これをがっちりマークする形で隊列が収まった。

レースは、淀みのない淡々としたペースを刻む。
3、4コーナー中間点、最内にいたはずのワールドエースが先行集団の外目に出し、京都の坂の下りを利用し、勢いをつけてコーナーを回ってきた。

そして、最後の直線に向く。
馬場の三分どころに持ち出されたワールドエースに右鞭が入って逃げ馬をとらえにかかると、それを目掛けて上位人気各馬が一斉に追い出した。
残り200mを切ったところで、初めてワールドエースが先頭に立つ。しかし、それを待っていたかのように1番人気のフィエロが猛然と追い込んだ。

一瞬、2頭の馬体が合うかに思えたが、ワールドエースがもうひと伸びして、これを1.1/4馬身振り切ったところがゴールだった。

勝ちタイムは1.31.4。
好天に恵まれた良馬場だったとはいえ、初めてのマイル戦で従来のレースレコードを0.5秒も更新するタイムを叩き出し、そのポテンシャルの高さを見せつけたのである。

ワールドエースはデビュー前からディープインパクト産駒の大物として期待されていた。
デビュー戦を1番人気に応え完勝、2戦目こそ2着に敗れたが3戦目のきさらぎ賞ではこれまた1番人気に応えて勝利し、2012年のクラシック戦線大本命として名乗りを挙げた。
トライアルの若葉Sを勝利して迎えた皐月賞では2番人気に支持され、最後方から荒れた内を避けて馬群の大外を回るコースロスがありながら、その荒れた最内を通って抜け出したゴールドシップに際どく迫る2着。
続く日本ダービーでは、直線の長い東京に替わる期待から、堂々の1番人気に支持されて出走。メンバー中最速の脚を使って追い込むも、4着に敗れた。

その後は屈腱炎を発症して長期休養を余儀なくされ、前述の白富士Sで復帰。
上述のマイラーズCで、実に2年ぶりの勝利をレコードタイムで飾り安田記念に向かうも、そこでは不良馬場に泣き5着惜敗する。
秋初戦の毎日王冠で1番人気に支持されるが、13着と大敗。次走マイルCSを8着に敗れると、同年末から翌年にかけて香港・オーストラリアと遠征を敢行して当地のGⅠに挑戦したが、そこでも思う様な結果を出せなかった。
帰国後もオープン特別で2着した以外は良い成績をあげることができず引退。結果として、マイラーズCが生涯最後の勝利となった。

彼の競走生活は、間違っても順調とは言い難いものだっただろう。

「クラシック候補」と言われ、若駒の時から注目を受けながら、ついにGⅠタイトルには手が届かなかった。さらに、これからという時に屈腱炎を発症し長期休養を強いられ、古馬になってからも思うような成績を上げることはできなかった。
その競走成績は「乏しい」とは言われないが、「一流か」と言われれば、疑問符は付くだろう。「期待されたほどの成績を上げることができなかった」と厳しい言葉をかける人もいるかもしれない。

それでも、たぶん私はワールドエースが好きだったんだと、今になってそう思う。

あの馬の雰囲気に惹かれていたんだと思う。
白富士Sでの復帰が決まった時も何故だか無性に嬉しかった。
「またあの馬の走りが見れる……!」
そんな純粋な高揚感に、胸が躍った。

マイラーズカップでの勝利も武騎手がその背中にいないことこそ残念だったが「ワールドエースは、やっぱりいい馬なんだ」と妙に納得したことを覚えている。
今と比べれば、まだ競馬をじっくり見ることが出来なかった当時、過去のレースを見て既に引退していた馬たちに特別な感情を抱くことこそあれ、現役競走馬を好きになるという感覚はまだ薄かった。
思い返してみれば、自分がリアルタイムで見てきた馬の中で「いい馬だ」という感情を抱いたのは、この馬が初めてだったのかもしれない。
いつの間にか、ワールドエースは私にとってある意味ひとつの“サラブレッドの物差し”のような特別な存在になっていた。

あのマイラーズCから、そしてワールドエースが競走馬としての現役を退いてから、もう随分と月日が流れた。
私もその間に、随分と生活環境が変化した。

──あれから、強いディープインパクト産駒のレースを、数多く見てきた。

GⅠ馬もたくさんいた。コントレイル、サトノダイヤモンド、フィエールマン、ミッキーアイル、アルアイン、そして種牡馬としての評価も高いキズナ……。

その中で、ワールドエースという存在は、GⅠを勝ったわけでも何か著名な活躍を遂げたわけでもない。もちろん重賞2勝、皐月賞2着、日本ダービー4着という成績は胸を張れる立派な成績ではあるが、こと「種牡馬」という観点だと、セールスポイントとしては力強さに欠ける。
それでも2020年シーズンの種付頭数が131頭であったように一定の人気・需要を集め、2016年の種牡馬入り以来、平均して毎年100頭程度(2021年4月現在)の種付を行っているという事実は、ひとえにワールドエースの見せたポテンシャルの高さに期待するが故のものであると思う。

昨年冬、ワールドエースに会いに北海道へ飛んだ。初めて目の当たりにしたワールドエースは、体格こそディープインパクトより一回り大きいが、その馬体重ほど大きくは見せない印象だった。私がディープインパクトを初めて目の前にした時に、思わず「え、これがディープインパクトですか?」と口走ってしまったあの時の印象に、よく似ていた。

筋骨隆々のゴツゴツしたムキムキの馬体というよりは、「華奢な」だとか「スラッとしていて」だとか、そう言った言葉がしっくりくるような、しなやかな馬体。赤みがかった鹿毛に星のない無地の顔でシュッとした顔立ち。
時折、種牡馬から感じることのある「男臭さ」の強い感じではなく、かと言ってとりわけ精悍な顔立ちで「イケメン」というようなわけでもない。
私がディープインパクトに抱いていた“真面目でさわやかな優等生”という、種牡馬としては少し頼りない印象にそっくりだった。

ワールドエースはディープインパクトの“ディープインパクトらしさ”を強く持った馬だと、私はそう思う。今でも私にとっての“いい馬”の基準はワールドエースなのである。

それはこれからも変わらないし、彼がディープインパクト最高の後継種牡馬の1頭であることを、今も──いや、たくさんの馬を見てきた今だからこそ、信じている。
いつかそう遠くないうちに、ワールドエース産駒が競馬界を盛り上げてくれる日がきっと来てくれるだろう。そして、ワールドエースが成し得なかった夢を叶えてくれる産駒が現れてくれるに違いない。

競馬の面白みは、そういったところにもある。
競馬は、サラブレッドは、決してその“1頭”で終わることはない。
応援していた馬が父となり、また母となり次の世代を応援できる日が来る。
叶わなかった夢の続きを見せてくれる馬たちが必ずや生まれ、また競馬を走るのである。
かく言う私も、今は一口馬主としてワールドエース産駒に出資が叶い、その成長を暖かく見守る毎日である。

たくさんの馬の思いと、たくさんの人の思いを乗せて。
競馬はいつの日もそうやって紡がれてきた。
これまでも、そしてこれからも。

写真:Horse Memorys

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