一歩も二歩も先を行く努力の人。福永祐一騎手の引退に寄せて。

JRA通算19497回目の騎乗にあたる2023年2月19日東京競馬第12レース大島特別。

福永祐一騎手はゲンパチプライドに騎乗し、5着。国内ラストライドを終えた。

JRA通算2636勝、国内外あわせGⅠ級は45勝。1999年桜花賞のプリモディーネから2022年マイルCS南部杯カフェファラオまで、輝かしい27年の騎手人生は私の社会人生活とほぼ重なる。46歳でキャリアを終えるという福永騎手の決断は私にとって考えなければならない出来事でもある。

私より年齢は1歳年上の福永騎手は競馬学校入学前にケガをしてしまったため、私が高校に入学した年に競馬学校へ入った。そして私が競馬にのめり込むようになった頃に騎手としてのキャリアをスタートさせた。

福永洋一の息子という枕詞が必ずついて回った福永騎手は華やかで、大学で燻っていた私には眩しい存在でもあった。「天才の血を継ぐ者」というプレッシャーを当時の私は想像できなかったのだ。そんななか、福永騎手はキングヘイローという馬に巡り合った。まだまだ競馬を覚えたての私にはよくわからなかったけど、テレビで井崎脩五郎氏が「ヨーロッパの至宝ダンシングブレーヴにアメリカの名牝グッバイヘイローですよ。こんな血統が日本で走っているなんて信じられません」といった内容を話すのを耳にし、そのまま友達に自慢気に喧伝したものだ。3連勝で東京スポーツ杯3歳S(当時の表記)を制したキングヘイローと福永騎手のコンビはさらに眩しかった。これが重賞初制覇だった福永騎手はデビュー3年目にしてクラシックの主役を担った。

キングヘイローと福永騎手がクラシックをさらっていくんだろう。超良血と天才の血を継ぐ者なんだから、勝って不思議はない。まだまだ競馬初心者の私はちょっとした妬みを抱きつつも、同年代の福永騎手にこっそり期待した。しかし、キングヘイローは皐月賞ではセイウンスカイを猛然と追い詰めるも届かず、2着に敗れた。そして福永騎手への注目が最高潮に達した日本ダービーは忘れもしない。キングヘイローと福永騎手はなぜか逃げた。私には逃げる理由が理解できなかった。皐月賞で日本ダービーへの希望が見える末脚を披露したのに、なぜ逃げなければならなかったのか。そして逃げたキングヘイローは直線で脚を失い、14着と大敗した。福永騎手がプレッシャーに押しつぶされ、我を失ってしまったことを私はあとで知った。

私より一つだけ年が上の21歳の青年がそこにいた。天才の血を継ぐ者ではあるが、まだまだ世界の怖さを知らないという意味では私と同じだということを知った。そして福永騎手とキングヘイローに世界の怖さを教わった。極限まで追い込まれると、人は思いもよらない行動をとってしまう。我を見失うことへの恐怖とはどんなものなのか。先に世界へ飛び出した福永騎手は味わった。

ここから私にとって福永騎手は眩しい存在からちょっと前を歩む先輩になった。

1999年。演劇青年になるべく、就職活動をしないと決めた春。福永騎手は桜花賞をプリモディーネで勝った。私よりさらに一歩、先へ進んでみせた。だが、その翌週、福永騎手は落馬し、腎臓摘出の大ケガを負った。騎手という仕事がどれほど危険なのか。私は福永騎手に教わった。

やがて、福永騎手は天才ではなく、努力の人だということを知るようになる。最初から輝いていたわけではなく、輝ける場所と暗闇を行き来し、弛まぬ努力を積み重ね、自分の居場所をつかみとった努力の人だった。

ワグネリアンが日本ダービーを勝ち、悲願のダービージョッキーに就いたとき、私は不惑に突入していた。築地を出て、出版の世界に飛び込んだ。前のキャリアを捨て、下っ端からやり直すことにしたのだ。なんにせよ、中途半端な私に福永騎手は貫く尊さを伝えてくれた。

「競馬を書いて表現しよう」これが40歳で下っ端からやり直した理由だ。ワグネリアンに乗る福永騎手は決意の先行策で19回目のダービー挑戦をモノにした。あきらめずに競馬について書き続けよう。いつか必ず勝負のときが訪れる。その勝負をつかみとるためには、日々書く努力を怠ってはいけない。栄光は研鑽の先にしかない。それを胸に私はいまも書いている。

競馬場から観客が消えた年、福永騎手はコントレイルの背にいた。

日本ダービー2勝目をあげ、無人の競馬場に向かって頭を下げる姿に熱くなると同時に、なぜ、こんな素晴らしい競馬に拍手を送って祝福できないのかと悲しくなった。もっとも祝福されなければならない無敗の三冠ロードが最後の菊花賞での静かな拍手によって幕を閉じたことに、いまも切なさと虚しさを感じる。こんなことは二度とあってほしくない。だが、それが福永騎手による仕事だったことは救いでもあった。

43歳、大舞台でも決して冷静さを失わない円熟味たっぷりの立ち振る舞いに勝手に誇らしさを覚えた。福永騎手とほぼ同じ時間を競馬に費やした私の、本当に勝手な喜びだ。

もうキングヘイローの日本ダービーのような、「なぜ、そんなことするんだ」というレースはない。すべて納得できるレース内容であり、疑問に感じた場面はマスコミを通じて必ず答えてくれる。40代が背負う責任を福永騎手はことごとく果たしてきた。そう、40代は期待より責任が重くなる。世界の怖さを知り、それに打ち勝つ術を身につけたとき、人は責任を全うできるようになる。

どこまでも私の先を行く人は昨年、調教師になる決断を下した。そして難関の調教師試験に一発で合格してみせ、13年連続年間100勝を成した翌年に騎手を引退する。こんなに美しいキャリアチェンジを私は知らない。だが、40代半ばが人生の後半について考えるときであることには共感できる。残りのキャリアで責任を果たせる期間はそう長くはない。だからこそ、その短い期間で成し遂げたいことがあれば、人生の曲がり角を折れる決断はすべきなのだ。やれることはやれるうちにやっておかなければ、いつか悔いという取り返しのつかないものが心に生じてくる。もう人生は戻れないので、悔いは悔いのまま残ってしまう。ぼんやり死に場所について考える。40代半ばはそんな時期だ。

日本で最後に騎乗したゲンパチプライドは西田雄一郎厩舎に所属する。福永騎手にとって西田厩舎は初騎乗。福永騎手のJRAキャリアのなかで356番目の厩舎だ。最後の最後に新たな騎乗先に出会う。これこそ福永騎手が競馬の世界で信頼され続けた証だ。馬主の平野武志氏の馬に騎乗するのは3年前の冬の中京ゲンパチマイティ―以来2度目。生産者の上村清志氏の馬は9年前の京都の冬以来のことで、ゲンパチプライドの母クラッシーシャーロットがはじめて日本で産んだキングシャーロットは上村清志氏が生産し、福永騎手は3度騎乗したことがある。

最後にゲンパチプライドで結果を出せなかったことを悔いと言える潔さこそが、福永騎手が努力の人であることを伝える。たくさん後悔し、たくさん喜びを手に入れた。そんな幸せなキャリアはほかにない。

これほどのキャリアを築いた福永祐一という調教師が作る馬を、私はいまから楽しみでしかたない。

写真:かぼす、かず

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