2018年3月11日、障害未勝利戦。
1頭の素質馬が、レースのさなか障害飛越を拒否してしまった。
しかしその背にいた騎手は馬をなだめ、改めて障害に向かう事を教え、飛越をやり遂げた。
結果は完走。
しかし大差のシンガリである。
それでも人馬が障害を飛越した瞬間、観客から拍手が沸いた。「頑張れ」と声援が送られた。
マテンロウハピネスと西谷誠騎手のコンビでの、最初のレースであった。
そのコンビは次走で未勝利を勝ち上がり、同年6月2日にはオープン競走を初挑戦初制覇した。
逃げて二枚腰を使い、ジャズファンクとの叩き合いを制するという強い内容で。
あの日の完走で、マテンロウハピネスはどんな苦境に立たされようと「勝利」から逃げない根性の持ち主となったのだ。
OP勝ちを収めた東京競馬場のウィナーズサークルで、鞍上の西谷誠騎手はマテンロウハピネスのタテガミを、労うようにそっと撫でた。
そこには西谷騎手の、障害騎手としての確かな『技術』と、馬に向き合う『心』があった。
時は遡り2014年、中山大障害。
勝者はレッドキングダム、鞍上・北沢騎手。
そのウィナーズサークルで、1人の障害騎手が勝ち馬に寄り添っていた。
自身の騎乗馬が敗れたにも関わらず、レッドキングダムの引き手を持ち、満面の笑みで鼻面を撫でる──まるで自分の事のように、その勝利を喜んで。
その騎手こそレッドキングダムを一流の障害馬として成長させた、西谷騎手である。その確かな信頼関係に「障害馬を成長させる」事の何たるかを垣間見た気がする。
固い絆で結ばれた人馬の物語は、競走馬引退をもって終わるものではない。
西谷騎手は鹿児島県の乗馬クラブへ赴いて引退したレッドキングダムに跨がり、障害飛越をこなしたという。名コンビ復活の一日であった。
障害馬を成長させる。
それは丸太1本を跨がせる事から始まる、障害に対する恐怖心をなくしていく作業の積み重ねにより達成される。とても根気が必要な修練だ。馬には障害を飛越する本能があるというが、恐怖心を抱く馬も少なくない。
あるとき、鞍上の西谷騎手が促しても、頑として障害を拒否する1頭の馬がいた。
諦めれば、そこで障害馬としての道は閉ざされる。そればかりか、競走馬としての可能性さえ閉ざされる可能性もあり得る。
その瀬戸際で、西谷騎手は、その馬から下りた。
そして手綱を持ち、
「こうするんやで」
と、自ら障害を飛んでみせたという。
「この人が飛んだならば、怖いものではない」
そう悟った馬は、再びその背に跨がった西谷騎手と共に、見事なジャンプを決めたという。
まさに信頼関係の賜物であった。
西谷誠騎手は1999年中山大障害(ゴッドスピード)や2008年中山グランドジャンプ(マルカラスカル)をはじめとした幾多の障害重賞タイトルを手にした障害の名手である。2008年には障害通算100勝を達成している。
華やかな舞台で人々の注目を集める名手には、常に減量との戦いがつきまとっていた。170cmを超える長身ゆえ体重調整が難しく、何度も制裁を受け、サウナで倒れた事もあるという。
しかし、その確かな騎乗センスを買っていたホースマンがいた。瀬戸口調教師である。
「瀬戸口先生がいなければ、騎手を辞める事になっていたかもしれない」
とは西谷騎手の弁。
「西谷誠を、障害界の武豊にする」
そう決意した瀬戸口調教師は、センスのある馬を障害転向させ、西谷騎手へ騎乗を依頼したという。
西谷騎手には、乗馬の基礎に裏打ちされた確かな騎乗技術がある。
「大切なのは、乗馬の基礎」
という本人の台詞からも、その騎乗技術への誇りが感じられる。
そのため、競馬学校で乗馬を熱心に教えてくれた平沢教官を恩師として尊敬しているという。
そして西谷騎手はその騎乗技術を以て、ネオユニヴァース、ラインクラフト、サトノダイヤモンドとそうそうたる名馬の調教を手掛け、華やかなG1の舞台へ送り込んだ。
障害競走でも調教でもその手腕を発揮する西谷騎手を、とある関係者はこう呼んでいる。
「栗東一の馬乗り」と。
障害騎手として華々しい活躍を見せる西谷騎手は2006年、マルカラスカルに騎乗し中山大障害を制した。
西谷騎手の恩師である瀬戸口調教師の引退前、最後のJ-G1タイトルを掴み取ったのだ。
師への恩返しともいえる、渾身の騎乗であった。
「先生のラストイヤーだったので、良かったです」
西谷騎手は、言葉を振り絞り、人目を憚らぬ男泣き……多くの障害ファンの感動を呼んだ瞬間だった。
ファンを魅了してやまない美しい騎乗、華麗な飛越。関係者からの信頼。数々のドラマ。
そして……勝利を見据える西谷騎手の、凜とした眼差し。そこには馬へ真摯に向き合う「誠の心」がある。
凜とした騎乗は、誠の心から。
私はこれからも、西谷騎手の飛躍を願ってやまない。
写真:かぼす、ふたご、じぇむくん、tosh、がんぐろちゃん