メイショウバトラー〜ファンから愛された"バトラー姐さん"〜

マリーンCの時期になると思い出すのが、"姐さん"として愛されたダートの名牝・メイショウバトラーの存在です。

メイショウバトラーは、父がメイショウホムラ、母がメイショウハゴロモという血統。さらに両親の母も、どちらも"メイショウ"で、いわばメイショウ血統です。

父の父ブレイヴェストローマンは馬場不問で重賞産駒を輩出した名種牡馬。代表産駒として、芝ではマックスビューティ、ダートではメイシィウホムラなどがあげられます。また、母父のダイナガリバーは社台初、日本の血統地図を塗り替えた名種牡馬ノーザンテーストの初のダービー馬です。

祖父のイメージもあったのか、メイショウバトラーはデビュー3戦目からしばらくのあいだ、芝レースを使われます。スティルインラブが牝馬3冠を達成した、2003年秋華賞にも出走していました(結果は7着)。

さらに4歳シーズンには、エイシンチャンプ・アサカディフィートらを相手に小倉大賞典を制し、重賞ウイナーに。その後も、勝ちきれないものの、GⅡ阪神牝馬Sで2着・GⅢで3度の2着と、重賞戦線で安定した成績残します。

しかし、そんな矢先、メイショウバトラーに試練が訪れます。それは、右前屈腱炎の発症でした。その怪我により、2005年は丸一年ものあいだ、休養することになってしまうのです。

久々の戦線復帰の際、陣営はそれまで実績を出していた芝レースではなく、ダートレースを選択。きっと、屈腱炎のことも考慮した上での判断でしょう。

その復帰初戦・欅Sは惨敗するも、次走のプロキオンSから、メイショウバトラーは本格化。なんと、ダート重賞3連勝を達成します。

その相手にはシーキングザパール産駒のシーキングザベスト、フェブラリーS勝ちのメイショウボーラーなども含まれるように、決して楽な相手ではありませんでした。その勢いに乗ってJBCマイルに駒を進めると、名ダート馬ブルーコンコルドを相手に2着と大健闘。一気に、ダート界を代表する1頭となりました。

メイショウバトラーは、その冬に一時期スランプに陥るも、翌年の5月から重賞4連勝の固め打ち。

その後も好走と惨敗を繰り返し、いつしかダート界になくてはならない存在となりました。

重賞連勝が「4」で途切れた半年後、メイショウバトラーはマリーンCで7戦ぶりの勝ち星を手にします。そこからは再び波に乗り、重賞で2着や3着と好走を見せていましたが、冬場になると「やはり」といった具合に低迷期へと突入。

さすがに年齢が……と思いきや、春が近づきマリーンCへ出走すると、連覇を達成。なんと9歳での勝利でした。長い競走生活で、第一線で戦い続けた上での重賞連覇は、まさに「凄い」の一言です。

それ以降は、勝ち星はないものの夏から秋口には好走し冬場には案外という、ある意味で例年通りともいえる現役生活を1年ほど続けて、最終的には10歳12月まで走り続けました。

牝馬は繁殖に上げるため早くに引退することが多いということを踏まえると、それだけでも偉業と言えるでしょう。

屈腱炎を乗り越えて重賞を複数制し、マイルまでなら馬場不問。通算戦績は、61戦14勝、2着12回、3着7回。加えて、大ベテランとなってからの重賞連覇。

まさに、異例の名馬です。

いつしかファンから『バトラー姐さん』として愛されたのは、もしかすると、若い頃に発症した屈腱炎のおかげなのかもしれません。

あのまま芝を走っていたら、ここまでの個性派として、名を馳せていたのでしょうか?

『夏は牝馬』という格言通りに走って、長らく愛されたバトラー姐さん。
姐さんの様に名脇役がいたからこそ、あの当時のダート戦線は面白かったのです。彼女のような個性派の名牝を、いつまでも忘れないように、語り継いでいければと思います。

写真:Horse Memorys

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