川崎競馬場で開催される、全日本2歳優駿(ダート1,600m)。このレースは、1950年に「全日本三才優駿」として創設された歴史を持ち、また2歳唯一のJpnI競走と、格式の高いレースである。
それゆえ、中央・地方問わず2歳ダートのトッププロスペクトたちが集結するレースとなり、歴代優勝馬には「ウマ娘プリティーダービー」で人気のアグネスデジタル(1999年優勝)を始め、日本ダービー優勝馬や2歳でNAR(地方競馬全国協会)年度代表馬になった競走馬、GⅠ・JpnⅠ6勝を挙げた競走馬など、多彩な活躍馬が並ぶ。
今回はそんな歴代優勝馬の中でも、地方馬に焦点をあててご紹介していきたい(馬齢は現在の数え方で表記)。
第1回優勝・サチフサ(1950年、川崎ダート1,200m)
記念すべき第1回は大井のサチフサが第3コーナーで先頭に立ち、そのまま押し切って優勝。サチフサはこの後中央に挑戦し、12月の朝日杯3歳ステークス(中山芝1,100m)では翌年無敗の二冠馬になるトキノミノルの6着。
古馬になってからも、第1回中山金杯(中山芝2600m)を制していて、新設された重賞レースと縁が深い競走馬でもあった。
第4回優勝・ネンタカラ(1953年、川崎ダート1,400m)
1953年に大井所属でデビューしたネンタカラは全日本三才優駿含め11戦6勝の成績で国営競馬(現在のJRAの前身)に移籍。移籍後は「ゴールデンウエーブ」と改名し、第21回日本ダービーに挑戦した。
3年前にトキノミノルと同レースを制覇した岩下密政騎手とコンビを組み、優勝。岩下騎手はこれがトキノミノル以来2度目のダービータイトルとなった。
その後は中山4歳ステークス(現・ラジオNIKKEI賞、中山芝2,000m)など4勝を挙げた。引退後は種牡馬になり、1972年天皇賞(秋)優勝馬ヤマニンウエーブの母父となっている。
第8回優勝・ダイゴホマレ(1957年、川崎ダート1,500m)
ゴールデンウエーブとは同父を持つ本馬。大井に所属し、2歳時は地方で8戦全勝と圧倒的な成績を残した。そして全日本三才優駿を優勝したのを機に中央競馬に移籍。
移籍初戦は2着だったが、その後オープン・弥生賞・スプリングSと3連勝し、迎えた皐月賞では3着。その後NHK杯を勝ち、2番人気に支持された日本ダービーを優勝した。ゴールデンウエーブに続き、史上2頭目の地方競馬デビュー馬による日本ダービー馬である。
ダービーの後オープンを勝利したが、ノド鳴りもあってこれが最後の勝利となり、翌1959年を最後に引退・種牡馬となった。
ちなみにダイゴホマレが勝利した弥生賞、NHK杯、日本ダービーの2着は、クラシック三冠全て2着の珍記録を持つカツラシユウホウである。
第10回優勝・オンスロート(1959年、川崎ダート1,600m)
オンスロートは1959年7月に大井でデビューすると、いきなり7連勝をマーク。8戦目に初黒星(2着)を喫するも、次走から3連勝で全日本三才優駿を迎える。
爪が脆かったため、ここで初めて本格的に調教を積むことができたオンスロートは、圧巻の走りを見せる。ロングスパートで後続との差を広げ、ついた着差はなんと15馬身。このときの勝ち時計” 1分41秒4”は当時のレコードタイムであり、現在でも十分通用するタイムと言えるだろう。
2歳時は12戦11勝2着1回、うちレコード勝利4回と圧倒的な成績を残した。3歳時は爪の弱さなどから不振に陥ったが、11月の秋の鞍(現在の東京大賞典の前身)を勝ち、同年「公営日本一」に選出されると、翌1961年に中央競馬に移籍。
中央でも1962年天皇賞(春)、有馬記念を優勝し同年の啓衆社賞年度代表馬を受賞。南関東競馬と中央競馬、両方のトップに立ったのである。
地方時代の主戦を務め、調教師としてジョージモナーク、ハシルショウグンなどの名馬を管理した赤間清松氏は、本馬についてある中央の調教師に「どんな馬か?」と聞かれた際、「ダイゴホマレより上だ」と答えたという。
その赤間氏が「高級外車のようだった」と言い、満足に攻め馬が出来ないなか南関東で17勝もした本馬は、”地方のマルゼンスキー”のような存在だったのかもしれない。
第17回優勝・ヒカルタカイ(1966年、川崎ダート1,600m)
ヒカルタカイは、父系に“米国競馬史上最高の馬”マンノウォー、1936年アメリカ三冠馬ウォーアドミラルがいたものの、母系は3代さかのぼっても活躍馬に乏しい血統だったことから、わずか80万円で1歳暮れに大井に入厩した。
しかし体は丈夫で、普通3週間で取り換える蹄鉄を、ヒカルタカイの場合は2週間で替えていたほど、力強い馬に成長する。デビュー戦を8馬身差で圧勝すると、2戦目にダート1,000mのレコードをマーク。デビュー3連勝ののち2連敗を喫するが、全日本三才優駿と青雲賞を快勝し、2歳シーズンを7戦5勝2着2回の完全連対で終えた。
そして、3歳からが圧巻だった。ヒカルタカイが生まれた1964年に整備された南関東3歳三冠をいずれも快勝し史上初の南関東三冠馬になった。地方時代は20戦12勝、着外(4着以下)なしという文句のない成績で1968年から中央移籍。
中央では3戦未勝利で天皇賞(春)に挑むと、18馬身差の圧勝。続く宝塚記念も、2分14秒7のレコードで勝利する。両方で手綱を取った故・野平祐二氏は「天皇賞、宝塚記念に限れば競走馬として完成された非の打ちどころのない最強馬でした」と賛辞を送っている。
繁殖牝馬が1頭しかいなかった零細牧場からこのような強い馬が生まれるのも、競馬の醍醐味といえるだろう。
第25回優勝・シタヤロープ(1974年、川崎ダート1,600m)
シタヤロープの父リマンドは、メジロマックイーンの母父でもあるように、数々のGⅠ馬を輩出してきた名種牡馬だった。シタヤロープも父から譲り受けた才能を遺憾なく発揮。無傷のデビュー6連勝で迎えた全日本三才優駿では、5馬身差の圧勝劇を披露した。そして2歳シーズンを7戦全勝と完璧な成績で終える。
「ハイセイコーの再来」として史上2頭目となる南関東三冠馬の期待も高かったが、慢性的な脚部不安により実現には至らなかった。翌1975年4月の黒潮盃(1着)から9ヶ月の休養に入ると同時に、中央入りを果たす。地方通算成績は9戦8勝3着1回。なお、黒潮盃で1秒7差3着に破ったゴールデンリボーが同年の南関東三冠を達成しているため、もしシタヤロープが順調だったなら……と思わずにいられない。
中央では、トウショウボーイやメジロマックイーンの祖父メジロアサマなどを管理した名門・保田隆芳厩舎に入厩。1976年1月に東京のオープン(ダ1,400m)で復帰するも、3着に敗退する。続く2月のオープン(東京ダ1,600m)で7着に入ったのち、再び長期休養を余儀なくされる。
復帰はなんと1977年6月。1年4ヶ月もの離脱になってしまった。再復帰戦は4着だったが、続くオープン(中山芝1,800m)は同年ダービー馬ラッキールーラー(マルゼンスキーの同期)の2着と調子を上げ、11月の天皇賞(秋)に出走。ここには“TTG”のうちトウショウボーイとグリーングラスの2頭が出走していたが、2頭とも競り合いオーバーペースになって力尽きたところを、後方から鋭い追い込みで3着に入り、実力の片鱗を見せた。ちなみに、鞍上はかつてトウショウボーイの主戦ながらダービー、札幌記念を2着に取りこぼしたことで降板になった池上昌弘騎手であり、厩舎も同じという、因縁めいたものを感じさせる2頭である。
その後スポーツ紙に「予後不良」と報じられたというが、寺山修司氏の『山河ありき』によれば、ファンの支援で無事な余生を送ったと書かれているという。
第41回優勝・ユウユウサンボーイ(1990年、川崎ダート1,600m)
ユウユウサンボーイは川崎所属の競走馬で、2歳時は6戦3勝2着2回3着1回と馬券を外さない安定した成績を残した。全日本3歳優駿では、後にダービー卿チャレンジT連覇など中央重賞3勝を挙げるトモエリージェント(ウマ娘の史実馬との絡みでいえば、ニシノフラワーが優勝した1992年スプリンターズSに出走、12着になっている)を差し切り優勝している。
3歳になると京浜盃3着、黒潮盃6着、羽田盃7着と勝ち切れなくなるものの、その後中央に移籍し2勝を挙げた。ちなみに、1993年にはツインターボが勝利した七夕賞に出走し、11着に敗れている。
そして1994年からは岩手競馬で走り始めるのだが、これがユウユウサンボーイにとって大きな転機となる。当時の岩手競馬には、日本記録となる18連勝(当時)や41戦連続連対を記録するトウケイニセイ、そのトウケイニセイに唯一2回先着し重賞9勝のモリユウプリンスという二大看板がいた。そんな中でユウユウサンボーイは岩手初戦の桂樹杯(盛岡ダ1,750m)でいきなりモリユウプリンスを破る大金星を挙げたのだった。
それからもユウユウサンボーイとトウケイニセイ・モリユウプリンスらは死闘を繰り広げた。ライバル2頭が先に競馬場を去ってからも、ユウユウサンボーイは古豪として岩手で走り続け、1997年北上川大賞典では全日本3歳優駿以来2522日ぶりの重賞勝利を果たす。さらに、後に地方馬唯一の中央GⅠ制覇を達成するメイセイオペラを見届け、9年間の現役生活にピリオドを打ったのだった。
第51回優勝・トーシンブリザード(2000年、川崎ダート1,600m)
トーシンブリザードの父は、1997年フェブラリーSを優勝したシンコウウィンディらダートの活躍馬を輩出したデュラブ。母父もオグリキャップの妹オグリローマンやトウカイテイオーの叔母トウカイローマンなどの父でもあるブレイヴェストローマンで、こちらは母父として函館記念3連覇を達成したエリモハリアーやメジロドーベルのライバル・キョウエイマーチを出している。
そんな血統を持つトーシンブリザードは、デビュー戦を快勝すると、2戦目の山茶花特別では良血馬ロイヤルエンデバーと対決。ロイヤルエンデバーは、父が英ダービー、凱旋門賞を制覇しわずか4戦4勝で引退したラムタラ、半兄が1996年皐月賞馬イシノサンデーと、世代上位ともいえる期待を背負った馬だった。トーシンブリザードはそのロイヤルエンデバーに1馬身差で勝利すると、2戦2勝で全日本2歳優駿へ。
そこには雪辱を誓うロイヤルエンデバーを筆頭に、函館3歳S勝ち馬マイネルジャパン、翌年のダービーGPを勝つムガムチュウといったJRA勢だけでなく、地方からも前走で交流重賞・兵庫JGにて2着に入った笠松のレタセモアなどの好メンバーが揃っていた。そうした期待馬に囲まれ、トーシンブリザードは7番人気に甘んじての出走となる。
レースがスタートすると、トーシンブリザードは好位から逃げるロイヤルエンデバーを追走。直線は2頭の一騎打ちとなり、粘るロイヤルエンデバーをハナ差下し、2000年を3戦全勝で終えたのだった。
翌年も快進撃は止まらず、南関東三冠をいずれも2馬身以上の圧勝で達成。1999年に創設されたばかりの交流GⅠジャパンダートダービーにも参戦し、2着に1馬身半をつけ、無敗の四冠に輝いた。
その後は2002年フェブラリーSでアグネスデジタルの2着などがるものの、2度の骨折に苦しみ、2007年に引退。種牡馬になったのちオリオンザサンクスやブライアンズロマンらがいる荒木克己育成牧場で余生を送り、2021年8月に死去した。
第52回優勝・プリンシパルリバー(2001年、川崎ダート1,600m)
プリンシパルリバーは、まだ地方開催も行われていた札幌競馬場でデビュー(4 着)。その後は北海道で3勝を挙げ、北海道2歳優駿2着を経て全日本2歳優駿に向かう。
そこには前走北海道2歳優駿勝ち馬であり後に米国へ移籍し現地重賞を勝利するフェスティバル、同年の京王杯2歳S勝ち馬で前走は朝日杯FS6着だったシベリアンメドウ、函館2歳Sで3着に入り翌年にはチューリップ賞優勝・桜花賞5着と世代上位の活躍を見せるヘルスウォールら、骨のあるメンバーが揃った。
レースでは中団に構え、直線で逃げるジェネスアリダーをクビ差捉えゴールイン。初のタイトル獲得を果たした。
翌年は大井に移籍し、南関東三冠レースを狙い、一冠目の羽田盃を優勝するも、東京ダービー・ジャパンダートダービーはいずれも3着惜敗。その後は勝ち運に見放されたかのように成績が低迷し、以降、栗東→船橋→佐賀と転厩を繰り返した。そうした試行錯誤の末、2007年の北山湖特別(佐賀ダ1,800m)にて、羽田盃以来となる約5年ぶりの勝利を挙げたのだった。
第57回優勝・フリオーソ(2006年、川崎ダート1,600m)
フリオーソは父がナリタブライアンなどと同じブライアンズタイム、母父は日米で一大勢力を築いたミスタープロスペクターという血統を持つ。
デビュー2連勝を飾ったフリオーソだったが、3戦目の重賞・平和賞ではハナ差2着と惜敗。5番人気で全日本2歳優駿を迎えた。このレースには、中央から前走・兵庫JGを圧勝して臨むトロピカルライト、翌年UAEダービー(ナド・アルシバ、ダ1,800m)に挑戦(5着)し中央ダート重賞で活躍するビクトリーテツニー、未勝利・もちの木賞(500万下)を連勝しその後も中央ダートを4勝するクィーンオブキネマら4頭が参戦。地方からは、デビュー5連勝中だった川崎のロイヤルボス、前走の交流重賞・北海道2歳優駿で勝利したトップサバトンらが参戦し、多士済済なメンバーとなった。
レースは1番人気のトロピカルライトが逃げる展開。フリオーソは3、4番手からトロピカルライトをマークした。3〜4コーナーでスパートをかけ2番手に上がると、残り200mでトロピカルライトをとらえ、2馬身差でゴール板を駆け抜けた。
鞍上の内田博幸騎手はこれが地方・中央合計で年間500勝のメモリアル勝利となり、結局この年は524勝と当時の日本記録を打ち立てた。
その後はスマートファルコン、エスポワールシチー、カネヒキリら競馬史に残る中央の強豪らと名勝負を繰り広げたフリオーソ。2012年に引退したときにはGⅠ、JpnⅠを6勝・地方年度代表馬4回・7年連続最優秀馬などの勲章を獲得していたように、長い間地方の雄として地方競馬を引っ張る存在となった。その後は種牡馬となり、地方・中央合わせ産駒通算で6年間で1,000勝近くを挙げ、地方重賞も34勝(2021年12月時点)と多くの活躍馬を輩出している。
第60回優勝・ラブミーチャン(2009年、川崎ダート1,600m)
父はJpnⅠ1勝含む重賞8勝をマークし、ダートでの活躍馬を輩出したサウスヴィグラス。2008年に「コパノ」の冠名でもお馴染みの” Dr.コパ”こと小林祥晃氏に315万円で落札された。
当初は中央競馬でデビューさせるつもりで、ゴールドシップやソダシの調教師としても有名な須貝尚介厩舎に入厩。「コパノハニー」という名前で登録された。しかし方針転換し、じっくりトレーニングさせることになると、2009年7月に登録を抹消、笠松競馬場に移籍した。その際、「中央競馬時代の苦い経験を乗り越え、自分のことを好きになれるように」という願いをこめて「ラブミーチャン」に改名した。これが奏功したのか、後に彼女は伝説となっていくのである。
まず2歳10月のデビュー戦を4馬身で勝利すると、2戦目でいきなり重賞に挑戦し3馬身差で危なげなく勝利。3戦目はなんと中央・京都の500万下に挑みコースレコードで逃げ切り。さらに4戦目は交流重賞の兵庫JGに出走し、圧倒的に中央馬が強いこのレースも4年ぶり2頭目の地方馬Vを達成。こうしてラブミーチャンは、無傷の4連勝で全日本2歳優駿へと進んだ。
しかし全日本2歳優駿には、交流GⅢの北海道2歳優駿を鋭い末脚で快勝し勢いに乗るビッグバンが出走していたため、こちらに1番人気を譲り自身は2番人気に甘んじた。この他、翌年の交流GⅠジャパンダートダービーを勝つマグニフィカ、当時4連勝中のナンテカ、新潟ダートで8戦全て馬券圏内の新潟巧者アースサウンドらが顔を揃えた。
レースが始まると、ラブミーチャンの強さが際立つ一戦となった。先頭に立って逃げると、3コーナーでアースサウンドに詰められたが、ラブミーチャンはここから二枚腰を発揮。アースサウンドを競り落とし、追い込んでくるブンブイチドウに1馬身半差をつけゴールした。
勝ち時計1分40秒0は10年以上経った現在も破られていないレースレコードで、地方所属の牝馬の優勝は23年ぶり6頭目、南関東以外の牝馬の優勝は初。おまけに父と笠松にとって初のGⅠ(JpnⅠ)タイトルと、記録尽くしの勝利となった。これらが評価され、ラブミーチャンは史上初めて2歳で地方年度代表馬に選出されたのだっあ。
その後連勝を”6”まで伸ばしたラブミーチャンは、中央の芝重賞フィリーズレビューに挑戦。カレンチャン、ハニーメロンチャンと”チャン”がつく競走馬が3頭も出走したことで注目を集め、3頭では最上位の2番人気に支持されたが、ここでは12着に敗れている。
その後は名古屋でら馬スプリント(笠松、名古屋ダ800m)・習志野きらっとスプリント(船橋ダ1,000m)3連覇、交流重賞5勝を挙げ、2013年に6歳で骨折のため引退。現役ラストイヤーは交流重賞2勝含め重賞4連勝中と、衰えを見せぬまま競馬場に別れを告げた。
引退後はその功績を称えられ、2014年から笠松の重賞「プリンセス特別」を「ラブミーチャン記念」に改称し、現在に至っている。彼女の名前は競馬ファンの間で語り継がれていくことだろう。
第64回優勝・ハッピースプリント(2013年、川崎ダート1,600m)
2013年に門別競馬場でデビューすると2連勝を飾り、芝の函館競馬のレースにも挑戦。2戦していずれも5着と掲示板を確保し、再びダートに舞い戻ると、門別で行われたサンライズカップ・北海道2歳優駿の2歳重賞を連勝。勇躍、全日本2歳優駿へ遠征した。
ダートでは4戦負けなし、最低着差が前走の2馬身差と無類の強さを見せていた本馬が単勝オッズ2.5倍の1番人気に支持され、中央で2連勝中のメイショウイチオシ、前走兵庫JG勝ち馬で後にJBCスプリント(交流GⅠ)を優勝するニシケンモノノフが人気で続く形となった。
道中、ハッピースプリントは3番手につけ、逃げるスザクをマークする。4コーナーで先頭に並びかけ2頭の一騎討ちに持ち込むと、残り50mほどでスザクを捉え、1馬身半差をつけゴールイン。ラブミーチャン以来4年ぶりの地方馬Vとなった。
NAR(地方競馬全国協会)グランプリではこれらの活躍が認められ、ラブミーチャンと同じく2歳馬にして年度代表馬に選出された。同年に引退したラブミーチャンからバトンを受け取ったように感じたファンもいたことだろう。
翌2014年は南関東三冠を目指し、大井競馬へと移籍。一冠目の羽田盃を5馬身、二冠目の東京ダービーを4馬身で圧勝する。2001年トーシンブリザード以来12年ぶりの南関東三冠馬誕生なるかと、多くの地方競馬ファンが胸躍らせた。三冠目ジャパンダートダービー2004年は、アジュディミツオー(4着)以来の地方馬1番人気(1.4倍)となり、ファンの期待を一身に負って出走。3番手から先頭に立ち押し切りを図るが、外から足を伸ばした2番人気のJRAカゼノコにハナ差で敗れ、惜しくも三冠達成を逃した。
その後も8歳になる2019年まで現役を続け、2020年から種牡馬となっている。
第70回優勝・ヴァケーション(2019年、川崎ダート1,600m)
ヴァケーションは、父がダートGⅠ級9勝を挙げたエスポワールシチー、母は産駒が地方で勝ち星を挙げているテンノベニバラというダート血統で、2019年に川崎でデビューすると4戦3勝の成績で全日本2歳優駿へと向かった。
そこには、前走の交流重賞・兵庫JGを勝利し2021年にも交流重賞2勝を挙げるテイエムサウスダン、門別重賞サンライズC勝ち馬で2021年テレ玉杯オーバルスプリントで2着に入るティーズダンク、兵庫JG2着で中央ダートでも2勝をあげるメイショウテンスイらが集結。上位5頭の単勝オッズが10倍を切る、混戦模様となっていた。
5番人気に甘んじていたヴァケーションだったが、レースは中団追走から直線で逃げ粘るJRAのアイオライトをアタマ差かわして勝利。前走の平和賞から、重賞連勝を達成した。南関東所属馬の優勝はフリオーソ以来13年ぶり、地元・川崎勢の優勝は中央との交流競走となった1997年以来初だった。
第71回優勝・アランバローズ(2020年、川崎ダート1,600m)
2020年4月21日の能力試験で、この日の800mで最速の48.9秒を出し合格になると、デビュー戦で1番人気に応え3馬身差の逃げ切りを果たす。2戦目で1秒1差の圧勝を見せると、3・4戦目は2歳重賞を危なげなく勝利。無傷の4連勝で全日本2歳優駿へ駒を進める。
このレースには、兵庫JGを勝ちデビュー3連勝中のデュアリスト、未勝利戦を10馬身で圧勝したバクシンらJRA勢をはじめ、JBC2歳優駿を優勝し翌年にはホッカイドウ競馬で史上6頭目の三冠馬になるラッキードリーム、そのJBC2歳優駿で2着に入り翌年に羽田盃を優勝するトランセンデンスなど、将来的に各地で活躍するメンバーが揃った。
ゲートが開くと、アランバローズが先手を主張しハナを奪う。4F(800m)目に13秒3とガクッとペースを落とすと、勝負どころの5F目で11秒8と一気にペースアップ。後続に脚を使わせると、直線はアランバローズの独壇場に。終わってみれば2着ランリョウオーに5馬身、3着ルーチェドーロにはさらに3馬身という差をつけ圧勝していた。
翌年は南関東三冠に挑むも、年明け初戦の京浜盃は出遅れて9着に大敗。一冠目の羽田盃は気負ったのかハイペースでの逃げになり、直線トランセンデンスにつかまり2着に敗れた。続く大一番の東京ダービーでは全日本と同じく、向正面で後続を引き付け直線で突き放す得意のパターンに持ち込むと、すがるギャルダルを3/4馬身振り切ってダービー馬の栄冠を手にした。
1歳時に北海道サマーセールで918万円(税込)で取引された本馬がいまや地方だけで約1億5千万円(注:2021年12月時点)を稼ぐ馬になったのは驚嘆すべきことである。
写真:s.taka