[南部杯]トウケイニセイにメイセイオペラ、トーホウエンペラー…。岩手の伝統JpnⅠを制した名馬たち。

ダートの快足自慢が揃うマイルチャンピオンシップ南部杯は、1988年に北関東以北の地方交流「北日本マイルチャンピオンシップ南部杯」として創設されたのを発端とする。現行のGⅠに格付けされたのは97年からのことである。

それからアグネスデジタル(2001年)、コパノリッキー(2016-17年)と、ウマ娘でもお馴染みの競走馬が活躍し、現在はJBC競走の前哨戦“Road to JBC”のひとつとして1着馬にはJBCスプリントまたはJBCクラシックへの優先出走権が与えられている。

95年に中央・地方の全国交流競走となってからは中央24勝、地元・岩手2勝と中央勢が圧倒的な成績を残しているこのレースで、ファンに絶大なインパクトを刻んだ地方馬4頭をご紹介したい(馬齢は現在表記)。

トウケイニセイ(1993・1994年)

南関東で重賞3勝を挙げ、岩手移籍後も7連勝を記録するなど活躍したトウケイホープを父に、岩手生え抜き初の1億円ホースとなったトウケイフリートを兄に持って生まれたトウケイニセイ。デビュー前の能力検査ではスタート直後にクルッと反対方向に走り出すなど順調さを欠き、3度の試験で3、4、1着と、のちの成績から見れば信じられない結果に終わった。

デビュー戦を好タイムで快勝したが、2戦目直前に浅屈腱炎を発症。15か月もの休養を余儀なくされる。しかし当時の獣医が「4歳(筆者注:当時は数え年だったので現在の数え方では3歳になる)秋にトウケイニセイが変わりました」と証言していたように、休養はむしろ身体的な成長においてプラスになったようだ。事実、復帰後は連勝を重ね、1992年に日本記録(当時)の18連勝を達成。19戦目(出走取消となった1戦を含めば20戦目)を2着と連勝記録は途絶えたが、その次戦から再び連勝街道に乗る。7連勝で迎えた93年南部杯は約14か月ぶりのマイル戦であり、気性的に早い流れへ対応できるかなど不安が囁かれていたが、逃げるオーディンがハイラップを刻む中を中団から追走すると、約200mもの叩き合いの末トウケイニセイがクビ差抜け出し、レースレコードで8連勝を達成した。

その後も、「SG時代」と呼ばれ岩手で名勝負を繰り返してきたスイフトセイダイ・グレートホープ、トウケイニセイより2つ年下ながら好敵手となったモリユウプリンスといった名馬たちとの激戦を繰り広げる中で力をつけていき、翌94年の南部杯では昨年の自身のタイムを0.3秒更新する1分39秒5を叩き出し、水沢ダート1600mのレコードを20年ぶりに更新した。

翌95年は中央と地方の交流が本格的にスタートし、「交流元年」と呼ばれていたが、トウケイニセイは順調に勝ち星を重ね、中央交流レースでも2着に5馬身差と衰え知らずのまま3連覇をかけ南部杯へ出走。しかしそこにはライブリマウントがいた。

ここで簡単にライブリマウントについて紹介したい。デビュー戦で2着を10馬身ちぎり、その後勝ち負けを繰り返していたが3歳夏に3か月弱の休養でソエ(骨が未熟な若駒のときに強い負荷をかけると発症する炎症)が治りイレ込みの激しさが解消されると、素質が開花。中央ダート重賞を3連勝し、帝王賞・ブリーダーズゴールドカップとこの年から中央に開放された重賞も快勝すると、同年に中央と地方両方から表彰された競走馬である。

翌年には日本を飛び出しドバイワールドカップへ向かうことが発表されていた。中央、いや日本を代表するライブリマウントと岩手で無双するトウケイニセイの対決は大きな話題を呼んだ。

レースはライブリマウントが2番手につけ、トウケイニセイがそれをマークする展開に。3コーナーすぎにライブリマウントが逃げる大井のヨシノキングを捕らえにかかり、トウケイニセイもスパートをかけるが、1馬身、2馬身と離されていく。

直線ではヨシノキングとライブリマウントの一騎打ちとなり、残り50mからライブリマウントが半馬身交わしてゴールイン。トウケイニセイは勝ち馬から3馬身離された3着に終わり、自身の連対記録も“41”でストップした。

菅原騎手も「完敗です」と肩を落とすショッキングな敗戦だったが、引退レースの桐花賞で2馬身差の圧勝と有終の美を飾り、種牡馬になった。

ちなみに種付けではいきなり突進するなど豪快そのものであり、驚いた牝馬に急所を蹴られて1週間ほど種付けを休んだというほのぼのした(?)話も伝わっている。

メイセイオペラ(1998年)

イギリス三冠馬ニジンスキーと、カナダ年度代表馬の間に生まれた超良血グランドオペラの産駒として誕生したメイセイオペラは、素質の高さから当初中央入りするはずだった。

しかし水沢競馬の佐々木修一調教師の懇願により岩手からデビューすると、2歳冬から3歳夏まで9連勝を記録。

3歳ダート三冠(ユニコーンステークス、ダービーグランプリ、スーパーダートダービー)に挑むつもりだったが、ユニコーンS直前に馬房で暴れ頭蓋骨を陥没骨折。三冠制覇の夢は絶たれてしまう。ちなみにこの年のユニコーンSを制覇したのがタイキシャトルである。

しかし驚異的な回復力でケガから復帰すると、ダート三冠の最後の2つこそ大敗したものの、休み明け3戦目で古馬相手に復活の勝ち星を挙げる。

4歳になった1998年、宿命のライバルに出会う。引退までにGⅠ4勝・重賞14勝を挙げ中央勢を幾度となく蹴散らしてきた南関東の雄アブクマポーロである。

初対決の川崎記念はアブクマポーロから8馬身半、1.8秒差の4着に引き離されたが帝王賞で0.4秒差まで着差を縮めると、ホームの南部杯で3度目の正直に挑むことになったのである。

メイセイオペラは内枠を活かし思い切った逃げ作戦に出ると、去年の覇者タイキシャーロックとアブクマポーロが牽制し合っているのを尻目にスピードを緩めることなく、終わってみれば2着のタイキシャーロックに3馬身差、さらに前年タイキシャーロックがマークしたレコードタイムを1.1秒も上回るタイムで優勝したのだ。レース後には菅原勲騎手へ「イサオコール」が巻き起こったという。

その後ダート2000mの東京大賞典ではアブクマポーロの底力に屈し2着も、翌年のフェブラリーステークスで地方馬初にして唯一のGⅠ制覇を達成。飛節の捻挫で長期離脱を余儀なくされたアブクマポーロに代わって地方競馬界をリードし、2000年に屈腱炎のため引退した。

アブクマポーロとは4度対戦して勝ったのは南部杯での1回のみ。生涯4度の二桁着順いずれもダート2000mと中距離では取りこぼすこともあったが、マイルの南部杯は天性のスピードが存分に発揮されたレースだったといえよう。

トーホウエンペラー(2002年)

2022年現在、南部杯で岩手勢および地方勢最後の勝利を挙げたのがこのトーホウエンペラーである。

ミホノブルボン・ライスシャワーらの同期で93・94年天皇賞・秋では連続2着というセキテイリュウオーを生産した千葉飯田牧場。同牧場における期待の競走馬として生まれたトーホウエンペラーだったが、豊富な運動量に骨の成長が追い付かず、デビューはなんと3歳12月になってしまう。

しかしそこからデビュー9連勝を飾ると、5歳時には初GⅠ挑戦となった帝王賞で5着に好走。さらにマーキュリーカップ3着、エルムステークス2着と交流レースで上位に入り地元重賞の青藍賞を勝つと南部杯に駒を進めた。

しかしそこにふは、芝・ダートの二刀流ホース、アグネスデジタルがいた。前走、日本テレビ盃を圧勝し断然の1番人気に推されたデジタルは楽な手応えのまま優勝。前年のマイルチャンピオンシップとともに芝・ダートの両マイルGⅠ制覇をあっさり達成した。その後、デジタルは国内外の芝ダートGⅠをさらに3連勝することになる。一方トーホウエンペラーはデジタルをマークし3/4馬身差まで迫ったが、底力の違いを見せつけられてしまった。

その直後、新潟ダート1800mで行われていた今は無き交流重賞・朱鷺大賞典をレコードタイムで念願の交流重賞初制覇を、年末の東京大賞典で初GⅠ制覇を達成し、これらの活躍で2001年NARグランプリ年度代表馬を受賞。

翌2002年も南部杯に出走したトーホウエンペラーだったが、前走こそ地元重賞で格の違いを見せつけ快勝も、2走前は1着馬から2秒近く離された3着、3走前の帝王賞も5着と中央馬相手に苦しいレースが続いていた。

そこで陣営はトーホウエンペラーの体を鍛え上げ、デビュー以来最軽量の496キロまで体重を絞った。この渾身の仕上げが功を奏したのか、レースでは1000m59秒3という速い流れを中団から追走し4コーナーで先頭集団に取りつくと、武豊騎手の駆るGⅠ馬ノボトゥルーらを尻目にゴールイン。前年の雪辱を果たした。

その後ジャパンカップダート、東京大賞典に出走するもそれぞれ6,8着に敗れ引退。しかし南部杯の勝利などが評価され2001年に続き2年連続でNARグランプリ年度代表馬に選ばれた。

タケデンマンゲツ(1992年)

最後に、今は廃止されてしまった栃木競馬所属で唯一頭、南部杯を制したタケデンマンゲツで締めたいと思う。

タケデンマンゲツは1989年に中山競馬場でデビューし、5歳まで中央で28戦5勝の成績を挙げ、92年から宇都宮競馬に移籍。すると北関東の水が合ったのか、10戦9勝と圧倒的な戦績で栃木を飛び出し、南部杯へ挑戦することになった。

この南部杯には、

・当時すでに重賞9勝、2年前の南部杯王者で岩手の雄グレートホープ

・16戦13勝4着以下無しと絶好調。高崎のフジギニー

・目下4連勝中で、後に牝馬唯一の栃木三冠馬にして「北関東最後の女傑」と呼ばれたベラミロードの母となった栃木のベラミスキー

・中央所属時代に根岸ステークスをレコード勝ちした岩手のエーコートランス

といった、北日本を代表する錚々たるメンバーが集結した。

このハイレベルなメンバーの中2番人気に支持されたタケデンマンゲツは、レース序盤は中団外を追走。向う正面でスパートをかけると、4コーナーで先頭に立ったベラミスキーを捕らえてからはリードが広がる一方。終わってみれば2着ベラミスキーに5馬身差の圧勝だった。

その後川崎記念でハシルショウグン(93年オールカマーでツインターボの2着)の2着に入るなどその実力は全国区でも引けを取らないことを証明したタケデンマンゲツ。後年は上山競馬に移籍し13勝を挙げたが、宇都宮・足利で16戦14勝と無敵の数字を残した彼の走りは、ファンの心に焼き付いている。

写真:かず

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