[連載・馬主は語る]すべてのサラブレッドは素晴らしい(シーズン1 最終話)

フリーリターンという制度があります。社台スタリオンステーションが今から20年近く前に始め、他のスタリオンも追従する形で今に至ります。フリーリターンとは、読んで字のごとく、無料で戻してくれる制度。つまり、今回のように種付け料を支払ったあとに流産や死産してしまった場合、翌年、同じ種牡馬を無料で種付けできることができるシステムです。

フリーリターン制度がなかった頃は、流産や死産をしてしまうと、繫殖牝馬の所有者は丸損してしまったのですが、今はフリーリターン制度があるおかげで救われる面もあるのです。もし翌年、対象の種牡馬の種付け料が上がった場合でも、その差額を支払うことで同じ種牡馬を種付けすることができます。

ニューイヤーズデイは2022年度も250万円と前年と同じであることが決まりましたので、ニューイヤーズデイであれば無料で種付けできるということですね。こういう状況になってみると、実にありがたいシステムです。

ダートムーアが流産してしばらくの間は、正直に言ってきつかったです。物書きの端くれが、きつかったなんていう言葉で片づけてしまうのは情けないのですが、とにかくきつかった。こころと背中がズシンと重く、何をしても手につかない感じ。何がきついのか、自分のこころを分析してみようとしても分からないぐらい、僕の中で複雑な感情が絡み合い、窒息しそうでした。

調子に乗って繫殖牝馬を買い、生産のまねごとなどをしようとしたから、神さまがこのような仕打ち、いや洗礼を施したのかとも思いました。初めての繁殖牝馬であり生産馬が、わずか20日の間に流産してしまうなんて、お前に生産など向いていない、辞めておけというサインではないのか。馬が高く売れる時代だから、生産しようなんてよこしまな考えを見透かされたように感じ、そんな僕に買われたダートムーアにもそのせいで死んでしまった子どもにも、さらに巻き込んでしまった長谷川さんや下村獣医にも申し訳ない気持ちになりました。まだ被害が少ないうちに僕は手を引いた方がいいのかもしれない。僕の置かれた状況になれば、誰しもがそう思うかもしれませんし、僕はそう思いました。

もちろん経済的な損失も少なくありません。もしダートムーアとニューイヤーズデイの仔が無事に生まれてきて、すくすくと育ち、当歳セールか1歳セールに出すことができるようになったとすれば、性別や馬体の出来にも大きく左右されますが、ブラックタイプや血統的背景を考えると、1000万円単位のお金が動いたかもしれません。皮算用ではありますが、1000万単位の大金が一瞬にして僕の目の前で溶けてなくなり、毎月約10万円の預託費の支払いだけが僕に残されたのです。お酒は下戸なのに、お金に関してはザルである僕の頭でさえも、さすがにこの流産が極めて大きな経済的損失であることは分かりました。

もうひとつ、楽しみが1年先に延びてしまったことも、僕の心が暗くなった理由のひとつでした。2022年には仔馬が誕生し、ダートムーアとその仔が走り回る姿を牧場に見に行ったり、長谷川さんや下村さんたちと夢を語り合う未来を想像していたのに、一瞬にして1年延びてしまったのです。それは生産という世界の時間の流れの単位なのです。1年ひとサイクル。もっと言うと、ダートムーアの仔が競馬場で走る姿を見られるのは、早くても3年後になったということです。30分以上の動画を長いと感じたり、細切れの時間でLINEのやり取りを繰り返している僕たちにとって、あまりに長すぎる気の遠くなる話です。生産の世界では、良いことがあっても悪いことが起こっても、じっと我慢して、ひたすらに待つしかないのです。

夕方になって、もう一度、長谷川さんから電話がありました。診断が確定し、やはり臍帯捻転(さいたいねんてん)ということでした。誰が悪いわけではない事故ということでひと安心です。長谷川さんも同じ気持ちだったことでしょう。「サラブレッドが競馬場で走るまでには数々の試練があって、競馬場で走っているだけで凄いことなんです」と長谷川さんは言いました。正直に言うと、僕は心のどこかで生まれてきて当たり前と思っていた節がありました。まさか自分が初めて購入した繁殖牝馬の最初の仔が、わずか20日間で流産してしまうなんていうことが、自分の身に本当に起こるとは思っていませんでした。

今回のことがなければ、サラブレッドは生まれてきて当然だと僕は思っていたでしょうし、無事に育って、競馬場で走っても当たり前だと考えていたはずです。でも実際はそうではなかった。そんな当たり前のことを僕は最初に教えてもらいました。前を向かなければいけないと気持ちを入れ替えたとき、ふと天から舞降りてきた言葉がありました。

「すべてのサラブレッドは素晴らしい」

相田みつをさんの「みんな違ってみんないい」みたいで恥ずかしいのですが、そのとき僕は心からそう思えたのです。生まれてきただけでも素晴らしいし、牧場で無事にすくすくと育ち、母親から離れ、馴致から育成時代を経て、怪我やアクシデントを乗り越えて競馬場にたどり着いただけで素晴らしい。今の僕にとって、走り回っているすべてのサラブレッドは素晴らしいと思えるのです。もしかすると、子を失ってしまった父親や母親が他の子どもたちを見て、まぶしく輝いて見えるのと同じような感覚なのかもしれません。もし来年、ダートムーアとニューイヤーズデイの仔が無事に生まれてきてくれたなら、今まで以上に輝いて見えることでしょう。

(シーズン1終わり)

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