アグネスワールド〜世界を席巻したスピードスターの原点〜

2歳戦最初の重賞である、函館2歳S。
芝1200mという施行条件、2歳戦開始からわずか2ヵ月という時期もあるのか、歴代の勝ち馬には早熟タイプが多い。近年はダービー前日に重賞の葵Sが新設されそこで復活する馬も出てきてはいるものの、総じて古馬になっても活躍するような馬が少なく、忘れられがちなタイトルでもあった。

フランスのアベイ・ド・ロンシャン賞、イギリスのジュライCと海外GⅠを2勝したアグネスワールド。
同馬の初重賞タイトルは、函館2歳S(当時は3歳S)だった。

父はアメリカ競馬界の大種牡馬ノーザンダンサーの後継種牡馬ダンチヒ。
母の父はアメリカ競馬史上初となる無敗の三冠馬シアトルスルー。
アグネスワールドの速力は、アメリカ血脈の結晶でもあった。

デビュー戦は97年1回函館初日の6R芝1200m戦。道中は7頭立ての4番手、後年のイメージとは異なる大人びた競馬で直線抜け出し、2着のマイネルクラシックに5馬身差をつけて圧勝した。
200m強の短い直線での5馬身差は、後年の活躍を予感させるものだった。

そしてデビュー2戦目が、函館3歳S(現2歳S)。2番人気での出走だった。
1番人気はアグネスワールドが走った翌日のダート1000mの新馬戦で1秒4差、続くオープンのラベンダー賞(芝1200m)も逃げて1秒1差圧勝だったサラトガビューティ。父はダンチヒ系アジュディケーティング。ラベンダー賞の時計1分10秒2はアグネスワールドの1分11秒0をはるかにしのぐ好時計だった。
レースが始まると、サラトガビューティが前半600m34秒4とハイラップで飛ばし、それをきっちりマークしたアグネスワールドが0秒3差つけて競り落とした。
勝ち時計はサラトガビューティのラベンダー賞を上回る1分9秒8。
当時のレースレコードを更新し、自身は2戦目で時計を1秒2も詰めてみせた。

その後、残念ながら骨折が判明したアグネスワールドは暮れの朝日杯3歳S(当時)にぶっつけで出走。
馬体重+26キロ、さらに初のマイル戦では勝手が悪く、グラスワンダーの4着に敗れたものの、これだけ不利な条件下での4着で改めて早熟ではないことを示した。

そしてさらに才能を示したのが、次走のGⅡ全日本3歳優駿(当時)。
ダートグレード競走に格付けされた最初のレースで、アグネスワールドはそのアメリカ血脈を活かし優勝。ダートながらマイル戦を克服した。函館で時計を詰め、川崎でマイルをクリア。目の前の課題に対してきっちり答えを出すあたりにその性能の高さがうかがえる。

ところが明け4歳(当時)初戦のシンザン記念2着後にふたたび骨折が判明。
脚元の弱さがどうにも道を阻んでしまう。休養は1年に及び、5歳になったアグネスワールドはその年の夏、小倉の北九州短距離Sで自身の速力を爆発、一気に逃げ切り当時の日本レコード1分6秒5を叩き出した。

森秀行調教師は、その走りを踏まえ、アグネスワールドをフランスに連れて行った。
舞台はロンシャンの直線1000mアベイ・ド・ロンシャン賞。
新潟競馬の直線レースがまだなかった時代、アグネスワールドのスピードを存分に発揮できる直線競馬に出走するにはヨーロッパしかなかった。この英断がアグネスワールドに海外GⅠ制覇というタイトルをもたらした。さらに翌年6月には、同じく直線競馬のイギリス・ジュライC(芝1200m)を勝った。

海外でGⅠ2勝をあげながら国内のGⅠを勝てなかったアグネスワールド。
その原因はそのスピードにあった。小倉で1分6秒5を記録するほどの速力は、スピードを自然に落とさなければならないコーナーリングでアダとなったのだ。国内のスプリントGⅠは中山と中京。改修前の中京競馬場は中山競馬場と同じくコーナーがきつく、アグネスワールドにとっては難敵だったにちがいない。

アグネスワールドが引退した翌年夏、新潟競馬場に国内唯一の直線1000mが誕生した。

──あのコースを一度走らせてみたかった。

当時、そんな声がよく聞こえた。

3歳(当時)から6歳まで世界を股にかけて活躍したスピードの片りんを見せたレース、それが快速牝馬サラトガビューティを競り落とした97年函館3歳Sだった。

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