きっかけは2000年安田記念だった。前年暮れの香港スプリントを勝ったフェアリーキングプローンが10番人気の低評価を覆し、優勝。これを機に香港勢の日本遠征が活発になった。日本の競馬ファンにとって、競馬は1年365日全国どこかで開催されているシーズンオフなき競技だが、世界の競馬にはオフシーズンなるものが存在する。香港では4、5月チャンピオンズデーがシーズン終盤のビッグイベント。過酷な夏は競馬開催がない。大きなレースがない6月、すぐ隣の日本に高額賞金レースがある。そして、フェアリーキングプローンの勝利によって、香港勢にとってチャンピオンズデーの続きを日本に求めるようになった。
そのピークがアジアマイルチャレンジが整備された2005、06年ごろだった。日本ではディープインパクトが無敗で三冠を制し、天皇賞(春)、宝塚記念と伝説を作り続けた時期のこと。安田記念に3頭の香港勢がやってきた。とりわけ直前のチャンピオンズマイルで2着に敗れたとはいえ、デビューから17連勝を記録し、香港スプリント連覇、チェアマンズスプリントプライズ連覇など無双状態だったサイレントウィットネスがいた。さらにチャンピオンズマイルでその連勝記録を17で止めたブリッシュラックまでやってきた。当時、サイレントウィットネスの連勝記録が止まったことで、日本遠征に踏み切ったという報道に接し、興奮と同時に負けてたまるかと妙な意識を持った自分を思い出す。最近はそんな対抗心を燃やせる遠征馬が減ってしまった。裏を返せば、日本馬が強くなった証ではあるのだが、それでも挑んでくる外国馬の気概に触れる機会を欲するのが今の自分だ。
サイレントウィットネスは超一流のスプリンターではあるが、マイルの距離を延ばし、敗れている。安田記念が行われる東京マイルは、スピードだけでは押し切れず、中距離をこなすスタミナがないと勝てない。負けるわけがない。だが、この年のマイル戦線は前年の安田記念を勝ったツルマルボーイが引退し、マイルCSを勝ったデュランダルは休養中と、大将格を欠いていた。1番人気は前年のマイルCS3着のGⅠ馬テレグノシス。そのオッズは5.8倍と高く、2番人気ダイワメジャー6.8倍以下、どこからでも入れる主役なき状況だった。香港勢を含め、チャンスはどの馬にもある。馬券野郎にとって、この上ないご馳走メニューでもあった。いいかえれば、関係者もまた虎視眈々と一発を狙える。抑えきれぬ野心に満ちたレースは迫力が違う。
先を争い、ごった返す先行集団からじわりと抜けてきたのはローエングリン。マイラーズCを2年ぶりに勝った快足馬は2年前の安田記念で2番手から3着に粘ってみせた。翌年も好位に控えて5着。スピードとスタミナを両立させる東京マイルは勝利こそないが、中山1800mと同じく適性があった。後藤浩輝に乗り替わり、一転して逃げの手に。強気が身上の後藤騎手、このメンバーなら勝機ありと確信をもった逃げだった。
その背後に慣れない遠征で16キロも馬体を減らしながらも、550キロと雄大なサイレントウィットネスがプレッシャーをかける。オレハマッテルゼ、ユートピアら伏兵とダンスインザムードがサイレントウィットネスを取り囲む。その包囲網にハマるまいと、サイレントウィットネスがローエングリンに並ぶ。ローエングリンも巨大な圧迫から逃れようと先を行く。先行勢のサイレントウィットネスへの意識が次第に厳しい流れへと誘われていく。
しかし、サイレントウィットネスはローエングリンを交わし、包囲網を振り切っていく。周囲を寄せつけない圧をはらんで抜け出す姿はさすが香港のチャンピオンだ。安田記念をねじ伏せにかかっていた。だが、坂をあがった1400mを過ぎ、サイレントウィットネスの脚勢が緩む。高らかに上げていた前脚の角度が下がってきた。この機を待っていたのが、先行集団がつくる包囲網の直後にいたアサクサデンエンだ。サイレントウィットネスと同じ6歳ながら、直前の京王杯スプリングCで重賞初勝利をあげたばかり。父は同い年のローエングリンと同じシングスピール。この年のシングスピール産駒はドバイワールドカップを勝ったムーンバラッドもいて、当たり年だった。父が駆け抜けた東京で、イギリスから日本に渡った2頭が香港の刺客に挑んだ。ローエングリンが引っ張り、アサクサデンエンがそれを追撃する。サイレントウィットネスは日本勢だけでなく、本場イギリスの血まで相手にしなければならなかった。
アサクサデンエンは内にバランスオブゲーム、外からスイープトウショウに挟まることで、闘志を前面に出せた。苦しいところでこそ燃える心、まさに闘魂だ。前を行くサイレントウィットネスをつかまえ、外から迫るスイープトウショウを抑える。難しい状況のようで、アサクサデンエンにとってもっとも力を発揮できる形だった。底力を引き出すには追い込まなければならない。この宿命こそがサラブレッドが生死をかけて走るゆえんだろう。いくら馬が草食動物として速く走って、自分の身を守るという本能をもって生まれたとしても、競馬は自然界では絶対出さないスピードで走らなければいけない。つねに限界を超えていくことを求められる。どうやったら、限界を超えながら、生きていくか。人馬の苦悩と知恵がアサクサデンエンの直線の走りにみえる。前と後ろのライバルの存在を巧みに使える状況が勝利への道となった。こんなことができる人馬には、敬意しかない。
サイレントウィットネスもまた、限界に挑んだ。ゴールが近づくにつれ、脚が上がらなくなりながらも、それでも前を目指す心に衰えはなかった。バテててはいるが、バテていない。心は決して負けていない。だからこそ、4カ月後、スプリンターズSを勝てた。心身とも消耗し尽くしていたなら、あの勝利はなかった。アサクサデンエンを最後まで追い込んだスイープトウショウもまた、ゴール板まで闘志を燃やし続けられたことが次走の宝塚記念での快挙につながった。限界を超えた先へ突っ込んでいった経験は必ず報われる。だから、限界を超えようとする。その激突が、2005年安田記念にあった。限界を前に怖気づかず、少しでいいから限界の先へいってみよう。競馬はそんな気持ちにさせてくれる。
写真:Horse Memorys