[連載・片目のサラブレッド福ちゃんのPERFECT DAYS]水泡か受精卵か(シーズン1-20)

ノースヒルズの新冠本場にて開催された、開場40周年記念式典に行ってきました。お誘いを受けたときは、日高の牧場の関係者などを招いて行う内輪のパーティーかと思っていましたが、いざ会場に着いてみると、ほぼ全ての競馬関係者と言っても過言ではないほどの人たちが集まっていることが、ひと目で分かります。

武豊騎手や川田将雅騎手らのジョッキーたちはもちろんのこと、矢作芳人調教師や木村哲也調教師らのトレーナーから大手牧場主や各界の著名人まで、あとで聞くと500名ほどが参加したそうです。プラダのブランドに身を包んだ今村聖奈騎手は画面で見るよりも美しく、着慣れないスーツ姿でズボンの丈に合わない短めの靴下を履く田口貫太騎手は可愛らしい。

僕のような無名のライター、いや馬主、いや生産者はその華々しさに気おくれしてしまい、誰にも声をかけられず、食事をもらう列に並ぶことで時間を費やすのみでした。おかげさまで、ローストビーフやカレー、たこ焼き、串カツといった全ての出店を制覇させてもらいました。

最も印象に残ったのは、前田幸治代表のスピーチでした。生産牧場をやると言ったとき、ほぼ全員に反対されて、特に父親は大反対だったそうです。それまであらゆることに諸手を挙げて賛成し、応援してくれた父親も、生産牧場だけは辞めておけと頑として首を縦に振ってくれなかったとのこと。そんな父の反対をも押し切って前田氏は牧場を立ち上げ、苦労や失敗を重ねながら少しずつ大きくなっていったのですが、父親が病床に臥せて亡くなる前に、「牧場は辞めたよ」と優しい嘘をつきました。それを聞いて父親は「そうか」と言って安心して亡くなったそうです。その後、お墓参りに行ったとき、前田氏は父親に嘘をついたことを謝りながらも「牧場は成功した」と報告したところ、「許す」と父親は言ってくれたという話です。

このエピソードに牧場経営の厳しさや難しさ、それにも負けずに打ち克ってきた前田氏のチャレンジングスピリットやちょっぴりのユーモアが凝縮されていると感じました。2頭の繁殖牝馬を牧場に預託しているだけでも、サラブレッドの生産の世界の恐ろしさを実感している僕は、40年にわたってオーナーブリーダーを続けてきて、ここまでの成功を収めていることにただただ驚くのみです。

式典が終わり、碧雲牧場の慈さんに迎えにきてもらいました。慈さんもノースヒルズのような大手牧場に来るのは恐縮してしまうそうです。僕を拾って、そのままUターンして福ちゃんの元へと向かうことになりました。車内で明日の予定を確認すると、早朝にダートムーアの妊娠鑑定(ニンカン)があり、その後、ダートムーアの23を浦河のNO,9ホーストレーニングメソドまで運んで行きましょうとのこと。僕にとっては2大イベントになります。

碧雲牧場に着くと、仕事が終わってお母さま、理恵さん、みづきさん、みうさんが勢ぞろいしており、夕食の準備が始まっています。今日は行者ニンニクに漬けた唐揚げと生醤油の焼きうどんだそうです。行者ニンニク漬けの唐揚げはパンチがあって、お酒のおつまみには最高です。僕は飲めないのですが、焼うどんと一緒に食べるとちょうど良いバランスでした。お腹いっぱいになり、さすがにこれ以上食べられないと思っていると、みづきさんがつくってくれた福ちゃんの顔を型取ったクッキーが出てきました。

福ちゃんの顔を食べるのは申し訳ない気がしましたが、食べてみるとバターがふんだんに使われていて、「これは販売できるレベルですね」と言いながら、次々と別腹に入って行ってしまいました。いつか「福ちゃんクッキー」が販売されたときは食べてみてください(笑)明日の朝も早いので、僕も早く寝ることにしました。普段は7時過ぎまで寝ている生活を送っていますが、こちらに来ると4時に起きないと良い画が撮れません。せめて5時のニンカンに間に合うようには起きたいと思います。

4時半ごろに出ていくと、慈さんたちはまだ来ておらず、お母さまと話しながら待ちます。しばらくすると慈さんたちがやってきて、「治郎丸さん早いですね。もう生産者ですね」と言われて誇らしく思っていると、馬の放牧が始まりました。福ちゃん母子はニンカンがあるので馬房に残り、他の母子たちは1組ずつ放牧地に放たれます。夕方から朝まで馬房でじっとしていたので、朝はどの母子たちもエネルギーが余っていて、早く広い放牧地に走り出したくてウズウズしている様子が伝わってきます。それでも慌てて出ていくと危ないので、放牧地の入り口までは落ち着いて歩き、そこから走り出すことをスタッフの皆さんで教えています。そうこうしていると、獣医師さんの車の音がしたようで、慌てて準備に取り掛かります。今日はサバイバルポケットのニンカンを最初に行い、そのあとダートムーアのニンカンの順です。

サバイバルポケットの肛門から便を取り除き、その中にカメラを持った手を突っ込んでいきます。エコーによって子宮内まで映し出されたモニターを見ると、綺麗な黒い円が映りました。これは間違いなく受精卵とのことで、受胎が確認できました。サバイバルポケットは受胎が良く、今回もイチハツで決まり、「サバはさすがだな」と慈さんは感心しています。この流れでダートムーアもと行きたいところですが、前回が不受胎であり、昨年のスパツィアーレの不妊の件もあって、僕は自信を失っています。正直に言うと、不受胎が当たり前になってしまって、慈さんから「不受胎でした」と言われても、そうですよねという感想しかなくなっています。むしろ「受胎しました」と言われたら「えっ!」と驚いてしまいそう。

3番バッターが出塁して、自分に良いところでチャンスが回ってきた不振の4番バッターのようだと思いつつも、不安を悟られないように明るく楽観を装い、獣医師さんに「お願いします」と伝え、手を突っ込んでもらいました。モニターを見るのが怖い気持ちでいっぱいです。それでも仕方なく獣医師さんに言われるがまま見てみると、黒い円形のものが出てきません。「この〇(マル)は違うな。受精卵であればもっと綺麗な〇(マル)になるから、おそらく水泡だろう」とのこと。

繁殖牝馬が高齢になると子宮内に水泡ができやすく、不妊や流産の原因になりやすいのです。ダートムーアも16歳ですから決して若い子宮ではありません。今回もダメだったかと思っていると、もう片側を映したとき、獣医師さんが「あっ!」と声を発しました。

(次回へ続く→)

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