[有馬記念]いくつもの「夢」が叶った日 - 1993年有馬記念・トウカイテイオー

「野球は筋書きの無いドラマ」という言葉は、使い古されている表現かもしれない。
しかしこれは、野球だけに当てはまる言葉ではないだろう。私が愛して止まない競馬の世界でも、目にすることがある。
その出来事を安易に『奇跡』『ミラクル』なんて言葉で片付けてしまうのは、何だかちょっと口惜しい気もする。

予想もしない出来事が目の前で起こったとき、人間はどんな反応をするのか。

「驚く」ということはほとんどの人がすると思うが、歓声をあげたり、叫んでみたり、涙を流してみたり──人よって違うだろう。

私の競馬の入り口は、まさにこの“予想もしない出来事”が起こったレースだった。1990年、オグリキャップが引退レースとして選んだ有馬記念を勝ったのが私の“競馬デビュー”なのである。
多くの人の期待を裏切って「もうダメだ」「これ以上期待するのは酷」と言われたオグリキャップは、ラストランを見事に勝利して競馬場を去っていった。
この出来事が刷り込みのように私の脳にインプットされたからだろうか、その年最後の大勝負と言われる有馬記念はもちろん、それ以外のレースでも起こるはずのない、いや、起こる可能性が極めて低い結末を望む体質になってしまった。

年齢を重ねると「涙腺が緩くなる」ということはよく言われることだがご多分にもれず、私自身も40歳を超えて涙ぐむことが多くなった。
2020年は、中山グランドジャンプのシングンマイケルのレースで「悲しい涙」を流し、コントレイルが菊花賞で無敗の三冠を達成した際にテレビ画面から聞こえてきた拍手で出たのは「感動の涙」だった。
素直に感情を表現するようになった、と言えば聞こえは良いかもしれないけれど、中年男性が涙を流す姿は、時と場合をわきまえないと見栄えの良いものではないかもしれない。

しかし10代や20代の頃は<泣きたいけど、泣いたらカッコ悪い>というプライドのようなものがあった。
1993年の有馬記念も、おそらく今の私なら涙を流していたと思う。

けれど、自分の気持ちに蓋をして努めて冷静に振る舞っていた。


この年、1993年の有馬記念は現地、中山競馬場で私は観戦していた。一緒に居たのは同級生の女の子だった。
実家は由緒ある呉服屋さんを営んでおり、周りからは「お嬢」と呼ばれていた子だった。
ありがたいことに、この子は当時の私に興味を抱いていたようで、私が「競馬が好きだ」というと、ウソか本当か分からないけれど「一度、行ってみたいと思ってた。連れて行って欲しい」と言われた。
もちろん当時の私も、少なからずその子に好意は抱いていたけれど学校の外、ましてや休みの日に遊ぼうと誘い出す勇気は、持ち合わせていなかった。
だから相手から「一緒に競馬に行きたい」と言われて、嬉しくないわけがなかった。

初めて競馬場に行く人をエスコートするなら、場内が空いている土曜日を選んで行くこともあるかもしれないが、そのときの私は
「どうせなら、大きいレースの方が良いよね?」
「有馬記念っていう今年最後のG1レースを一緒に観に行こう」
と、「お嬢」を誘った。
当時の有馬記念は、その3週間前に発売される前売り入場券がないと中山競馬場に入ることが出来なかった。私は自分のためでもあり、また「お嬢」のためでもあったが、12月1週目の日曜日の朝、前売り入場券を買いに早起きして、当時の自宅から最も近かったWINS渋谷で前売り入場券を2枚、手に入れた。

有馬記念当日の中山競馬場は、大変な混雑だった。

場内はいろんなところで押し合い圧し合いが起こっており、今年最後のG1レースを楽しもう、なんて雰囲気はあまり感じられなかった。当時は携帯電話なんてものもない。はぐれてしまったら、よほどの偶然が起きない限りその日に再会なんて出来る状況ではない。
せっかく競馬に興味を持ってくれたのに、この大勢の人だかりのせいで競馬を嫌いになってしまうかも……と、私は不安になっていた。
それでも「お嬢」は私と一緒になって馬券を予想して、運良く的中馬券を手にすることもあり、初めての競馬場に悪いイメージは無い、とレースの合間に言ってくれたのは救いだった。
今でも覚えているのは、この年のグッドラックハンデ。「お嬢」が
「真冬なのにサマーワインなんて名前の馬がが来たら、おもしろくない?」
と言って、二人してサマーワインという馬から買って馬券を的中させたことは今でも覚えている。

メインの有馬記念は、トウカイテイオーに本命を打った。

この年の有馬記念3日前の、明け方のこと。私は寝ながら夢を見たのだが、珍しく夢の内容をハッキリ覚えていた。
それは、トウカイテイオーが1年ぶりの出走で、勝利する夢だった。
しかも、翌日のスポーツ新聞の一面を飾るトウカイテイオーの写真まで夢の中で私はしっかりと見ていた。
だから、もし1年ぶりの出走とはいえトウカイテイオーが勝てば、私の見た夢は予知夢となるわけだし、こんな感動的なことはない、と思っていた。
「お嬢」も私の予想に乗っかる、ということで二人ともトウカイテイオーの単勝馬券を購入。
私はさらに、トウカイテイオーを軸にした馬番連勝を8点買い足した。

混雑した場内の状況を考えて、馬券は予め早い時間に買ってしまっていた。
あとはどの場所で観戦するかを考えれば良かったのだが、場内の椅子はすでに埋まって人が陣取っていたし、立って見ようにも通路にも人が溢れかえっていた。
どうにか私と「お嬢」は観戦するスペースを確保して、そして1993年最後の中央競馬のG1競走のファンファーレが鳴った。

メジロパーマーがハナに立ったものの、前年のような大逃げではなかった。
1番人気のビワハヤヒデ、2番人気のレガシーワールドは先行策。
そしてトウカイテイオーは中団から少しずつポジションを上げていく理想的な展開。
1年前の有馬記念では押しても引いても動かなかったけれど、折り合いもついて良い手応えで4コーナーを回ってきた。
そして抜け出したビワハヤヒデと併せ馬の形になって外から抜け出したのは、赤い帽子のトウカイテイオーだった。
トウカイテイオーが勝ったのが分かった瞬間、私は目を大きく見開いて
「やった!トウカイテイオーが勝ったよ!!」
と、一緒に居た女の子に向かって叫んだ。自分の見た夢が予知夢となって目の前で起こったのだ。

強いトウカイテイオーが戻ってきたことで、私の涙腺は崩壊しかけていた。
前年の1992年の春と秋の天皇賞の凡走からの、ジャパンカップでの復活走。
そして有馬記念での大敗、骨折。
1年ぶりの出走がグランプリ有馬記念というのも、常識で考えれば「ありえない」話だ。
けれど、自分が見た夢が「予知夢にならないか?」という期待をしていたということは、心のどこかでトウカイテイオーの復活を待ち望んでいたと思うし、その夢が叶って強いトウカイテイオーが帰ってきたことで、馬券的中とは別の喜びが胸を支配していた。

それでも私は泣くことを必死になって我慢していた。

女の子の前で泣きたくない、ましてや好意を持っている「お嬢」の前でなんて、なおさら……。
そんなプライドが、私をそうさせていた。


この日に叶った夢は、有馬記念でトウカイテイオーが勝つだけではなかった。
二人の馬券は見事に的中し、競馬の後、ほんの少しだけ豪勢なごはんを食べに行けた。
そして、私と「お嬢」はこの後すぐに「彼氏と彼女」という関係になった。
<願えば叶う>ということが立て続けに起こり、とてもハッピーな気分で年末を迎えられた。

けれど、良いことばかりは続かない。

トウカイテイオーはこの1年ぶりのレースで勝利したものの、再びケガをして引退。
この有馬記念が最後の出走であり、最後の勝利となった。
私と「お嬢」のお付き合いもあっという間に終わり、再び“ただの同級生”という関係に戻った。
そして私が有馬記念を次に的中させるのは14年後の2007年になるとは、この当時は想像もしていなかった。

競馬に関する予知夢を見たのも、このトウカイテイオーが最初で最後。
ディープインパクトやキタサンブラックなど、何頭も名馬を見てきたけれど、夢にまで現れたのはトウカイテイオーだけ。それだけ私にとって特別な存在なのかもしれない。

それから多くの時が流れて、競馬の楽しみ方にも変化があった。コロナ禍に揺れた2020年以降、競馬場には入場制限が敷かれることになり、私と「お嬢」が見た1993年のスタンドの風景と今の競馬場とでは、まるで違う光景になっている。

それはすごく残念だけれど、それでも毎年『有馬記念』の時期がやってくるたびに、泣くことを我慢したこと──そして
『願えば叶う夢もある』
ということを思い出させてくれるのだ。

写真:かずぅん

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